熊野古道 和歌山5
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平尾王子跡~伊太祁曽神社~奈久智王子~竈山神社

<平尾王子跡>

平緒王子は、和佐王子跡を過ぎ、矢田峠を越えたところにある。平尾王子社跡
狭い路地を入って行かなければならず、探すのに一番苦労した王子跡である。
平尾自治会の集会所の敷地内に説明掲示板があり、地図入りの新しいものに変わっている。掲示板は、和歌山市内の王子跡を詳しく説明しており、見やすく古道のルートもわかりやすい。

歴史的には、「御幸記」に「平緒王子は、道次にあらざるの間、参らず先達ばかり王子に奉幣す」と記載されている。
神社明細帳によると、明治41年3月20日、都麻津姫神社(つまの宮)に合併されるまでは社殿があったという。

都麻津姫神社(つまの宮)

平緒王子を過ぎ、200mほど行くと木の茂る小高い丘がある。そこが都麻津姫神社(つまの宮)である。
入り口には木で作った鳥居があり、それをくぐって50mほど小道を登ると社殿がある。
高さ1.8mほどの比較的新しい簡素な作りの社殿である。
敷地内には小さなイスが二つ並んでいた。
古道は、ここから伊太祁曽神社へと向かう。


平尾王子社跡 平尾王子社跡 平尾王子社跡 平尾王子社跡
(社殿:簡素だがよく手入れがされている)

伊太祁曽神社   伊太祁曽神社
伊太祁曽神社の祭神は、イタケル、ツマツヒメ、オオヤツヒメの三社の神で、いずれもスサノオノ命の子供である。
祭神のイタケル(五十猛命)は大屋彦神とも呼ばれ、新羅から我が国に木の種をもたらした神で、木の神として名高い。
毎年1月15日、その年の稲の作柄の決定と豊凶を占う卯杖祭は多くの参拝客でにぎわう。
境内には3基からなる伊太祁曽神社古墳群がある。
木の神様らしく、境内は木々が生い茂っている。
現在は竹の里としても有名で、神社の周辺は至る所に竹林がある。
行事は、卯杖祭のほかに、大きな茅の輪をくぐって無病息災を祈る「輪くぐり」が、夏祭りの際に行われる。

伊太祁曽神社の鎮座した時期については明らかでないが、ウィキペデアによると、
『続日本紀』の文武天皇大宝2年(702年)の記事が載っているらしい。
もともとは現在の日前宮の地に祀られていたが、垂仁天皇16年に日前神・国懸神が同所で祀られることになったので、その地を明け渡したと社伝に伝えられている。
その際、現在地の近くの「亥の杜」に遷座し、713年(和銅6年)に現在地に遷座したと伝えられる。

『延喜式神名帳』では名神大社に列し、紀伊国一宮とされる。1918年(大正7年)に官幣中社に列格した。

この際に内閣が作成した文書「國幣中社伊太祁曽神社ヲ官幣中社ニ列格セラル」には、

国幣中社伊太祁曾神社は大屋毘古命を祀る命は妹大屋津姫命抓津姫命とともに木種を紀伊国に分布し給ひ、実に本国経営の祖神にましませり。初め此の三神は一所に奉祀せられしが、大寶二年三所に分遷せられ、大屋毘古命今日の社地に鎭りぬ。是れ即ち本社の起源なり。本社の由緒を案するに大同元年の牒五十四煙の神封に加へて十二戸を充てられ、嘉祥三年從五位下に叙し、紀貞守を使として之を奉告せしめられ、貞觀元年從四位下に、元慶七年從四位上に進み、延喜の制名神大社に列して、祈年月次相嘗新嘗の官幣に預れり。上述の事歴を通考するに、本社は官幣中社に列せらるるを至当なりと認む。仍て官幣中社に列格被為仰出度、右謹て奏す。

