奥州

八甲田山・八幡平・岩手山

2007年10月1-6日、wakwak山歩会は奥州にある3つの名山をハシゴする欲張り山紀行を楽しんだ。3つの名山とは八甲田大岳(1,584m)、八幡平(1,613mはちまんたい)、岩手山(2,038m)である。いずれも百名山である。マイカーを活用して同時に紅葉、酸ヶ湯温泉、網張温泉、啄木の渋民村、南部藩の盛岡城跡を楽しむ旅でもあった。

第1日目

江ノ電の一番電車で鎌倉経由、桜木町に6:30集合。 マーさんの車で一路、今日の宿泊地酸ヶ湯温泉に向かう。運転手交代、昼食、給油のため佐野SA、安達太良SA、長者原SAで一時停車しただけで16:30に到着。長者原という名は昔ここで金が採取できたからと聞く。

今年の5月上旬、ロータリークラブ・ハーレー会の東北バイク・ツーリング時に 酸ヶ湯温泉を訪れた。大学時代の記憶と全く異なってしまっているのを見てガッカリした。今回、宿の廊下で1960年代の酸ヶ湯の写真を発見してすっかりうれしくなった。スバル360が写っているので1960年代の酸ヶ湯であろう。(Hotel serial No.403)

記憶にあった1960年代の酸ヶ湯

昔ながらのヒバ造りの千人風呂を満喫。学生時代に一緒に行った女子学生が「入り口は男女別なのに、中は一緒など詐欺に等しい」と怒っていたが、最近は若い女性もムームーを着て、亭主と仲良く一緒に混浴を愉しんでいる。好奇な目でジロジロ観察されるとこちらの方もムームーを着たくなる。時代があきらかに変わっている。

 

第2日目

今日も晴天で登山日和だ。八甲田大岳が酸ヶ湯の上に姿を現している。3回目にして始めて見る姿だ。

現在の酸ヶ湯と八甲田大岳

今日のルートは酸ヶ湯(910m)8:00発⇒仙人岱(たい)⇒大岳11:05着、11:55発⇒大岳避難小屋12:25着⇒上毛無岱(けなしたい)⇒下毛無岱⇒酸ヶ湯である。標高差674mで垂直登坂速度224m/hであった。

案内書に駐車場脇の鳥居が登山口と書いてあったが、これは薬師神社の鳥居で登山口の鳥居はチョット奥にあった。カケス、アカゲラが鳴いている。聞きなれない鳴き声はウグイスの笹鳴きだとマーさんが教えてくれる。

沢を上り詰めるとそこは仙人岱。ここは大岳、小岳、硫黄岳に囲まれた窪地である。夏は高山植物の宝庫だろう。

大岳中腹より南方を望めば、南八甲田山連峰を背景に中央に硫黄岳と仙人岱を俯瞰できる。 仙人岱はアオモリトドマツの林にとりかこまれ、硫黄岳の南面は残雪のため樹木は育たず、笹原となっている。南八甲田山連峰の後に十和田湖がひかえているはずだ。

大岳中腹より南八甲田山連峰を望む 手前中央に硫黄岳と仙人岱  3枚合成

大岳山頂より東側を望めば、火口、コニーデ形の小岳、高田大岳、離岳が見える。

大岳山頂より噴火口、小岳、高田大岳、離岳を望む

東北側に目を転ずると、今年7月散策した田代平湿原が見える。その向こうには小川原湖と下北半島の六ヶ所村の巨大な原油備蓄基地と核燃料再処理施設が森の中に白く浮き上がってみえる。石油も枯渇しかかると、原油備蓄基地が何の役に立ったのだろうかという思いがまたふつふつとわきあがってくる。エンジニアリング企業に席を置いた者にとっても当時からこれは税金の無駄使いと思ったが、政府が仕事をくれるというので尻尾をフッタだけで 、空しい仕事ではあった。OPECに揺さぶられて泡を食らい、オーバーリアクションをしただけで、大局観のないのが我が民族のリーダー達のサガかと思う。

