アドリア海紀行その1  
  
 ヴェネツィア・スロヴェニア・クロアチア・サラエボを訪ねて 10日間
1日 関西空港→ 5月2日→イスタンブ−ル→ヴェネツィア→トリエステ
 2008年2月JTB旅物語誌2月号で4月26日出発を申し込むも、航空会社の都合か土曜日出発はなく、4月中旬の出発までしかエントリ−できないとのこと。やむを得ず、近畿ツ−リズムのシリアも一応申し込む。2月19日朝日新聞夕刊で広告があり、早速申し込む。その時点で申し込み者は19名とのこと。
 4月28日夕、添乗員NさんよりTELあり。日程は厳しくないが、歩いて観光することが多いのでそのような服装と靴の用意を、また気候は日本とほぼ同じと考えてください。鍾乳洞は8度に設定されているので、そのための服装を準備しておいて下さいと電話を戴く。
 当日はMKハイヤ−で関空へ。自宅を17時20分に出て19時20分に空港北ゲ−トに着く。空港税と燃油サ−チャ−ジャ-料金を合わせて43700円と高い。関空みずほ銀行でユ−ロ168.38円とユ−ロ高。
 トルコ航空22:30発。離陸1時間、着陸前2時間前に食事が出される。イスラムの食事ゆえに、PORK PRODUCTは含まれていないと。機内では映画上映等はなく、専ら飛行道程の地図のみ。中国上空を飛ぶのでイスタンブ−ルには、約13時間30分近く要した。
 イスタンブ−ルの空港ロビ−で待つこと5時間。午前9時過ぎに搭乗口判明。TK1867 で10時35分発でヴェネツィア・マルコポ−ロ空港へ。乗機の前に手荷物とボディチェックあり。かなり厳しい。
 12時5分ヴェネツィアマルコ・ポ−ロ空港に着く。われわれ一行は20名。夫婦組5組、母娘組2組、姉妹組1組、男性単身3名、女性単身1名で添乗員は美人のNさん。
 専用バスで30分かけてヴェネツィアのロ−マ広場へ。そこから、船に乗り換えサン・マルコ広場に。このたびの旅行はアドリア海の女王ヴェネツィアの観光(1987年世界遺産)ではじまる。
日本の法被を着た日本語ペラペラのイタリア女性の案内で元首宮殿PALAZZO DUCALEとサン・マルコ寺院を見学する。両方とも団体は優先入場。大きい荷物は預けなければならない。中庭にはブロンズの縁石の井戸や立派な柱廊があり、ガイドの案内でブルガリ等の寄付で美装された黄金の階段を上り、中央広間、4つの扉の間、謁見控えの間、謁見の間、十人委員会の間、大委員会の間などをイヤホンガイドで説明を聞きながら見学。これらの部屋は撮影禁止である。ティントレット、ヴェロネ−ゼなどの絵画、天井画。大委員会の間の壁には76代までの元首の肖像画が並んでいるが、56代マリ−ノ・ファリエロ(記録抹殺刑に処せられた。ドニゼッテイのオペラ
『マリ−ノ・ファリエロ』)のは外されている。溜息橋、牢獄を見学。
 元首宮殿見学後、サン・マルコ寺院を見学。828年アレキサンドリアから、掠め取ってきた聖マルコの亡骸のために建設され東洋的な四つの丸屋根を持っており11世紀から17世紀にかけて建築された。ファサ−ドや内部は黄金色のモザイク。
 現地ガイドによると景気のよいロシア人、インド人、中国人の観光客が非常に増加しており、増加する観光客で地面の沈下が進み、ヴェネツィアへの入場料や入場制限も話題になっているとか。30分ほどのフリ−タイム後、ゴンドラ遊覧。一艘に5人乗る。溜息橋の下を抜ける約40分のコ−ス。水は濁り、運河(リオ)沿いの家屋には、人の気配も少なく、生活感の匂いが感ぜられず、1992年に最初にヴェネツィアを訪れたときのゴンドラ遊覧とはずいぶん趣が違っていて、やや興ざめ。当時はゴンドリアンがリアルト橋の近くでサンタ・ルチアなどの歌唱を聞かせてくれた。
 船でロ−マ広場に戻る。トイレは1ユ−ロと高い。午後4時半にバスに乗り、約2時間でトリエステへ向かう。トリエステ近くはアドリア海に沿って走り、海岸をランニングする人たちの姿が多く見られた。ホテルはトリエステ駅に近く海を望むJOLLY HOTEL。夕食はリゾットとイカ・えび・小魚の油揚げ。夕食後、外出し、夜店や臨時の遊園地を散策した。大勢の男女がいろいろな遊戯に戯れ大変、賑やかであった。
 昨年よりイタリアでは、ロ−マ、フィレンツエ、ヴェネツィアなどの観光地に入るのに、入都税が必要になり、時間帯により料金は違うようですが1000ユ−ロ以上とか。
紺碧のアドリア海 感動紀行 10日間 JTB
日程の部分をクリックすると移動します
日時 日程
5月1日 20:30集合、トルコ航空TK47 関空22:30イスタンブ-ル5:35着乗り換え 日本との時差6時間
2日 5時間待ち。TK1867 ヴェネツイア12:05着。ロ−マ広場へ。船でサン・マルコ広場。元首宮殿(入)・サン・マルコ寺(入)。サン・マルコ広場、ゴンドラ40分
その後トリエステへ JollyHotel 日本との時差7時間
3日 トリエステ→ポストイナ鍾乳洞→ブレッド湖・ブレッド城→リュブリャナ
 ポストイナ鍾乳洞(入)、ブレッド島、聖マリア教会、ブレッド城(入)   M Hotel
4日 リュブリャナ旧市街:三本橋、市庁舎(入)、リュブリャナ城(ケ-ブル)  その後ザグレブへ。ザグレブ旧市街;大聖堂、聖マルコ教会、石の門、イエラッチ広場 HOTEL I
5日 プリトヴィッツエ湖群国立公園 午後より散策
Jezero Hotel
6日 ディアル山脈を越えてダルマチア地方へ
シベニク旧市街;聖ヤコブ教会(入)、散策
トロギ−ル旧市街;聖ロブロ教会(入)、市庁舎(入) その後 スプリットへ 17時ころ Marjan Hotel
7日 スプリット旧市街;ディオクレチアヌス宮殿(入)、ジュピタ-宮殿(入)、大聖堂(入)など
その後ドヴロブニクへ 19時半到着 Lero Hotel

