ノースウエスト・アース・フォーラム

川上書簡

わが山登り

    八ヶ岳は、小生の生涯を通じてもっともなじんだ山です。南に比べてやさしい,蓼科山、北横、縞枯山、茶臼山、麦草峠、白駒池、ニュウ、高見石、天狗岳、夏沢峠、みな何度となく登り、歩きました。頂上一歩手前で体調不良で引き返した赤岳。ある時は「朝日新聞山とスキーの会」の仲間と、ある時は駒場寮の旧友を誘って、だが大半は独りで。

    単身赴任で8年間住んだ茅野駅前のアパートからは、これらの山のすべてが朝な夕な見晴らせた。山々は夏は緑の影濃く、冬は白銀に輝いた。登山口の渋の湯や美濃戸口まで茅野駅から今ではバスでおよそ一時間だが、「日本百名山」の深田久弥のころは、 夜行列車で着いて重いリュックとテントを担いで登山口までさえも一日以上の歩程だったとう。だから、さして険しくもないのに山中に小屋が多い。八ヶ岳を別名「小屋ヶ岳」という。

   昭和24年の夏、松本の小学校5年生の集団登山で、北アルプスの燕岳に登った。大糸線の有明(?)駅からトラックの荷台に全員乗せられ中房温泉まで行った。まだ日本の敗戦からわずか4年、定期バス路線とか、ましてや貸し切りバスなどというものはなかった。一泊して、翌早朝登り始め、頂上の背の低い這い松の中に寝転んだりして、午後一時過ぎには中房温泉に降りてきた。翌日は、前々日トラックで走った埃っぽい道を、炎天下駅まで歩いた。十数キロあったのではないかと思う。

   当時薄暗い松本駅には、汚れた大きなリュックサックや麻のザイルが所狭しと放り出されてているのをよく見かけた。あたりには、大学の山岳部員らしい男達がうろうろしていた。日焼けしてひげぼうぼう、汗くさい彼らは、北アルプスの山中深く何日かあるいはもっと過ごし、これから中央線の夜行列車で新宿へ向かうところだったのだろう。ナイロンザイルの事故を取り上げた井上靖の小説「氷壁」が新聞に連載されたのはそれから何年かあとだった。

   それから50年後、上記八ヶ岳に登っていたころのことだが、燕岳へのセンチメンタルジャーニーならぬセンチメンタル登山をした。今度は中房温泉までタクシー。翌早朝登り、正午には頂上近くの燕山荘に着いた。60代の初めになっていたが、登りは極端にスピードが落ち、小学生時代の身軽さがなんとも懐かしかく、時の流れを痛感した。このときだったか、信州の山の関係者に、半世紀前の話をしたら、その人はいきなり「松本の付属小学校ですか」という。学制改革の直前でわが小学校は長野師範女子部付属松本小学校といった。そして、われわれを皮切りに、この燕岳への学校登山は恒例となって長年続き、県内では有名になったらしい。

   長野市の中学生時代は2年生の秋、やはり学校登山で、妙義山に登った。信越線松井田駅の近くの宿に泊まった。もみじが美しかったこと、危険な絶壁の岩から岩へ引率の先生に抱きかかえられるようにして渡ったことを思い出す。高校時代は独りで戸隠山に登ったことがあった。おにぎりと水筒、セーター一枚の、山登りというよりはハイキング気分だったが、蟻ノ塔渡りは思いのほか険しく、足がすくんだ。暗くなって帰宅したら、母親に「あなた、独りで山へ行くのはやめて」といわれた。

   母校長野高校の校歌「山また山」に、「そびゆる白馬の雪の峰」という一節がある。確かに長野市からは白馬や槍ヶ岳まで望める。岳都といえば松本、と全国的に思われているが、長野市からも北アルプスは近い。ただ、当時は長野市内からその方向へ山道にはバスも乏しく、北アルプスまでは遠かった。それをぐっと近づけたのが言うまでもなく先年の冬季長野五輪である。今では、東京から山登りやスキーで白馬行く人たちが新幹線で長野まで来てあと車で一時間足らずでというのだから、隔世の感がある。

   1957年(昭和32年)の夏、志賀高原から白根山を経て草津温泉に下った。山登りというよりは高原歩きだった。草津温泉は古くからの湯池場の雰囲気を濃く残していた。文無しのわれわれは路傍の無料の小さな風呂で汗を流した。風呂場には硫黄が厚くこびりついていた。廃線間近の草軽電鉄で軽井沢に出て、信越線で長野市に戻ったのは夜中近かった。行きは長野電鉄権堂駅から湯田中へ、そこから志賀高原へどうやって上がったのかは今思い出せない。滋賀高原では、信州大学の寮というか山小屋に泊めてもらった。これももほとんど無料だったと思う。同行仲間のリーダー山岸哲君(後年の日本を代表する鳥類学者、現山階鳥類研究所名誉所長)が信州大学に入学したばかりだった。ほかに東北大学に入ったばかりの竹内学君、浪人中の栗原重厚君らがいっしょだった。みんな中学の同級生だった。私は、その一月父を失い、次いで大学の入学試験に落ち、家族とも別れ一人でアルバイトをしながら長野市で浪人暮らしをしていた。不安の真っ只中の短い山歩きを、思い出すと今でも涙の出る思いがする。