北を望めば、噴火口を大岳に向けた井戸岳とその向こうに赤倉岳が見える。田代平湿原から見上げた赤倉岳はその名前のもとになった赤色の赤倉断崖が見えたが、ここからはその断崖は見えない。

北西には青森の市街と陸奥湾そして津軽半島が見える。そして西側には岩木山が見えるはずであるが、雲の中であった。

全員集合 マーさん撮影

さすがここは百名山、八甲田ロープウェイ経由の団体登山者の一団が大岳非難小屋から大勢登ってくる。我々は歩く人の少ない上毛無岱、下毛無岱へと下った。紅葉はいまだの感があるが、下段の下毛無岱にはかなりの池塘が見え、高層湿原の雰囲気を持っている。夏に来れば 、すばらしいお花畑が迎えてくれるであろう。

下毛無岱

途中、夕立が来たのには驚いた。小高い尾根を越えて、ブナ林の中を酸ヶ湯に下った。ここで贅沢に2泊し、疲れを癒した。

 

第3日目

酸ヶ湯温泉8:00発で八幡平に向かう。鹿角(かずの)八幡平ICより国道341号線で後生掛温泉経由アスピーテ・ラインを八幡平に登る。八幡平山頂近くのレストハウス駐車場に10:35着。1996年9月の「平泉・八幡平・蔵王山周遊ドライブ」の時と同じだ。その時は台風直後で風は強かったが、今回はおだやかである。八幡平山頂には今回は時計回りで登る。11:05山頂着。記念撮影後、八幡沼展望台より八幡沼越しに源太森方面を望むと昨年と同じ風景が見られた、少し紅葉が進んでいる。

八幡沼展望台より八幡沼越しに源太森方面を望む 2006/9/19

源太森山頂より八幡沼越しに八幡平山頂方面を望む

八幡沼のある湿原を通過して源太森に向かう。12:00源太森山頂着。ここで昼食。源太森山頂から八幡沼越しに八幡平山頂方面を望むと楯状火山(たてじょうかざん アスピーテ)の形状がよく分かる。

本日の宿泊地は休暇村岩手網張温泉である。(Hotel serial No.404)時間が少しあったので石川啄木の生地、渋民村の石川啄木記念館を訪問する。(Museum Serial No.248)石川啄木を一級の歌人にしたのは妻節子だという。

 

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひきて 妻としたしむ   石川啄木

 

第4日目

低気圧の通過により天気が崩れそうという予報が変わらない。一日予定を延ばして、今日は盛岡観光に当てることに決定。

盛岡藩(南部藩)の盛岡城は北上川に中津川が合流する角地に二つの川を天然の堀として築城したという。現在北上川は蛇行して川筋が変わったため、堀は消えてなくなった。もともと小山であったところを掘り下げて築城したらしく、烏帽子岩という巨大な岩石がそのまま残されている。明治期にこの石を祭る桜山神社が建造された。明治維新には城の建物は自発的に解体し、現在は石垣が残るのみで岩手公園となっている。

 

不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心    石川啄木

 

歩いてみると本丸はあったが、天主閣はなかったようである。本丸の中央に日露戦争時、満州井口嶺で戦死した南部家42代の南部利祥(としなか)の陸軍騎兵中尉の銅像が設置されていたらしく、その台座が残されていた。第二次大戦中、軍需物資として供出されたため 、失われたという。彫刻家新海竹太郎の作と言う芸術性の高いものでおしいことをしたと思う。八甲田の山中にある雪中行軍遭難銅像は目立たないために後世に残った。明治維新の際、朝敵となった汚名も供出の動機となったかもしれぬとおもう。

南部藩の盛岡城跡

旧岩手銀行

中津川河畔

中の橋を渡って旧岩手銀行の赤レンガビルを見物した。Wakwak山歩会のメンバーの郷里は長野市だが、若き頃、長野信用金庫の本店も同じような赤レンガだった。しかし近代化で失われてしまったことをコンチャンが思い出し、盛岡の人々の見識を賞賛していた。盛岡市庁舎脇の中津川の対岸には古風な土蔵が残されていて、風情がある。