8日 午前中 ドヴロヴニク旧市街;フランシスコ修道院(入)、大聖堂(入)など 。フリ−;ロクルム島をめぐるボ-ト 午後よりフリ−タイム:街中、城壁めぐり、スルジ山 LeroHotel
9日 ボスビア・ヘルツェゴヴィナのサラエボ観光;ラチンスキ-橋、旧市街、バシチャルシァ、冬季五輪施設 
TK1426 サラエボ19:00 イスタンブ-ル21:50 23:40発
10日 16:55関空着
アドリア海;
 北部はヴェネツィア湾。イタリア側はなだらかで良港に乏しく、クロアチア沿岸部は複雑な地形をなし、多くの島嶼や良港があり、風光明媚な景観。この領域は古来ロ−マと東地中海、特に11世紀以降ヴェネツィア共和国の東方貿易の舞台として賑わった。
バルカン半島
 東は黒海・エ−ゲ海、南は地中海、西はアドリア海とイオニア海に囲まれており、ル−マニア・クロアチア、セルビア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ・ブルガリア、アルバニア、マケドニア、ギリシャ と トルコのヨ−ロッパ部分とからなる。この地域には古代からさまざまな民族が混在しておりロ-マ帝国、ビザンチン帝国、ハプスブルグ・ハンガリ−帝国、オスマン帝国に支配されてきた。これらの諸国は遅れて第一次世界大戦後西欧国家と同様の国民国家への転換を図ったが、その道程は苦難の連続で 南スラブ人の国ユ−ゴスラヴィアをチト−の下のもと、独自の社会主義を求めたが、チト−の死後1991年よりユ−ゴスラヴィア連邦を形成する各国が独立宣言し数年に亘って内戦を繰り返してきた。『最初で最後のヨ−ロッパ』とアメリカのバルカン史研究者ストヤノヴィッチの言。


鐘楼 サン・マルコ寺院
サン・マルコ寺院 黄金の階段
溜息橋からバリア橋
アクア・アルタ(高水)
 大潮、気圧の変化、そしてアドリア海を南から吹く風「シロッコ」の3つの要因が重なるとアクア・アルタと呼ばれる高潮がヴェネツィア湾で起こり、街には水が入り込む。特に一番低いサン・マルコ広場は水没する。さらに今後は地球温暖化による海面上昇も危惧されている。われわれの添乗員Nさんがある年の10月に来た時には、マルコ広場は水没しており、船を下りるなり10ユ−ロでビニ−ル製の長靴を買わされたとのこと。

ヴェネツィア共和国
 697年初代元首を選び、東ロ-マ帝国宗主権下、自治権を獲得した。指導者階級の商人・貴族は自ら艦隊を組み東地中海一帯に勢力を広げ、11世紀には現クロアチアのダルマチア地方をその配下に治め、その後ギリシャ沿岸にまで領土を広げた。このたびの旅行で訪れたシベニク・トロギ−ル・スプリットなどにはヴェネツィア時代の遺跡が多く散見され、ヴェネツィアの紋章ライオンが剥がされいるのも多く認められた。第4回十字軍では、コンスタンチノ−ブルを攻略してクレタ島などを領土としている。10世紀後半からはイスラム諸国とも交易を拡大し、14世紀には宿敵ジェノヴァを数度の戦いの後打ち破っている。15世紀前半には繁栄の頂点に。独特の共和制民主主義をとり、元首(ド−ジェ)・富裕な商人・貴族階級による議会を中心に、特定の個人や家族に権力が集中しない集団指導体制を実現している。16世紀になると大砲の発明やコロンブスなどの大航海時代を迎え、トルコの脅威とともにその勢いを失い、1797年ナポレオンの占領とともに1000年以上にわたる歴史の幕を閉じた。
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