アドリア海紀行  その7
  ヴェネツィア・スロヴェニア・クロアチア・サラエボを訪ねて 10日間
5月8日(水)  ドヴロヴニク  

 今日も快晴。今回の旅行の大きな目玉のひとつ世界遺産ドヴロブニクの観光。

 13世紀以降ドヴロヴニク共和国は地中海交易の一大拠点としてアドリア海のヴェネツィア共和国などと競い合って海上商業都市国家として1805年ナポレオンによって解体されるまで栄えた。
 
 その美しさから「アドリア海の真珠」といわれ、 バ−ナ−ド・ショウは「ドヴロブニクを見ずして天国を語るなかれ」 といっている。
 地名はクロアチア語のDUBRAVA樫の木に由来し、ドヴロブニクと呼ばれる前、すなわち15世紀まで使われてきた地名はラテン語のRAGUSA(英語のROCK)ラグ−サ共和国といわれた。
 
 写真撮影の場所へとスルジ山への道に。そこで数分ドヴロブニクの俯瞰の写真・ビデオを。ドヴロヴニクの定番の写真撮影場所か。
 
 ピレ門の前でバスを降り旧市街に入る。現地ガイドは中年女性のSILVIJAさん。日本の外遊客船飛鳥2号が入港し、その客が今日は観光しているので、人は多い。また、飛鳥のアテンダントの姿もあちこちに見る。

 ピレ門は旧市街を2kmに亘り分厚く囲む城壁の西側に開かれた門で、門に入るには石橋と跳ね上げ橋を渡る。門は城壁から半円形に張り出しており守護聖人ヴラホ像がはめ込まれている。ユ−ゴ紛争で大分破壊されたそうで元のように修復されている。
 オノフリオの大噴水の写真をとり、フランシスコ主導印に入る。
ドヴロブニクは1667年4月6日大きな地震が起こり、大聖堂を含め多くの建物が崩壊した。スポンザ宮殿と同様この修道院の回廊と中庭は災難を免れた。回廊は2連柱のロマネスク様式で天井近くの壁面には、聖人フランシスコの生涯が描かれているが、損傷が著しい。
壁面には古地図、各国お歴々の訪問者のパネル。14世紀の建設で15世紀には中庭と噴水が追加されている。
 