   学生時代から社会人生活にかけて長いこと、山には関心がなかった。そんな時間もカネもなかったと言うべきかもしれない。

   1977年、朝日新聞特派員としてジュネーブに赴任した。新聞社の支局といえば、一人勤務とはいえ街中のオフィスかと思うが、支局は街はずれの、昔は森の中の別荘地だったという古い山小屋風の住宅、そこが自宅兼事務所だった。私の赴任する何年も前のことだが、当時まだ若かった日本の女流登山家今井通子が、不要な荷物をこの支局に預けて、欧州アルプスに入山したという。

   新聞のジュネーブ特派員の主な仕事は、国連欧州本部に詰めてそのニュースを取材することだ。ここは戦前の旧国際連盟の本部だった壮麗な建物で、記者室からは目前のレマン湖の水面を隔てて欧州アルプスの最高峰名山モンブランが遠望できた。来る日も来る日も、モンブランを眺めながら暮らした。モンブランは、ジュネーブから車で2時間ぐらいのフランスの登山基地シャモニーに行くと有名なケーブルカーで、登るというよりも吊り上げられえるという感じで4800メートルの頂上近くまで行く。ケーブルカーの窓越しに目前数メートルに切り立つ絶壁は恐怖心をかきたてる。在任4年間に、日本や欧州各地からのからの来客を何度ここへ案内したことだろう。高所では頭がくらくらする私はしまいには、客だけケーブルカーに乗せ,下で待っているという要領まで覚えた。

   頂上近くまで行ったもう一つは、ユングフラウだ。これはスイスの登山基地グリンデルワルトから登山電車で登った。電車は大半の時間はくりぬいた岩壁の中をごとごととよじ登り、やはり岸壁の中の終着駅ユングフラウヨッホに着く。小さな展望台に出ても、プラットホームの岩壁をくりぬいた展望窓から覗いても白銀の世界が広がっていた。この展望窓のガラスの目前に遭難したロック・クライマーの体がぶら下がったことがあったが、半永久的に壊れないように、どんな烈風にも耐えられるようにできている窓の内側からはどうすることもできなかった、と聞いた。

   仕事では、当時の日本の岩登りのトップ・クライマー長谷川恒夫の取材をした。彼は当時欧州アルプスの三大北壁の厳冬期登頂を狙っていた。グりンデルワルトからの登山電車の中継駅クライネシャイデッグの付近で、北壁の一つアイガー登頂に成功して下りてくる彼を待ち構えて話を聞き、近くのホテルから東京へ電話送稿した。こちらは急遽買い込んだ長靴、彼は昨夜の絶壁での排泄物をお尻の内側の袋に携えたまま、膝までの雪の中での取材だった。次の年、1979年彼はグランドジョラスも攻略し、三大北壁の厳冬期登頂を完成した。このときも、私は、フランスの登山基地シャモニーで降りてくる彼をつかまえて談話を聞き、東京へ打電した。長谷川さんの奥さんもシャモニーで待機していた。

   あれから二十数年後、2005年だったか、私は中国・新疆省でパキスタン国境、5000メートルのクンジュラブ峠をバスで越え、7000メートル級のヒマラヤ山々を眺めながら、パキスタン側をバスで、首都イスラマバードへこれもバスで何日かがかりで降りていった。私は1973年から74年にかけて駐パキスタン特派員だった。何十年ぶりかのセンチメンタルジャーニーだったのだが、途中の急峻な谷底の小さな町で、パキスタン人ガイドが「ここで日本人の長谷川という女の人が、パキスタン人の子供のための学校をやっている」といった。私はあっと思った。長谷川がどこかで岩登り中に墜死したことは、かすかに知っていたが、それがここだったのだ。未亡人は夫の骨と山をよすがに、ここで生きていたのだった。

  1981年にジュネーブから東京へ帰任した。その年の秋分の日に、私は奥多摩湖の湖畔のベンチで仰向けに寝転がっていた。流れる雲を眺めていた。ただ、気まぐれに青梅線に乗っだけだった。なんとなく鬱屈した気分がそうさせたという以外ない。そのときふと、流れる雲を眺めながら、山登りをしてみようかなと、思った。まず奥多摩、丹沢などを登り尽し、信州の北、中央、南アルプスはもちろん、上越、東北の山々にも足を伸ばした。ニューヨーク特派員在任中の2年半ほどは中断したが、そのあともずっと続いた。6,7年前に狭心症で冠状動脈にステントを入れる身となり、断念したが、最後は北アルプス奥穂高だった。数えてみるといわゆる日本百名山のうち30近くを登ったことになる。

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September 16, 2010


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