とある。
戦後は神社本庁の別表神社となった。
境内社には、蛭子社・気生社・祇園神社・御井社・櫛磐間戸神社が祀られている。
境外社には、三生神社(亥の森) (旧社地。境内から南東500mに鎮座)、丹生神社がある。
祭礼には、
丹生神社卯杖祭
卯杖祭(うづえさい)は古くは宮中でも行われていた祭祀で、卯杖という杖で土中の邪気を祓ったという。
当神社の卯杖祭は、この卯杖の儀に小正月の小豆粥による厄除け信仰と、作物の豊凶をみる粥占いの3つが融合している。占いの神事は1月14日夕刻に行われ、取り出された竹筒は一晩神前に奉奠される。15日早朝に筒を開き入っている粥の量で豊凶を占う[1]。15日は午前10時より祭典が行われ神楽舞が奏される。同日は厄除け祈願の参拝者、また粥占の結果が記された「お管の写し」を求める参詣者で賑わう。この日振舞われる小豆粥を頂くと1年間無病息災であるといわれている。
木祭り
4月第1日曜日に行われる祭典で、日頃の木々の恩恵に感謝する祭典。古くは家屋や船など全て木でつくられており、日常生活に木製品は切っても切ることができないものであった。この日は全国の木材関係者をはじめ、多くの崇敬者で境内は賑わうという。
茅輪祭
茅輪祭(わくぐり)は、半年に1度行われる大祓の祭事。6月晦日に行われる大祓は「水無月祓い」とも呼ばれ、茅萱(ちがや)で編んだ輪をくぐることで罪・穢が祓われるといわれる。当神社の茅輪祭は7月30日夕刻にくぐり初め神事が行われる宵宮に始まり、翌31日午前中に本殿祭が行われる。また30・31日は夕刻より各種奉納行事があり賑わう。
例祭
10月15日に行われる、稲の収穫を祝う祭典。本殿の神事の後、3基の神輿が[2]4km北方の奥宮まで往復する。また子供神輿や稚児行列も行われる。
などがある。

伊太祁曽神社周辺はきれいな竹林があちこちにある。
また桃やミカンの産地でもあり、ここから大池遊園に抜ける約6.2kmのハイキングコースもあり、その周辺はそうした農産物の畑が続いている。
途中野池などもたくさんあり、自然観察をしながらの散策にちょうど良い。

和歌山電鐵貴志川線伊太祁曽駅からすぐである。
和歌山電鐵貴志川線伊太祁曽駅にはニタマがいたが、たま駅長がなくなったので、貴志駅駅長に昇格した。

伊太祁曽神社
(階段下から社殿正面)
伊太祁曽神社
(2009-4-30)
伊太祁曽神社
(2009-4-30)
伊太祁曽神社
(この木の穴をくぐると無病息災)
伊太祁曽神社
(2007-7-30 茅輪祭)
伊太祁曽神社
(2007-7-30 茅輪祭)
伊太祁曽神社
(2001-10-14 例祭宵宮)
伊太祁曽神社
(2001-10-14 例祭宵宮)
伊太祁曽神社
(2012-12-15 伊太祁曽駅)
(
2012-12-15 伊太祁曽駅

<奈久智王子>
>
奈久智王子 は民家の裏山のミカン畑の中にある。熊野古道和歌山
王子の位置は時代により、かなり移動しているのではないかと思われる。
王子の説明看板は、山裾にあるが、かなり古くなっており、車では気づかずに行き過ぎる。社は近くの祇園神社に移されているという。
奈久智王子は奈久知とも書く。
このあたりの須佐という地名は伊太祁曽神社と深い関係のある有田市の須佐神社の神戸であったことに由来するという。
「紀伊続風土記」には、王子権現社境内周二十間 村の選四町許にあり、熊野古道の向山の麓にあり、按ずるに御幸記に見えたる ナクチノ王子 即ち 当社なるべし、とあり、奈久智王子は2カ所の記録があるが、おおかたは奥須佐説が多い。
実際に歩いてみても、和歌山と海南方面に向けての道筋にある、この奥須佐の方が当たっている気がする。伊太祁曽神社から西に進み、口須佐で変則的な4つ角を左に向かう、海南市方面向けのカーブの多い細い道筋に奈久智王子はある。古い説明板のあるお家の裏に祠がある。
この水原弘さんの左の細い道を上がるとすぐ王子跡はある。

『紀伊国名所図絵』や『和歌山県聖跡』にでている社地であったという。
貴志川町から和歌山市への通勤ルートでもあり、周辺は車の行き来も多い。
懐かしい看板と並んでいることでこの周辺はもう何年も変化していないことを物語っている。 この奈久智王子で和歌山市の王子社が終わる。
阪和高速の下をくぐり、風土記の奈久智王子跡をすぎると小栗判官腰掛け石があり、そこからは海南市である。
高速のガードをくぐり進むと田の中に武内神社があり、武内宿禰誕生の際産湯を使ったという井戸がある。
武内神社は阪和高速の近くの集落の中にある。
境内はさほど広くないがきれいなところである。武内神社本殿の右に回ると武内宿禰が産湯を使ったという井戸がある。武内宿禰のことはほとんど知識がなく和歌山出身の人とは知らなかった。
次の松阪王子へは、阪和高速に沿い細い道を行く。
古道そのものはどれか判然としないが、田畑の中をゆくルートは、今も昔の風情を色濃く残している。

