読書録

シリアル番号 785

書名

信長の棺(ひつぎ)

著者

加藤廣(ひろし)

出版社

日本経済新聞社

ジャンル

小説

発行日

2005/5/24第1刷
2006/4/10第18刷

購入日

2006/7/4申し込み2006/8/27入手

評価

鎌倉図書館蔵

小泉首相が読んで良かったとコメントして有名となったときは興味を持たなかったが学士会報No.859(2006-IV)に著者自身の解説で「英雄は眠れない」ー信長評価の変遷ーと題した講演でこの小説を書いたその観点を語っているのを見て読む気になった。 講演の要旨は:

「人の評価は、柩を覆って定まる」という言葉は英雄には当てはまらない。その後の時代評価の嵐は柩の上の暑い土石を吹き飛ばして英雄を眠らせておかない。

徳川時代は信長の評価は最低であった。この神君を、終生、部下に準じて扱い、神君の妻と嗣子(しし)を殺させたとんでもない男だからである。

明治時代は列強の圧力の下、富国強兵という時代の流れによって天皇の権威を高めるため秀吉が選ばれた。明国平定という海外進出の気宇壮大さも評価されたためである。

戦後は侵略を断罪されて秀吉に代って家康が再登場した。

高度成長期に入ると家康の縮み思考では飽き足らなくなる。秀吉もまずいということでようやく信長が登場するのである。しかししばしば褒め過ぎになる。事実はどうだったのか?

信長が「兵農分離策」を採用した近代武将というほめ言葉がある。しかし兵農分離は信長が発明した策ではなく、濃尾平野ではすでにそうなっていたのである。木曽三川に「四刻八刻十二刻(しときはっときじゅうにとき)」という言葉がある。これは山地の雨が濃尾平野を激流となって流れでてくる時間である。揖斐川(いびがわ)8時間長良川16時間、木曽川24時間という意味だ。ことほどさように当時の濃尾平野は水害多発で米作に不向きな土地だった。いきおい農民は桑を植え、蚕を飼って絹織物を生産した。この労働は女性によってになわれ、男はヒマだった。だから信長は暇な男を通年兵として雇うことができた。「楽市・楽座」も主産物の絹織物の流通に必要だったからである。あくなき上洛指向も市場確保という目的だった。近代兵器の鉄砲の採用も米作という土着性の弱い尾張兵が弱卒だったからできたことだ。武田武士には鉄砲に抵抗感があった。信長は当時のヨーロッパにも芽生えていなかった農民による民主革命思想である一向宗や石山本願寺を弾圧し根絶したという汚点があるのだ。このような観点にたって本小説を書いたところベストセラーになった。

茨城大助教授磯田道央は農業が中世の粗放農業から家族を中心とする、高密度農業になったため、余剰農産物が増え、武士は農業労働しなくても良くなったからであるという。また量を確保するために濃尾という広大な面積も必要としたと。これを彼は濃尾システムと命名。

さて本小説は箱根の旅の間も読み続け約1週間で読破した。多量の史実を渉猟して若干冗長であるが、結末は意外でまことによく出来ている。信長がどのように死に、その遺骸はどうなったかという本書の謎解きの結論を言ってしまってはこれから読もうとする読者の楽しみを奪うことになるのでしないが、ヒントは丹波にある。ここは山に囲まれた深山幽谷の地で古来、都からの落ち人が隠れたところである。次のヒントは秀吉は濃尾の出身ではなく、丹波を出て濃尾に移った都からの落ち人の子孫としているところである。こうすると桶狭間も本能寺も秀吉の情報と陰謀の勝利ということになり、それなりの説得力をもって読者を魅了する。



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