アドリア海紀行  その6
  ヴェネツィア・スロヴェニア・クロアチア・サラエボを訪ねて 10日間
5月7日(水) スプリット旧市街観光→ ドヴロヴニク 
 ホテルの部屋のテラスから、朝日に光るアドリア海越しにスプリットの港には大きな客船が停泊している様子が見られる。
 スプリットはアドリア海東岸の最大の港で、対岸のイタリアのアンコ−ナ、ペスカ−ラ、バ−リとフェリ−で結ばれており、またダルマチア中部の島嶼との船舶も出ている。

 1979年ディオクレティアヌス宮殿とスプリットの歴史的建造物群が世界遺産に指定されている。
 8時45分徒歩で旧市街に向かう。約10分の距離。現地ガイドはイヴァナさんで、トロギ−ルで案内してくれたガイドのお姉さん。海に面した広々としたプロムナ−ドでは、何かの準備中。ガイドに聞くと、今日は市の守護聖人ドムニウスの日で祝祭が行われるとのこと。最適の日に観光することになるのか。
 海沿いのプロムナ−ドは昨年拡張整備され綺麗になったが、地元市民には不評。
 古代ロ−マ帝国のディオクレティアヌス皇帝(在位284〜305年)は皇帝を引退したあとの隠居用に寒村であったこのスプリットに宮殿を建てた。
 皇帝の死後300年以上経って7世紀スラヴがサロナを攻撃し住民はこの廃墟となっていた宮殿に住み着き、20世紀初頭にはスラム化していた。一応整理され現在の姿になった。

 プロムナ−ドに沿って、細長いぶ厚い壁のような建物。一階にはショップやカフェが入っており、二階部分の古い石壁が穴の開いた宮殿城壁とつながっており、不思議な外観はなんとも言いがたい光景。
 ディオクレティアヌス皇帝はスプリットの北西5kmのサロナで解放奴隷の子供として生まれ、属州モエシアの総督、執政官などの職を経て、軍隊の親衛隊長になり、兵士たちの推挙により、284年にはロ-マ帝国の皇帝となった人である。ディオクレティアヌスの前の時代の211年より73年間、実に22人の軍人皇帝が登場しては謀殺され消えて行く時代であった。また、自ら引退をきめ、再選を推挙されたが辞退した人でもある。
 2世紀初頭トライアヌス帝の時代にロ−マ帝国の版図は最大となったが、同時に常に蛮族やペルシャなどからの防衛が大変であった
ディオクレティアヌスは帝国の版図を守るために二頭政、さらに四頭政をとり、帝国の東方と西方それぞれに正帝と副帝を置き、四人の皇帝が防衛を分担するという統治システムをとった。

 塩野七生さんのロ-マ人の物語13巻の「最後の努力」に詳しく著述されており、興味深い。

 
 
ホテルのテラスより MARJAN HOTEL 現在の市の模型
 海に面した建物群の中ほどにある南門(銅の門)をくぐり宮殿に入る。宮殿は建設時約200m四方の城壁に囲まれており、東西南北に四つの門があった。この銅の門は当初は直接、海に面しており船からの入口であった。
 門を入って階段を降りると、そこは地下道になっており、宮殿の右の地下入口から入場して、内部の見学をする。もともとはこの部分は一階部分で地盤沈下で地下室になったもので、太い壁と柱で仕切られた空間が幾つにも広がっている。
 我々が訪れたときに丁度フラワ−展がこの地下宮殿を利用して行われており、日本の華道とは違うが彩り豊かな大柄の花が遺跡の石や壁、床を利用して見事に展示されていた。おまけをもらったような感じ。
 壁は卵と泥と水で塗られたとの説明。皇帝の居室もかなり発掘されたが現在の住居がそこにあり大変であるとのこと。16世紀のオリ−ブオイル油をとる装置やカヌ−やスキ−の上に花を乗せての展示など素晴しいものであった。
 宮殿の両側に店舗のある地下通路をまっすぐ行くと地上に通ずる出口に出る。宮殿中庭である。
 広場の両側には12本の列柱が建ち並んでおり、実にロ−マの遺跡という感じ。出口の右側には多くの列柱に囲まれた八角形の建物の大聖堂。教会にしては不思議な形であるが、元を正せばここはディオクレティアヌス帝の霊廟であり、7世紀に教会として改築されたのである。
 ディオクレティアヌス帝はキリスト教を大規模に迫害した最後の皇帝で、帝と同郷サロナの初代司教聖ドムニウスもその迫害で死亡している。まことに歴史の皮肉か?
 我々が中庭に出たときに、聖ドムニウスの祝祭行事が大聖堂内で行われており、多くの市民、信者そして赤い法衣の司祭たちが並んで見守っており、そのうちに赤い法衣と金の帽子を被った大司教と聖ドムニウスの遺物を持った司教たちが出てきて列を作り賛美歌の中を行進していった。
 
 その行事が済み、大聖堂に入ろうとしたが、写真、ビデオ撮影禁止で、また人も多くちらっと中を見ただけにとどまった。大聖堂の横には60mの鐘楼が建っており、上ることもできる。
 
