読書録

シリアル番号 726

書名

国家の品格

著者

藤原正彦

出版社

新潮社

ジャンル

思想

発行日

2005/11/20発行
2005/11/30第3刷

購入日

2005/12/4

評価

??

新潮新書

大船の駅ビルで時間つぶしに書店を訪れ、衝動買いする。タイトルが目を引いたのと、帯に資本主義の勝利は幻想、情緒の文明を誇れ、英語より国語と漢字、論 理の限界を知る、民主主義より卑怯を憎む心である武士道精神の復興を、家族愛、郷土愛、祖国愛、人類愛、真のエリートを求める普通の国より異常な国になる べきなど気になる言葉があった。非論理性丸出しで和や道徳心を説く指導者層の偽善性が気になる私にとって逆のことを説くこの人の言い分を知ろうと買い求め た。

著者は作家の新田次郎(諏訪星陵出身の筋骨と精神力をともなう気象庁の専門家として富士山頂のレーダードーム建設をした藤原寛人氏)と作家の藤原ていの次 男でコロラド大で数学科助教授だったという。ぱらぱらとページをめくって買うことにしたのだ。

一晩で読破してしまった。欧米流の価値観を皮相的に鵜呑みにする危険性を説いている。日本古来の価値観によいところが沢山あると指摘。ただこの日本的価値 観を金科玉条にするやからが出てくる危険性も感じた。

欧米は野蛮であった、自然への感受性が高いことが今後の地球環境への対処を含め、大切という全体のトーンは松原久子の「驕れる白人と闘うための日本近代史」と類似の考え方である。

同じ数学者で経済学者の小室直樹氏は「悪の民主主義 民主主義原 論」ではきちがえた民主主義について語っている。藤原正彦も同じ論旨だがもっと過激だ。 たしかに辺見庸がいうように民主主義は愚昧の浸透圧により、愚昧の平衡状態をつくるきらいがあることはその通りだ。そしてファシズムへと進む危険はある。

著者は小室直樹と同じくそもそも自由、平等、民主主義はプロテンタンティズムにはじまる。ローマ教会の権威を否定するためにカルヴァンが著書「キリスト教 綱要」で「救済されるかどうかは、神の意思によりあらかじめきめられている」という「予定説」 を展開したという。救いの確証を得られない人々はそれならと「自分はあくまで救われる側に入っていると確信し、疑念がわいたらそれは悪魔の誘惑としてはね つける」ことにした。ついにジョン・ロックが所有権の正当化と「個人は快楽を追及してよい、全能の神が社会に調和をもたらしてくれる」とした。アダム・ス ミスに至って「個人は利己的に利潤を追求すると、神の見えざる手に導かれて社会の反映は達成される」としたのもロックの思想の流れ。マックス・ウェーバー がカルバン主義から資本主義まで1本の筋が通っていると明らかにしたとおりである。ところが、この民主主義は必ずしも機能しないことが明らかになった。第 一次大戦と第二次大戦は時の指導者が国民の圧倒的な支持で開戦に踏み切っている。すなわち民主主義や主権在民は平和を保障するものではない。ロックやモン テスキューが言いはじめた三権分立もいまでは第一権力となったマスコミの支配下にある。ポピュリズムの始まりである。小泉政治もこの上に乗っている。「国民は永遠に成熟しない」の だ。民主主義の暗黙の前提が崩れてしまっていると 著者はいう。シュペングラーもデモクラシーは西洋の没落の原因の一つに なるだろうと予言しているが著者も同じロジックのようだ。

これを防ぐのが真のエリート。真のエリートたる条件は2つある。第一に庶民とは比較にならない圧倒的な大局観や総合判断力を持っていること。第二にいざと なれば国家、国民のために喜んで命を捨てる気概があること。この真のエリートが日本では絶滅した。旧制中学・高校がこの養成機関だったのだが米国が意識し てつぶしたためである。現在の東大は偏差値エリートに過ぎない。しかるに英国のパブリック・スクール、オックスフォード、ケンブリッジ、フランスのグラン ゼコールはいまもそのようなエリートを生み出し続けている・・・と 著者は言う。

司馬燎太郎が「熊野・古座街道 種子島みち ほか」で真のエリート育成 の場として薩摩の二才組(にせぐみ)という若衆組が効果があったと指摘している。二才組の伝統は旧制中学に 吸収合併されていたのだ。

「第二にいざとなれば国家、国民のために喜んで命を捨てる気概があること」の条件を満たす人は絶滅して久しく、「もしでてきたら危険な存在になるリスクも あり」とわがつれあいは言うとおり 著者は日本を戦争に導いた軍人を含む官僚達の愚民思想の危険性に言及していないのは片手落ちだろう。