熊野古道和歌山 熊野古道和歌山
(紀伊続風土記王子にある地蔵)
熊野古道和歌山
(懐かしい看板である)
熊野古道和歌山
熊野古道和歌山
(同じく奈久智王子祠)

一円紙幣を飾った和歌山の人・・武内宿禰

<生没年不明 和歌山市生まれ>
奈久智王子第12代天皇である、景行天皇の命を受けた屋主忍男武雄心命(やぬしおたけおこころのみこと)は、大勢の家来を祀る為に、和歌山に来た。
そのとき地元の紀氏一族の影姫という娘を妻とし、武内宿禰をもうけたという。
大和朝廷のはじめ、景行天皇から政務、仲哀、応神、仁徳にいたる五天皇に大臣として仕えたという。その間244年にもなるのだが、死んだのは330歳といわれる。
不老不死超人であったのだ。
仲哀天皇が亡くなった折、身重の神功皇后を助けて新羅征伐に出かけ、やがて生まれた応神天皇を守り、新羅から無事生還している。このとき、宿禰240歳くらいのことなのだろうか?
とにもかくにもこの手柄が評価され、皇国史観の上では忠臣の誉れ高いとして、明治時代の一円紙幣の肖像として登場している。熊野古道和歌山 竹内宿禰
宿禰は西国33カ所31番の長命寺に登り「寿命長遠諸願成就」の文字を柳の巨木に記し、長寿を祈ったため、300歳以上の長寿を保ち、六代の天皇に仕えたという。
その後聖徳太子が、観世音菩薩にお祈りしていると、岩陰から白髪の老人が現われ、「此の霊木で千手十一面聖観音三尊一体の聖像を刻み、伽藍を建立すれば武内大臣も大いに喜び、諸国万人等しく崇拝する寺となるであろう」と告げ去っていったという。
太子は観音像を刻まれ伽藍を建立、武内宿彌長寿霊験の因縁をもって「長命寺」と名付けたという。
長生きしたい方は、是非長命寺にお参りしてください。

熊野古道和歌山 竹内宿禰 熊野古道和歌山 竹内宿禰 熊野古道和歌山 竹内宿禰

竈山神社

竈山神社は、和歌山電鐵貴志川線竃山駅から南へ500mほどのところにある。竈山神社
小山があるが、祭神彦五瀬命御墓ということで、古事記にも、紀伊竃山にあると記されている。その南に竃山神社本殿がある。

物語としては、神武天皇が東征の際に、兄の五瀬命(イツセノミコト)が長髄彦(ナガスネビコ)の軍勢が放った流失に当たった。
『古事記』では傷を受けた手からの出血が甚だしかったため、また、『日本書紀』では肘に受けた傷がひどく痛んできたために、五瀬命は雄叫びして薨去(コウキョ)されたと記されている。
『日本書紀』では五瀬命が薨去されたのは竈山に達したときであり、記紀のいずれにも竈山(コウキョ)に葬られたと記述されている。竈山とは、この竈山神社のことであり、神社本殿の裏に、五瀬命の陵がある。
神武東征とは、日本国初代の天皇である神武が日向の国(宮崎、鹿児島辺り)を出て、筑紫国(福岡県辺り)安芸国(高知県辺り)吉備国(岡山、広島県辺り)を経由して、河内の白肩津(日下の楯津、大阪東大阪辺り)から大和国へ入ろうとした。
この時、長髄彦が進行を阻み、戦いになり、神武軍は負けて退却する。
この戦いで傷を負った神武の兄の五瀬命は船で南に向かい、傷を癒そうとする。
この時、血の付いた手を洗ったのが血沼の海といい、その後大阪泉南市辺りの海を、茅渟(チヌ)の海と言う。
その五瀬命は紀伊国の男之水門(紀ノ川河口付近)に至った所で傷が悪化し、命尽きてしまう。
五瀬命は死の間際に「賤奴が手を負いてや命すぎなむ」と雄叫びを発し亡くなった。それ以降、その地を男の水門と言い今もその地名は残っている。古事記では、「陵(みはか)は紀の国竈山にあり」と書かれている。

竈山神社 竈山神社 竈山神社 竈山神社
竈山神社 竈山神社 竈山神社 竈山神社

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