 修道院の内には創業1337年の現存するヨ−ロッパで3番目に古い現役の薬局があり、1377年には伝染病の病院、1347年高齢者施設が開かれたというようにドヴロブニクが社会福祉の先進都市国家でもあった。薬局博物館があるが、入場しなかった。 
  ピレ門から奥の時計塔まで東西の道路はプラツァ通りで約300mあり、ライムスト−ンが敷き詰められ両側には排水路が設けられており上水道の設備など15世紀から衛生に気を使っている。両側には店舗やカフエが並び道を挟んで両側に細い小路が通っており北側の路地は階段が厳しい。数軒の家屋には内戦のときの弾痕が残っている。
 路地を入ったところにシナゴ−グ がある。
 ピレ門をまっすぐ歩くとルジャ広場。ルジャ広場の肘真意はロ−ラント像が建っており右手の肘から手までを51.2cmを商売取引の長さの基準にした。ルジャひり歯に面してスポンザ宮殿、オノフリオの小噴水、聖ヴラホ教会市庁舎、旧総督邸がある。聖ヴラホ教会以外には入場しなかった。1444年いたてられた時計台は今でも時を刻んでいる。時計の上にはブロンズで作られた鐘つき人が鐘をたたき時を知らせている。
ユ−ゴ紛争で犠牲となった人たちの写真と当時の模様がビデオで展示されている。1991年12月6日ユ−ゴ連邦軍(セルビアとモンテネグロ)がスルジ山より2000発に及ぶ砲撃を旧市街に放ち、破壊的状態にした。1991年から98年まで危機遺産に降格したが、人々の復元努力により世界遺産に復活した。1979年い世界遺産に登録されている。
 時計台の下のもんをくぐり旧港に出る。島巡りの様子を聞き、城壁・ロクルム島をめぐるクル−ズを全員が考慮して大聖堂の見学をする。
 大聖堂は大地震後の1713年バロック様式で再建。12世紀、7世紀の教会基部が見つかった。主祭壇には16世紀のティッツィア−ノの『聖母被昇天』が掲げられている。宝物館には聖人の遺骨を納めた聖遺物入れがぎっしりを壁面のガラスの中に展示されている。
 グンドリッチ像が建っているグンドリッチ広場には露店が並び、ス−パ−KONZUMもあり、デジカメの電池を購入したが不良品であった。500年続く靴工房を扉越しに見学。
 イヴァン・グンドリッチは17世紀の著名なドヴロヴニクの詩人。
奥の階段をOさんと急いで上り、聖イグナチオ教会を見学する。
 プラツァ通りの両側には小さな小路がある。オドプチャ通りには小さな店が並び、セルビア教会もある。1階が店舗で2階が住居。店の家賃は高いそうだ。
スポンザ宮殿は1520年に建築され、ゴチック・ルネッサン様式の建物でかって税関や商品検査所として使われ、現在は公文書館になっており、ドヴロヴニクの歴史を知る上に貴重な資料が収められている。
 合議制を原則にしていた共和国は1ヶ月交代で総督を選出した。その旧総督邸は博物館になっている。
 そのあと、旧港に行き全員、城壁とロクルム島を巡る約40分のクル−ズに。10人以上で1人30ク−ナ。
HOTEL LERO ドヴロヴニクの眺望 スルジ山
ピレ門のピレ像 ピレ門 ピレ門
オノフリオの大噴水 オノフリオの大噴水 フランシスコ教会
フランシスコ教会 ドヴロヴニクの古地図 薬局
フランシスコ教会各国お歴々の訪問 聖フランシスコの生涯 プラツァ通り
プラツァ通り プラツァ通リ 弾痕
弾痕 ルジャ広場 オノフリオの小噴水
シナゴ−グ正面
ロ−ラント像
詩人イワン・グンドリッチ像(ドヴロヴ゙ニク出身) グンドリッチ広場 ネクタイCROATA
セルヴィア教会 聖ヴラホ教会 500年続く靴修理工房
 
正面:スポンザ宮殿 右:市庁舎 内戦の犠牲者 大聖堂
大聖堂内陣 大聖堂宝物庫 旧総督邸
 11時10分城壁・ロクルム島めぐりのクル−ズ。10人以上1人30ク−ナ。港を離れ、聖イヴァン要塞を右に見て、南の分厚い城壁を岩上に見ながら、南に進み海上をロクルム島に。島をぐるっと一巡り。島には港から船で行くことができる。ロクルム島にはハプスプルブ家の要塞、ベネディクト派の修道院、更にヌ−ディスト・ビ−チがある。船はプライベ−トビ−チを持つARGENTINA HOTEL等を横に見て港に11時40分戻る。
  