塩野七生が「再 び男たちへ」で「すべての革命は、その旗印となった思想によって勝利をおさめるのではない。「革命」を起す以前に存在した支配階級よりも、より有 能な支配階級を育成できたか否かによるのである」という古代ローマ史の一節を引用しているように 真のエリートを持つ幸運は民主主義であろうが、なんであろうが変わりはない。しかし真のエリートは養成できるものではない。場を与えられて出るべくしてで てくるのだから厄介だ。 戦前の旧制高校がエリートを育てたと著者はいうが、結果は太平洋戦争で終わったではないか。すでにこのエリート教育は破綻していたのだ。

チャーチルは「民主主義は人類 の知る最低のシステムだが、これまで実験されたシステムの中では最高である 」と言っている。これでよいのではないか?

明治にナショナリズム=国益主義とパトリオティズム=祖国愛の概念が欧米から流入したがこれを愛国心と訳して、国をあやまったと著者は指摘している。養老孟司や「スカートの風 チマパラム」を書いた呉善花が指摘しているように言語=思考 なのだ。

ところで小室直樹氏は「日本人のための経済原論」でマッ クス・ウェーバーの定義したpatrimonial bureaucracyを家産官僚制として忌むべきことにしているが、著者はこれを奨励しているのかどうか。

著者は東京女子大の創立者、新渡戸稲造がまとめた「武士道」に書かれたような多少キリスト教的な考え方の入った武士道精神の復活を提唱している。著者が父 の新田次郎から徹底的にしつけられた「卑怯を憎む」心なども欧米のノブレス・オブリージの精神に近いものなのだろう。

カルバンの予定説とロックの王権神授説、自由、平等、国民主権が現在の指導原理だが、これはキリスト教原理主義にすぎない。原理主義はイスラムも含め危険 思想だ。かわって日本式の自然を愛でる情緒と武士道精神などのロジックを越えた形が自由、平等より上位概念だと世界に示す義務がある。品格ある国家こそ文 明国を荒廃から救う唯一の救済策でないかと著者は結んでいる。

著者はこの本は大真面目で自分の信じることを書いたといっているが、巻頭1ページ目に「もっとも、いちばん身近で見てる女房に言わせると、私の話の半分は 誤りと勘違い、残りの半分は誇張と大風呂敷とのことです。私はまったくそうは思いませんが・・・ 」とちゃんとバランスをとっている。

著者の奥様は東大のT理学部長のお嬢さんである。著者と奥様の両方をまだ独身時代から知っている大学の技術系教科書出版の老舗、内田老閣圃の内田君 が「正彦氏が、一目ぼれをしたようで結婚に至りました。いつも、ぎゅうぎゅう、奥方に痛めつけられている様子が、彼の本 で散見されます」と伝えてきたので巻頭の言葉を伝えると「あの、お嬢様が、あのように逞しく変わるとは・・・・。 矢張り女は、魔物です ね」 という。でも彼女も彼も半分ずつ正しいというのがまえじま氏だ。たしかに藤原氏のエリート待望論は危険な風潮でそういう意味で奥様の感覚に好感を持 つ。 教育だけでエリートを養成しても「興産 なきものは恒心なし」で小心翌々と利己的な行動にでる輩が続出するだろう。

この本はその後ベストセラーになったようで朝日の社説や書評にしばしば登場するようになった。英国流のブラックユーモアだとの指摘があるが、そうい う感覚で読むと心が晴れる。


この本を読んでから1年間、どうしたら本当のエリート教育ができるか考えてきたが共立女子大学の鹿島茂教授が「日本の教育再建」という題目で行った 学士会夕食会で行った講演が回答になっていると思うのでここにご紹介する。(学士会会報2006-VI No.861)氏の意見は一言でいうとフランス式エリート教育を採用すればいいというものである。

「人間はすべて自己愛か らなっている。それを前提とした性悪説にたって社会を築いていかない限り、結局は善意に基づいた王国を建設しようとすると、皆殺しの社会になっちゃうよと いうのが、フランス革命を経た教訓なんですね。だからエリート教育というものは、一種必要悪であって、エリート校がなくなったら社会は成り立っていかない という、非常に厳しい認識から出発しているのです。