大聖堂の前にはディオクレティアヌスがエギプトから持ち帰った3500年前のスフィンクス。

 お祭りが済み、次に訪れたのは宮殿中庭の西側にあるゼウス神殿(ユピテル神殿)。
 ディオクレティアヌス皇帝はギリシャ神話の最高神ゼウスの神を信仰しており、この神殿を建設した。
 神殿の前には大聖堂の前と同様に3500年前に作られ、皇帝がエジプトから持ち帰ったスフィンクス像が配置されている。この神殿はその後、キリスト教の洗礼堂に改築され、内部にはバスタブのような大きな洗礼盤がおかれている。赤ん坊をジャブンと全身を水に浸す全身洗礼。
 その側面には十字架を持った中世クロアチア王の姿が彫られている。天井の彫刻などはロ−マ時代のものを模倣した形で作られている。
 
ゼウス神殿 洗礼者ヨハネ像 洗礼盤
宮殿の中で一番狭い通路 宮殿玄関
大聖堂
 北の門(金の門)を出たところの緑地には左手に聖書、右手を高く上げたグルホ−ル司教の銅像。子供たちが銅像の周りで遊んでおり銅像の足元に座ったりしている。銅像の左足の親指がピカピカに光っており触ると幸運が授かるとのこと。触ってみる。素晴しい幸運を期待して!
 次に西の門(鉄の門)にいく。門を出るとナロドニ広場。ここは14世紀以降は行政、商業、生活の中心になった場所で広場に面して3つのア−チのあるゴシック様式の建物があり、かってのヴェネツィア共和国庁舎である。今は市庁舎になっている。ここで約1時間のフリ−タイム。この広場には多くの店舗やカフェ、露天そして観光案内所が出ており多くの人々が集まってくる。クロアチアレコ−ド店に行き、クロアチアのトラッド音楽クラパKLAPAのCDを3枚購入する。ビデオのBGMにしようか。クラパは4人の男性の無伴奏のコ−ラスでその響きは腹にどさっと来るような響き。マンドリンのみのCDも購入する。
 広場からは幾多の小路が交差して出ており、迷子にならないか少しの不安。大きな体重計を道路に置き体重測定を商いにして人もいる。青空市場は非常に人が多く、たくさんの露天が出てお祭り気分。空は快晴、非常に暑いということもなく。
 KONOVA MATEOUSKAで海鮮料理の昼食。ガイドのIさんの親戚になるお店。
西の門へ 西の門(鉄の門) ナロドニ広場
北の門(金の門) 北の城壁 グルグ−ル司教の像
ナロドニ広場 賑わうスプリットの小路 東の門(銀の門)
東門の外の青空市場 南門の前のプロムナ−ド 青空市場

 昼食のあと、ホテルに戻りバスで、この旅行のもう一つの観光目玉ドヴロヴニクに。海岸沿いに紺碧のアドリア海を眺めながらの走行。このあたりは特に多くの島嶼があり、ダルマチアのリヴィエラとも言われる。景色のよいMAKARSKAでトイレ休憩。それから道は山道を通りバチンスカ湖の見える場所でトイレ休憩と買い物。これから先の道路が夏のシ−ズンに向けて工事中ということで迂回路を内陸部にとる。
 一部、道路の狭いところがあり、30分くらい渋滞でのSTOP。やっと、渋滞を抜け山道から眼下に果樹園の広がりを見る。このあたりネレトヴァ川河口のデルタ地帯はミカンやオレンジの産地。5時半ごろネレトヴァ川とその横を走る鉄道線路の横の道に出る。その後も暫く内陸部を走り、やっと海岸沿いに出る。
MAKARSKA バチンスカ湖 果樹園
 道はアドリア海沿いに。やがて、ボスニア・ヘルツェゴビナの検問所へ。我々には特別のチェックもなく、少しの時間の停止でパス。
 

 クロアチアのドヴロヴニクが飛び地になっていることの歴史について添乗員さんの説明(一部追加):

 1699年オスマン・トルコとハプスプルグ帝国との間にカルロヴィツ和約が成り、ネウム一帯はドヴロブニク共和国の領土にすることになったが、これより北のダルマチア諸都市はヴェネツィア共和国の領土でドヴロブニクとしては敵対するヴェネツィア共和国との間にオスマン・トルコの領土を設けることにより、ヴェネツィア共和国からの脅威を避けるため、領土とすることを辞退した。そのことが現在まで引き継がれているのである。
 ドヴロヴニク側から伸びるペルジェサク半島とクロアチア本土との間に、長大橋「ペルジェサク橋」の建設が進められている。

 ネウムのス−パ−マ−ケットでお決まりの買い物になる(6時半)。ボスニアはクロアチアに較べ、3割くらい廉価であるとのこと。チョコレ−トのKRASを土産に買う。レジの人の通貨レ−トの計算の速いことにさすが毎日の慣れかと感心する。
  再びクロアチアに入る。そのあたりの海域ではかきの養殖が盛んであるとの説明。次第に日は暮れて、夕日が島影を照らし素晴しい。バスの走りながらの窓越しの写真撮影は難しい。ドヴロブニク近くの道沿いには、共和国時代に外国から持ち帰った植物が植林保護されている。港にはフェリ−が二隻。翌日のドヴロヴニクの観光では飛鳥2号のお客さん達が観光していたが。
  クロアチア初代大統領トゥジマンの名前の橋を渡ると、いよいよドヴロヴニクの旧市街も近い。8時すぎ、ピレ門の近くのレストランMINOZAでチキンとポテト、ス−プの遅い夕食。3人組の演奏を聴きながら。夕食後LERO HOTELへ。このホテルで連泊する。

ボスニア・ヘルツェゴビナ検問所 ネウムの街並 ネウムのス−パ−マ−ケット
アドリア海 アドリア海 アドリア海
樹齢400年 ドヴロヴニク港 トゥジマン橋
MINOZA MINOZA LERO HOTEL受付
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