ついで雫石川と北上川と中津川の合流点にゆき、雫石川の濁流が澄んで青くみえる北上川に滝のように流れ込む様を見物し、新渡戸稲造の生誕の地を訪問して盛岡訪問を完了した。

「歌人の石川啄木、ユーカラの研究者金田一京助、宮澤賢治、 新渡戸稲造、後藤新平など岩手は人材を生んでいるね。しかし実業家は居ないのかな」とコンチャンがつぶやく。強いてあげれば星製薬や星薬科を創設した星一が居るが、東大閥官僚らがのさばる内務省にいびられて業績は伸びず、息子 の星新一は作家になった。

カワトク・ デパートで昼食をとり、明日の山の食料を調達し、今夜の宿、網張温泉の「ぬくもりの里NUC」にチェックインする。(Hotel serial No.404)温泉は循環式であった。

岩手山の登山ルートは柳沢口と計画していたが、登山口と頂上との標高差が1,400mになる。網張コースはスキー用リフトで1,300m地点まで登れ、標高差700mとなる。 週末のみ運転で8:00から運転開始というが、長い縦走を伴うので初心貫徹ということに決った。

雨は夜半から明け方まで降った。

 

第5日目

ようやく待ちに待った岩手山登山日となった。雨は上がっている。柳沢口の馬返し駐車場(630m)に車を置き、8:00登山開始。露岩帯を避け、樹林帯の中に付けられた新道を登る。 時々小雨がパラパラと来るが、雨雲が風に流される天気雨である。ザックカバーだけにする。暖かいのでTシャツ一枚で登る。

六合目付近では我が庭に生えているアシタバに似た多年草が沢山生えている。本来太平洋岸に自生するものなので不思議だ。さすがのクリさんもセリ科の植物というだけで名は知らないという。

六合五勺目付近まで登ると巨岩がゴロゴロする旧道を下る登山者も見え始め、その向こうに小岩井牧場が見える。 七合目の矛立で眺望がひらけ山頂を見ることができる。ここで旧道と新道が合流する。

六合五勺目付近から小岩井牧場方面を望む

13:00八合目避難小屋(1,760m)着。標高差1,130mを5時間かかったので垂直登坂速度は226m/hである。避難小屋は三重式の西岩手火山の火口底にある。食料や着替えを置いてすぐ出発、頂上に向かう。

九合目の不動平から二重式の東岩手火山への火山礫の斜面の登りとなる。ちょうど浅間山と似た感じである。 風が強く寒いのでゴアテックス張りのフリースのヤッケを着ているのに半ズボンで登る元気な人もいる。東岩手火山の外輪山の縁に達してから、立ち並ぶ石仏を見ながらその縁を半周すると最高峰の薬師岳山頂にたどり着ける。折りからの強い西風で縁からころがり落ちないように注意しながらのぼり、薬師岳山頂に到達した。ここからなまめかしいオッパイのような形の中央火口丘の妙高岳を望むことができる。だれかが乳首を模してケルンを積んでいる。下の合成写真では近くにあった鉄柱は支持ケーブルを残して消えている。これは遠方の風景が合うように合成したため、至近距離の鉄柱は視差のため、中央のフレームに隠れて消えてしまうためである。

岩手山薬師岳山頂より中央火口丘の妙高岳を望む 3枚合成

山頂に居たのは我々と地元の我々と同世代の熟年婦人一人であった。彼女は年に3回この山に登るという。富士山には13回登ったという。東北の山に比べ、アルプスの山容は迫力があり、魅せられてしまったという。 我々が6日間も山を遍歴していると聞き、「替え下着を何着持って来ているのか?」と聞かれた。「車で来ているので速乾性の下着上下を6日分用意し、山小屋分だけ担ぎ、残りは登山口の車に置いて来ている」と話すと「自分はそのようなことはできない」と残念がっていた。しかしよく考えれてみれば宅急便で行く先々のホテルに送っておけば不可能ではない。