 プロチェ門を通り、MAESTOSOでシ−フッドリゾットでム−ル貝や野菜サラダ。
昼食後、1時過ぎにフリ−タイムとなる。城壁めぐりをピレ門で4時と約束してK氏とドミニコ修道院に行く。フランシスコ修道院と同様に回廊と中庭は素晴しく、チチア−ノの絵画展を見学、その後同じ院で行われていたナイ−ヴ絵画の展示即売会を見る。ナイ−ヴア−トはクロアチア内陸部の伝統画で透明なガラスに絵を描き、裏から干渉するようになっており独特の透明感がある。K氏、購入に迷われた。その後、ネクタイのCROATAで土産にネクタイ3本購入(1500ク−ナ)。
ドヴロブニクの城壁巡り と クル−ズ の 動画 を ご覧下さい。 ここ を クリック してください。
旧港を出航 城壁 城壁
聖イヴァン要塞 ロクルム島 ロクルム島
ロクルム島 HOTEL GRAND VILLA ARGENTINA 船の呼び込み
プロチェ門 プロチェ門 プロチェ門
プロチェ門 プロチェ門 MAESTOSOで昼食
ドミニコ修道院 ドミニコ修道院 ナイ−ヴア−ト即売会
 午後4時よりみんな揃ってピレ門の城壁入口より城壁へ。50ク−ナ。10名で1人30ク−ナ。城壁は約2kmで1時間ばかりの歩きであるが、写真・ビデオと忙しくおよそ100分くらいかかった。山側からアドリア海を臨む方向がベストと聞き、私とK氏その他数人はミンチェタ要塞を目指し。時計周りに歩いた。この回り方は最初に城壁の道が坂になり、また階段の段差もきつかった。ひざの悪い小生はひざをかばいながらの遊歩であった。反時計回りのほうが階段の段差が少ないようだ。ミンチェタ要塞からの眺望は素晴しくオレンジ色の屋根瓦、ところどころ光沢に変化のある屋根瓦があり、内戦による破損を今までのように復元しているのである。壁から下を見ると、廃墟のようになっ場所を修復している人々の姿も拝見できた。ボカ−ル要塞の辺りに来たとき、ボ−ボ−と汽笛の音。海の方向を見ると丁度飛鳥2号の出航だ。大きな船体。手を振っている人も見える。数百万から数千万の費用のかかるゴ−ジャスな船旅。城壁を降りて、フランシスコ教会でROSE油、クリ−ムを買う。また、オノフリオ噴水の前でク−ニを少し買う。
  
城壁・外交・共和国:
 城壁は7〜8世紀に見地がはじめられたようで、13世紀から17世紀まで数世紀にわたり、絶え間なく増強されてきた。ミンチェタ要塞、聖イヴァン要塞などは14世紀。
 ヴェネツィアの後隙に備え、プレ門など海側の壁を二重にしている。また、ドヴロヴニク共和国は反面巧みなる外交でオスマン・トルコなどの諸勢力に対して献納金を治め(1447年トルコと条約)バルカン諸国での自由な商業活動に成功している。

 防御を固めながら、巧みなる外交で都市の自由と独立を守った。
城壁の上り口 ピレ門 フランシスコ教会鐘塔
ミンチェタ要塞 ミンチェタ要塞 ミンチェタ要塞
ミンチェタ要塞より 中央:聖ヴラホ教会 奥:大聖堂 ミンチェタ要塞より   時計塔 聖ヴラホ教会
ブジェ門? レヴリン要塞の脇の出入り
旧港 旧港桟橋
海洋博物館 内戦による廃墟? 砲門
飛鳥2号の出港 ボカ−ル要塞 西の城壁
城壁の民家 プラツァ通り プラツァ通り
 午後6時半K氏とピレ門を出たところのタクシ−乗り場へ。タクシ−を交渉。1台200ク−ナで決着し、スルジ山に行く。スルジ山でどのくらいいるかと聞いてきたが案外ゆっくりとさせてくれた。標高412mの山頂には旧ユ−ゴ時代ケ−ブルカ−が通じていたが、内戦で駅やレストランなどの施設が完膚なきまでに破壊された。1991年12月6日ユ−ゴスラビア連邦軍(セルビア、モンテネグロ)によってこの山からドヴロブニクは砲撃を受けた。
 この下に見える森にドイツ人がゴルフ場をこしらえるとのこと。
地雷が一時期、埋まっていたが現在は標識のドクロマ−クは見なかった。7時40分、このタクシ−でLERO HOTELに戻り、ヴァイキングの夕食をとる。

クロアチアの国旗と国章
ナポレオンの十字架 夕刻の旧港 ゴルフ場になる予定
スルジ山の破壊されたケ−ブル駅 ケ−ブルの残骸
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