ノースウエスト・アース・フォーラム

川上書簡

裁判員制度

2010年10月4日 10:35

川上です。

飯田、S.K.両氏からのメールでは、事実関係が良く分からないのですが、飯田メールによれば、裁判員制度について、誰かがコメントしているようですので、小生もちょっと物申してみま す。コメントの内容を知りもしないで、物申すのは不謹慎とは思うのですが、之は反論では なく私の意見です。

裁判員制度の眼目は、裁判にシロウトを参加させるところにある、と私は解釈しています。 なぜ、いまさら、シロウトを、参加させるのか。若いときから、ゴリゴリに法律に凝り固まった 視野の狭いプロの法律家だけに裁判を任せておくよりは、もっと広い世間の常識に従った 判断を裁判に導入する、ということなのでしょう。

だが、シロウトの裁判員が裁判に加わったからといって、裁判がよりよいものになるとは、私はおもわない。冤罪が少なくなり、有罪・無罪の判定、量刑がより合理的になるとは思わない。これらのことについてずぶのシロウトである裁判員に、どうしてそんなことが期待できよう。知識の水準、法律的な体験、それを現実に適用するための判断力においてプロの法律家を上回る裁判員などいるはずがない。

したがって、私は、案が出てきた当初から裁判員制度には反対であり、今もって反対である。 仮に、私が被告の立場だったら、裁判員に裁かれることなど、御免こうむりたい。

欧米には、確かに陪審制度がある。しかし、陪審制度は裁判員制度とは違う。

裁判員制度は、間違った民主主義です。少し言い過ぎになるが、衆愚政治の一端といえようか。まさか、裁判所の自己弁明、責任回避とまでは思わないが。

裁判の過程と結論にもっと常識に基づいた広い視野を、と言うなら、そういう人材を法律家として採用するとか既成のプロの法律家をその方向に教育、訓練するほうが先決ではないか。少なくともその方が合理的に思える。いい加減な司法試験用の予備校である法科大学院(あまり役に立たないことはすでに証明されている)などつくるより、そのほうが良い。

 

 

2010年10月4日 12:59

川上さん、

図書館にいって才口氏の500字の「交遊抄」読みました。コピーしなかったので言葉を正確に思い出せないというより、別役氏が本当はなにを言いたかったのか理解できない言葉でしたし、詮索してもしょうがいと思いました。私が勝手に漠然と感じたイメージは「人間の本性から見て滑稽」とでもいうようなものでした。法律的にどうのこうのという次元をこえた作家的コメントとおもいました。

陪審制度と裁判員制度の違いなど違いはよく知らないのですが、私はコモンセンスを重視する英国の伝統から発する陪審制度は司法を法律の専門家だけにまかせないということで良しとしています。私自身も特定の分野で専門家ですが、専門家も人、結局偏った判断することもあるし、素人はもっと間違った判断すると思いますが、所詮、社会は人と人の関係、多様性の中で正しいらしいものに近づく努力をする意味はあると思っています。判決の成否は兎も角、なにより教育効果で民度が向上するのではないでしょうか。

グリーンウッド

 

 

October 04, 2010 5:26 PM

S.T.にことら こと 飯田です。交遊抄 全文以下の通り。グリーンウッド君には昨日郵便でコピーなんか送って損したな。

「1961年3月に卒業した県立長野北高(現長野高校)は、旧制中学のなごりを残しバンカラな校風で個性豊かな同期生が多かった。別役実君(劇作家)、山岸哲君(山階鳥類研究所名誉所長)たちである。別役君はクラス誌の表題を生徒の"声”から"悲鳴”に変えさせたり、運動会の仮装行列で全身に木の葉をまとい"万葉集”に見立てたり、当時から人と違った物の見方に優れていた。劇作家として名をなして不条理劇を得意とする彼と、司法界に身を置き38年余の弁護士生活の後、最高裁判所判事を5年弱務め、条理に慣れ親しんだ私とは正反対の生き様だが、なぜか気心の通じ合うところがある。去年の秋、著名な落語”らくだ”を戯曲化した彼の芝居を見にいったとき、久しぶりに会った。はじまったばかりの裁判員制度の話になった。控訴審で市民が入らない制度の疑問に加えて ”なにか人間が人間のドラマをやすっぽくつくり直している感じがする” と指摘された。 長らく法曹として人間を見ることをないわいとし、制度の早期定着を願っていたこともあって、彼の "人間を見る目” の鋭さに驚かされ、改めて峻厳な裁判の重さ思いをいたしたのである。」