薬師岳山頂からは姫神山は眼下にみえるが、早池峰山(はやちね)は雲に隠れて見えない。八合目の非難小屋は東岩手火山の外輪山の陰になっ て見えない。

目を北西に転ずれば、一昨日登ったアスピーデ型の緩やかなスロープを持つ八幡平と少し左手にトロイデ型の畚岳(もっこだけ1,578m)を望むことができた。

岩手山薬師岳山頂より八幡平と畚岳を望む

記念撮影をしたのち、外輪山を一周して火口底の岩手山神社奥の院に参拝し、外輪山を越えて八合目避難小屋に下る。15:15着。 (Hotel serial No.405)

岩手山山頂にて  マーさん撮影

避難小屋には御成清水という湧き水があり、この水をマーさん持参のプロパンストーブを使って沸かし、アルファ米の夕食を摂る。久しぶりにアルコール抜きだ。

家族の反対を押し切って初めてこの山に登ったという地元の50才代の主婦2名が「素晴らしかった」としきりに感激していた。20:00消灯。消灯とともに携帯電話が使えるようになる。擬似交流が電波妨害をしているらしい。

毛布5枚借りて寝る。ストーブに火があるうちは2枚掛けで、夜半を過ぎて室温が下がると3枚掛とし、ついには靴下を履き、ズボンとフリースのジャケツを羽織るはめとなった。

日没とともに雨が降り出したが、夜半には満天の星空となり、トイレに起きるたびに、久しぶりの天の川と、刻々と変わるカシオペア、北斗七星、オリオン、さそり座、射手座、プレアデス星団 (すばる)などを見た。小学生の頃、冬であったと思うが、月が「すばる」をよぎる星食を観測しようと小牧学校の宿直室に担任の久保田眞行先生と泊り込んだことがある。しかし暖かいコタツにもぐりこんでいたため、夜半には熟睡してしまったことを思い出す。先生はスヤスヤ寝ている子供達を起こすのは気がとがめたと述懐しておられた。

 

第6日目

6:00起床。風も収まって寒いがすがすがしい朝だ。眼下に姫神山が美しい円錐形の姿を表している。クリさんが「姫神山に登った人は岩手山と早池峰山のどちらかを選ばねばならず、両方に登ってはいけない」という。姫神山が嫉妬して祟りがあるためという。岩手山山頂に一緒に登った地元の熟年婦人は「そんなことは知らなかった。三つとも登ったが祟りはなかったよ」という。

八合目避難小屋から二重式の東岩手火山を望む  クリさん撮影

湯を沸かしてアルファ米の朝食を摂ったのち、7:00下山開始。10:00登山口着。標高差1,130mを3時間かかったので垂直下降速度は377m/hである。 登山口から 滝沢村の相の沢温泉に向かう途中、県肉牛生産公社滝沢牧場と鞍掛山越 しに岩手山を望める場所がある。ここからは見事な岩手山の姿を見ることができるが、最高峰の薬師岳山頂は東岩手火山の外輪山の縁に隠れて見えない。

県肉牛生産公社滝沢牧場と鞍掛山越に岩手山を望む

相の沢温泉の「お山の湯」で汗を流し、昼食を摂る。「お山の湯」は沸かし循環式である。(Hot spring Serial No.246)

滝沢ICで東北道に入り、ひたすら車を走らせた。帰路天気が回復傾向で東北道を何度も往復したうちで一番の日本晴れとなり、いつも雲の中の栗駒山、蔵王山、吾妻山、安達太良山の溶岩ドームの乳首山、那須岳の茶臼岳、日光連山がよく見えた。19:00には無事、桜木町に帰着できた。

宿泊・交通・食費は一人当たり約5万円であった。

October 10, 2007

Rev. June 26, 2008


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