読書録

シリアル番号 760

書名

熊野・古座街道 種子島みち ほか

著者

司馬遼太郎

出版社

朝日新聞社

ジャンル

紀行文

発行日

1979/1/20第1刷
2005/2/25第21刷

購入日

2006/4/12

評価

街道をゆくシリーズ8

紀伊半島の旅の準備として買う。拾い読みしている。ここに熊野の若衆組ないし若衆宿がでてくる。薩摩の郷中制度、二才組(にせぐみ)、二才衆(にせしゅう)も同根である。若者に自治権を与えるもので権威あるものとされたリーダーは若者のなかの年長者で人望があるものが勤めた。西郷もその一人でリーダーシップを学ぶには最適であったろう。この風習は南方系であ ったため、薩摩とか熊野に残ったものらしい。中国や朝鮮など長幼の序を重んずる儒教の国ではありえない組織である。モンゴルなどアルタイル系文化にもなかった様である。 中国と朝鮮が強い儒教の影響下で近代化に遅れをとったのに比べ日本が一足早く近代化に成功したのは南方系の若衆組の自治の精神、平等の精神が貢献したかもしれないという司馬の論理は意外に当たっているかもしれないと思う。

私が子供の頃、信州においても戦前は若衆組みに似た風習はあり、若衆組みの前の幼年組みとでもいう組織のリーダーをさせられたこともある。年寄りから”よばい”の話なども聞いた覚えがある。司馬によれば”よばい”は現代で考えるような不真面目な遊びではなく、一生のパートナー探しという目的をもった真剣なものだったようで、複数の男に夜這いされて子供が出来ちゃった女は彼女の好みの男を決める権利をもっていたそうである。 大学の同窓生が10人集まった会で”よばい”をどう理解しているか聞いたところ、フリーセックスの風習というものもあれば、足入れ婚というまで振幅があった。このなかで足入れ婚がもっとも真実に近いのだろう。源氏物語の 妻問いの世界がそれに近いのではないか。

若衆組は共同体の軍隊のようなもので、治安はもとより山火事の火消しも担当していたという。 命をかけた戦闘集団の性格が強調された二才衆では女人禁断の気風がつよく男の友情が強調されたため念友・衆道が花咲いたところという。この辺は白洲正子の「両性具有の美」にくわしい。

戦前の旧制中学・高校という存在が若衆組に取って代わって若衆組の風習をつき崩した要因のひとつだったのだろう。たしかに旧制中学 ・高校には若衆組の風習が残っていたと思う。藤原正彦が「国家の品格」で”旧制中学・高校が真のエリートの養成機関だったのだが 、米国が意識して六三三制でつぶした”となげいている。しかし米国に責任をなすりつけただけで、本質をついていない。若衆組に責任をとる自治をさせてはじめてエリートが育つわけで、教官が管理・教導する仕組みでエリートが育つはずはないのだ。

牧祥三の解説で展開されているように土居健郎の「甘えの構造」で指摘されるような若衆組が村なり国にもつ甘えの依存関係がうまく調整できていれば明治維新の薩摩兵児のような創造的破壊がなされるが、うまく調整されないと破壊エネルギーだけが突出して西郷隆盛が調整できず担ぎ上げられた西南戦争、青年将校が起こした二・二六事件、ひいては若衆組化した陸軍の暴走による太平洋戦争、戦後の大学紛争、ラジカルな左翼運動へと突き進むことにもある。

司馬の小説「翔ぶが如く(全2巻)」は若衆組と「甘え」と「甘やかす」の間の調整がうまくゆかないとどうなるかをテーマにした小説である というが小説を読んだ当時は気がつかなかった。

以上の考察は司馬は熊野の古座街道を旅しながら土地のヒトから情報を拾い集めて考察するのだ。種子島の旅では元殿様の話から種子島は熊野と海上交通で室町時代から直結していたのではないかという考察をしている。

古座街道の人々はいまだに神武天皇が熊野を通過して大和に入ったと信じているという。司馬遼太郎は記・紀の神代巻は、六世紀の大和の史官の造作物とした明治時代の津田左右吉(そうきち)説を信奉していたのかもしれない。しかし津田左右吉が間違っているという古田武彦の九州王朝説にたてば神武天皇は実際に熊野を通過したことになる。


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