川上君のいわんとする正論筋に根本で通じるものが、別役君の 一言 に尽くされているように、感じますが。才口君は そこに 面食らったんでしょうね。

 

 

2010年10月4日 18:32

飯田さん、

正確な表現ありがとうございます。

川上さんの法律論は正しいとして、裁判官も組織の人、組織のなかで階段を登るために心が曇ることもあるでしょう。今回の特捜の検事をみても分かるとおりで、このような弱い人間の心のつっかい棒として人間のドラマをやすっぽくつくり直そうと、また裁判員制度は陪審員制度に比べて劣っていようともまだましと思うのですが?

書生論でしょうか?

PS; 別役氏の文言をよく読みなおすと。「控訴審で市民が入らない制度の疑問に加えて ”なにか人間が人間のドラマをやすっぽくつくり直している感じがする”」

ということは折角下級審で市民が判断したのに控訴審で職業裁判官が自分の出世のために安っぽく作りなおすという意味もにとれますが。

グリーンウッド

 

 

2010年10月5日 7:51

飯田、S.K.、グリーンウッド さん

まず、飯田大兄、才口君の日経の交友抄の全文をお送りいただきありがとうございました。
横着にも、才口君の文章を見ずに、裁判員制度を、大上段に振りかぶって、話題にしたのは、小生の勇み足だったかと思います。交友抄を読んでも、別役君のコメントの筋さえ分かりませんし、そもそも才口君も裁判員制度を論じるために、あの文を書いたわけでもないでしょうから。

グリーンウッド、S.K. さん、小生の雑文に対してコメントを、ありがとうございました。

小生は、先便で、裁判員制度を、制度の法律的(というより法律家的)側面からに限って論じたのですが、そしてそれは話を際限もなく広げないためだったのですが、これは多少の誤解を生んでいるようですので、少し付け加えます。それから、もう一つ、裁判員制度がそうであるように、ここでは小生は、法律のうち、刑法を念頭においています(民法は刑法より倫理的な側面が少ないし、死刑と言う罰もない)。

人が人を裁くなどと言うことは本来、不可能です。人間を裁けるのは、神のみでしょう。犯罪の「罪」という言葉が宗教と深く結びついていることもそれを示しています。私は宗教的な人間ではありませんが、人が人を裁くコトの「不可能さ」をあらわす方法として,神と言う言葉を借用します。

しかし、やはり現実の人間社会と言うものがある以上、そして罪を犯すものが後を絶たない以上、人が人を裁く事は避けられない。そこで、人が恣意的に人を裁くのをなるべく避けるために、人間は法律というものを創った。人智の集大成として法律を創った。古代エジプト文明、旧約聖書、ギリシア哲学、儒教ーーーーーー日本の法律といえどもこれらすべてを淵源としています。だから、人を裁くのに法律家は法律の条文を読んで、解釈して、それを適用できさえすれば良い、と言う話ではないと私は思います。かなり高度の資質と能力、倫理観、想像力が要求されます。

実際問題としては、勉強の足りないのが判、検事、弁護士になっても困るので司法試験と言うものがある。それでも、冤罪事件も、量刑不当も、起きるし、証拠を改ざんする検察官さえいる。

だから、裁判員を裁判に参加させて、裁判の質を向上させようとしているわけでしょう。結論を急ぎます。それでも、裁判員の手で裁判の質が向上するなどと考えるのは、大間違い、と小生は考えます。ずぶの素人の裁判員の理解力、判断力がプロの法律家のそれを上回る、などとは考えられない。むしろ、既成の法律家に広い視野と、常識的な市民の目線を習得させることのほうが良い、と考えるのです。

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October 7, 2010


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