アドリア海紀行   その3
  ヴェネツィア・スロヴェニア・クロアチア・サラエボを訪ねて 10日間
  5月4日(日) リュブリャナ→ スロヴェニア出国→クロアチア入国→ ザグレブ
 5月4日 今日は日曜日。少し遅めの9時出発。リュブリャナの現地ガイドは男性(英語)。リュブリャナは首都にしてはこじんまりとした都市。ガイドの案内で歩いての観光。
 街の歴史は古く、古代ロ−マ時代にはエモナと呼ばれており、6世紀半ばにスロヴェニア人の定住が始まった。14世紀以降第一次世界大戦終了までハプスプルグ家の支配。リュブリャニツァ川にかかる三本橋が有名で、中央の一本が車道、両脇の二本が歩道。三本の橋は末広がりに。ヨジェ・プレチニックの設計(1842年)。橋の袂のプレ−シェレン広場には19世紀の詩人プレシェレンの恋人ユリアを見つめる銅像が作品の主人公を背に。ピンク色のフランシスコ教会。龍の橋には市のシンボルの龍の銅像。日曜日でもあったので、大聖堂ではミサが行われていたので、フリ−タイムに入る。
 川に沿って小奇麗なカフェや木製の人形やガラス製品を売るお店や骨董市が出ていた。孫にピノッキオ人形を購入(5ユ−ロ)
ケ−ブルに乗り(2006年末完成)リュブリャナ城に。ケ−ブルをあがった中庭にはリラの花。螺旋階段を上る展望台からは赤屋根の市街地の風景画が180度。三本橋も。リュブリャナ城は貴族スパンハイムが建設し、ナポレオンによって一時期、兵舎や監獄になったが、1905年市が購入し修復。城の中にはロ−マ時代の城壁の一部が展示されている。礼拝堂があるが、残念見ることを輪売れた。
 時計台のある市庁舎には市の古地図が壁面にあり、庁舎の前には円形の噴水。昼食はケ−ブル近くのVodnikomHramでポ−ク料理。
 
スロヴェニアについて:
 7世紀初にスロヴェニア人国家カランタニア公国。その後フランク王国の支配下。15世紀にはハプスプル家の所領となる。1918年第一次世界大戦後、セルビア・クロアチア・スロヴェニア王国に加わる。1941年ドイツに占領された。リュブリャナはイタリアに。1945年11月ユ−ゴスラヴィア連邦に。連邦内の経済格差や民族問題により国民投票の結果、91年6月独立宣言。連邦軍との10日間の小競り合いの後、92年12月にドイツが承認、2004年5月EUに加盟。10日間戦争で独立できたのは住民の85%以上がスロヴェニア人である単民族性にもよると考えられる。
 
フランシスコ教会・三本橋・リュブリャニツア川
大聖堂内景・扉・外観
 昼食後、クロアチア(正式名フルヴァッカ)に向かう。1時間ばかり走行して国境に。スロヴェニアでは、バスはストップしたが、我々には特別のことなし。クロアチアでは係官がバスに乗り込みパスポ−トチェックでスタンプを押す。その後、検問所の建物(3時半)でとりあえずクロアチアの通貨ク−ナを。5000円で212.27ク−ナ。クロアチアに入国後、高速路を一路クロアチアの首都ザグレブに向かう。
 4時半、ザグレブに。現地ガイドはIさん。まず、聖母被昇天大聖堂の見学。2本の高い尖塔を持つネオ・ゴシック方式の教会。1880年の大地震で現在の建築様式に。修復時の予算不足で柔らかい砂岩を使用したので痛みが激しく現在本格的な大修復中。美しいステンドグラス。17世紀の説教壇。グラゴ−ル文字を伝えたキュロロスとメトディウスの祭壇。中央主祭壇の後ろに大司教ステピナッツの蝋人形のような像が横たわる。彼はユ−ゴの法廷でセルビア人やユダヤ人への強制改宗などで戦争犯罪人とされたが、クロアチア独立後、名誉を回復されている。
 
 15世紀オスマン・トルコの脅威に備えて大聖堂の周囲には城壁が作られた、
 ドラツ市場(日曜で閑散)を通り、飲食店や多くの市民の集うトカルチチェヴァ通りに出る。この通りは19世紀末まで川が流れ水車小屋があり、水争いでよく血が流された場所である。石畳の坂道が多い。石の門は18世紀の大火の灰の中に奇跡的に残ったイコンが収められた礼拝堂があり、願いごとの紙とロ−ソクの火。グラデッツ地区の中心の聖マルコ広場には聖マルコ教会を取り囲み国会議事堂や政府官邸がある。
 聖マルコ教会の大屋根は1882年ハンガリ−のジョルナイ工房のセラミックが使用されており、屋根は国旗の赤、白、青の三色。左の紋章は中世クロアチア王国、ダルマチア、スラヴォニアの紋章の組み合わせ、右はザグレブの市章。教会には入場せず。ナイ−ヴア−ト美術館の前を通り、ロトルシュチャク塔の前からケ−ブルカ−道に沿った坂道や遠く赤レンガ屋根の市街風景を眺め坂道を下り、イリツァ通りに出る。路面電車が走っており、イエラチlッツチ広場(独立前は共和国広場)に出る。ガイドの案内で土産物店に寄り、孫の買い物。ケ−ブルはなぜか動いていなかった。ロトルシュチャクの塔では毎日昼の12時に凄まじい大砲の轟音が打ち鳴らされるとのこと。広場にはクロアチア独立運動の象徴的存在のイエラッチ将軍の銅像が建っている。
 ザグレブの観光後、一旦 I HOTELへ。8時半より市内のPIVNICA ZKATNI MEDO(黄金の熊)で七面鳥の料理を頂だき、民族音楽のフォ−クロアディナ−。おじいちゃん、おばあちゃんの演奏、ダンスにはビックリ。しかし、最後には皆さんが一緒に輪になって。


  

  ザグレブの中世について:
 丘の上に二つの町カプトルとグラデッツが並んでおり、1094年カプト司教座が1242年ベ−ラ4世がグラデッツを王の自由都市とした。14世紀から15世紀にかけて二つの地区は火を放ちあうなどの熾烈な競争を行った。1850年二つの街は合併してザグレブとなった。ルに司教座が1242年ベ−ラ4世がグラデッツを王の自由都市とした。14世紀から15世紀にかけて二つの地区は火を放ちあうなどの熾烈な競争を行った。1850年二つの街は合併してザグレブとなった。



聖母被昇天教会
旧市街風景 旧市街風景 旧市街風景
薬局 旧市街風景 石の門の礼拝堂
聖マルコ教会 官庁 市の眺望
坂の道 イエラッチ将軍像 PIVNICA ZKATNI MEDO
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