そこへいくと日本は、フランスのカトリック的な、自己愛にすべての根源があると考えなくて戦後六十年の民主主義の成り立ちというものが、どうもこ う、ヨー ロッパからアメリカを経てきたプロテスタントの潔癖主義、人間は矯正しようとすれば全員善意になりうるんだという、プロテスタンティズムの倫理主義が、ア メリカの、極端に言えばGHQの民生局のあたりからやってきたとしか思えない。そうした戦後教育のひずみが、そろそろ現れてきたんじゃないかと思っている わけです。

今、日本にいちばん必要なのは、エコール・ノルマルのように全寮制で、しかも月謝は無料というような学校ではないか」

2006/11/30の朝日に英国レスター大のスチュアート・ボール博士が英国の保守の考え方に関して述べているのもこれに一脈数ずるものがある。 以下に紹介する。

「英国の保守主義を語るときに欠かせない視点は、キリスト教が説く「原罪」という考え方が深くかかかわっていることだろう。

人は善をなすよりも、はるかに悪に染まりやすい。人間という存在のもろさ、甘い誘惑への弱さに対する冷徹な観察が、保守の根底にある。

理想主義的な改革者や左翼急進派の人たちは、人が善意に満ち、だれもが進歩できると考える。保守主義者たちは、なるほどそれらは素晴らしい考えだ が、簡単には実現できないナイーブな夢想だと考える。現実世界に対する悲観的で懐疑的な見方だ。

社会は異なる組織や個人が有機的に結びついて成り立っており、さまざまな人々が集まって自然なヒエラルキー(階層)を構成しているという見方だ。

それはどう見ても平等な社会ではないが19世紀には各自の階層を受け入れる代わりに、上の階層の指導者たちは下層の人達に施し、面倒をみる『責任と 義務』を負うという考えが英国で支配的になっていく。

20世紀後半には保守主義たちもさすがにもっと平等という視点に配慮するようになる。それでも階層意識はぬぐいがたく、個人の実力や行動によって地 位を向上させる『機会』は与えるが、国家が地位向上を保証するものではない、という考え方は今日にも引継がれている。

愛国心が階層間の対立を棚上げにして国民の統一に使われた時代もあったが、現在では国家は個人の内面についてあれこれ指図すべきでない。個人の自由 な選択を尊重するという風に変わった。これは英国の保守の良質な部分といえる 」

小林慶一郎は自由主義を説いて

「自由主義とは、為政者(政治家や官僚)の理性や能力には限界がある、という謙虚な認識から出発する。為政者の理性には限界があるから、個々の国民 が、市 場で自由に生活を立てるしかない。そのためには、市場を出来る限りフェアで自由なものにするしかないというのが自由主義思想の筋道だ。かっては官僚は間違 いを犯さないという『官僚無謬神話』が常識のように受け入れられてきた。しかし年金にみられるごとく、いまやそれはナンセンスだということを疑う国民はい ない。それでもいい人が首相になれば、あるいは官僚組織を変えれば、市場競争よりももっとよい政治が実現するのではないかと考えたくなる。自由な市場競争 で社会が旨く回るという考えには人間の本能が反発する。しかし理性の限界を哲学的に突き詰めれば、どんなに優れた政治家や官僚がでようと、絶対に越えられ ない限界があることに気がつくはずだ。たとえば、為政者が相手にしなければならない政治とは、自分自身を内部に含むシステムである。そこには逃げられない 自己言及のループがあるのである」

ようするにこと政治に関してはエリートがリードする社会など破綻するというのが理の教えるところなのである。

Rev. March 24, 2008


2017年まで藤原正彦氏は日本会議の主要メンバーとは知らなかった。

日本会議など の共通する思想は、天皇制というシステムそれ自体を崇拝するfetishism(物神崇拝)なのだ。天皇と呼ばれる人間の意思・思想・行為ではなく、シス テムを神とする。ちなみにfetishismとは、人間ではなく、衣服などを性欲の対象とする〈異常性愛〉のことだ。現代の知的教育と呼ばれるものは、学習する「内容」への興味を消し、無目的に「勝つため」の人生を歩ませるが、そう扱われた人々は、「形式知」(パターン 知)の中での順位が絶対という精神構造になる。可能なのは、ただ一つ、システムそれ自体の維持だ。このような精神疾患者が、自民党を中心として国会議員中 280名以上いるのは、まさに異常。多分、これが日本没落の原因だろう。

といわけで、読みながら??だった理由が分かった。本書は危険思想と烙印を押してよいだろう。

エリートはどんな高邁な道徳教育をしても一旦権力をにぎれば腐敗するのは大帝国がみな失敗したことからも見て取れるし、戦前の日本のしっぱいを見ても明白だ。

Rev. December 28, 2017

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