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和佐王子跡・歓喜寺・高積神社~ |
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<和佐王子跡> 和佐王子跡の掲示板は、矢田峠の中腹にあり、これもうっかりすると見落としてしまう。 道は、矢田トンネルを抜け、伊太祁曽神社に至るが、本来の古道ではない。 道路が整備されたため、車両の行き交いが激しく、周辺の景色を撮ろうと思いうろうろすると、車にはねられそうになった。 掲示板は、ミカン畑の端にあり、土手の造作をしていたため正面から写真は撮れなかった。 和佐王子周辺は、昔はきれいな景色であったという。道はきれいに便利になったが、古道が分断され町の風情がざらざらしたものになってしまっている。 それは、ここ和佐王子周辺だけではない。 和佐王子は、坂本王子とも呼ばれている。 和佐王子社跡地の掲示板 ところが和佐王子が移転された。 以前は人も寄りつけない感じの場所に立っており、今度は中途半端な広場の中になってしまった。 和佐王子の碑と掲示板などそのまま使っているが、少しセンスを疑ってしまう。 なぜ植栽をしなかったのか。なぜ掲示板や案内板をもっと統一感のある並べ方にしなかったのか。 トイレもない。芝生もほしい。季節の花を植えるスペースもない。せっかくきれいにしてくれたのだが何となく素直に喜べない。強い日差しがインターロッキングに反射して暑かった。 熊野古道らしさが感じられない。
歓喜寺 中筋家の住宅を過ぎると看板があり、歓喜寺の案内がある。狭い道を行くと、お墓がありその中に歓喜寺があった。建物は、歴史の古さからすると、拍子抜けするが、古道を歩く人が、大阪から歩き疲れてここで休憩をした。昔は境内も広く休憩しやすい所であったのだろう。 ここを過ぎると矢田峠があり、一休みしないと疲れ果てるだろう。地元のボランティアが、接待をしてもてなしたのだろう。 入り口にある看板には、 「歓喜寺(臨済宗)は、13世紀後半に建てられた密教系の寺院であったが、和佐荘内の薬徳寺に吸収された後、薬徳寺そのものが歓喜寺と呼ばれるようになった。この寺院は、熊野古道に近接するため、鎌倉時代から南北朝時代にかけて、熊野詣での人々に便宜を図る目的で接待所なる施設を設けていたことが知られる。また多数残されている中世文書が和歌山県指定を受け、境内の柏槇の大木は天然記念物として和歌山市指定を受けている。 和佐歴史研究会 和歌山市教育委員会」 とあった。
高積神社(上社・下社) 布施屋駅の南側には神奈備型の高積山(標高237m)がある。通称和佐山と呼ばれ、この山のどこかに黄金が埋められているという伝説が古くからあった。 何某かの国司が黄金1000枚と朱3石を埋蔵し、村民の飢渇に備えたという。 「朝日さす夕日かがやくその下に黄金千枚朱三石」。 この黄金伝説をたよりに、掘ってみようと試みた人がいた。 すると山頂の高積神社付近から約15000枚の古銭が発掘された。 そのすべてが中国銭で、この量の多さは県下で初めてということである。 高積神社の祭神は都麻都比売命・大屋都比売命・五十猛命の3神っを祀るところから、高三所明神とも呼ばれている。 和佐王子、川端王子を合祀している。 今は山の中腹にあるが、この山頂近くにある道で一心に願掛けをした女性がいた。 くる日もくる日も祈願達成までと、険しい山道をいとわず通い続けた。満願の日に山頂の社の石段に大牛が寝ていたのを恐れもせずに通り祈願した。和佐大八郎の母である。大八郎は三十三間堂で通し矢新記録で、この母の悲願を見事に達成したのである。 高積神社から麓の方を見ると、昔ながらの景色が広がる。このあたりは、まだ蔵もあり瓦葺きの家が多く、昔を留めている。夕暮れ時に眺めると心が安らぐ。 高積神社上宮は、高積山の頂上にある。 登り道はきついがいい道である。 山の上の神社としては、驚く程の造りのいい神社である。 本殿の背後は木々が鬱蒼とあり、紀ノ川一円が見渡せるはずだが木が茂って少し見づらい。 上の宮には徒歩で25分~35分かかる。結構急な登り道で、参道の傍らには、上の宮を起点にする町石が並んでいる。 下の宮の北側にある登り口には八町石が立っている。 さらに上の宮近くの分かれ道に、数個の梵字の刻まれた石柱がある。 ここを左に進めば上の宮へ、右に進めば、南北朝時代の古戦場で古城跡が残る城峯(255m)に続いている。 神社境内の案内板には、大正14年(1925年)上の宮の本殿近くで、古銭1万数千枚が発掘され、現在国立博物館の所蔵となっていると案内している。 かなり由緒ある感じのいい神社である
和佐大八郎範遠(わさだいはちろうのりとう)弓で記録を射た男 和佐大八郎 <1663~1713・和歌山市生まれ> 和佐大八郎範遠は寛文3年紀州和佐村祢宜に生まれる。父が紀州藩弓術指南役であったため、幼い頃から弓に興味を示した範遠(ノリトオ)であった。14才で2メートルの身長の大男であったことから、弓を引く力に不足はなく、そのうえ藩弓術師範であった吉見台右衛門から、日夜きびしい指導を受けて、ぐんぐんと実力をつけていった。そして、通し矢の数で”弓の天下一”を競う京都三十三間堂の”通し矢”に挑戦することになった。 暮れ六つ(午後6時)から射始めて、翌日の日暮れまでに終わるのを”大矢数”(オオヤカズ)というのだが、これに挑戦して一本でも多くの矢を通すのである。 当時のタイトル保持者は、寛文9年(1669)、尾張家の星野勘左衛門。 総矢数10,542本のうち8,000本を通していた。 貞享3年(1686)4月27日、ついに範遠は念願の新記録を達成した。 時に24才の若さであった。総矢数13,053本で、通した矢8,133本. 記録が更新されると、”総一”または”弓の天下”と称されて、堂内に通し矢奉納額がかかげられるが、記録が破られることなく、今もその額はさんぜんと輝いている。 星野勘左衛門の記録を、17年ぶりに更新した和佐大八郎範遠は熱狂的に迎えられ、京都島原での祝宴会では、振舞い酒5石にもおよぶ盛大なものであった。 また、紀州藩第2代藩主徳川光貞も、今の和歌山市八軒屋まで、じきじきの出迎えをされたほど。功績によって300石をたまわったのである。ちなみに、範遠は丸1昼夜、1分間に9本の矢を放ち続けたことになる。 のち大八郎は罪を得て、宝永6年(1709年)田辺に幽囚の身となった。 そして正得3年(1713年)城内の長ヶ蔵で病死。浄恩寺に葬られた。 浄恩寺は田辺市の旧会津大橋を渡った橋詰めにあるが、ここに大八郎の愛用した弓が保存されている。 一つは亨保3年に大八郎の子が同寺に納め、後ひとつは250年忌の後子孫が納めたもので、三十三間堂通し矢に用いたものといわれている。 和佐大八郎の墓は、和佐王子跡の看板から、熊野古道沿いに走る新しい道を矢田峠に向けて200M位登ったところにある。墓の手前の道から、眼下の集落をみると新しい道と平行して、古道が見える。 雑木に囲まれた墓周辺は少し日が落ちると暗い。途中の坂道にイノシシ注意の張り紙があった。 このあたりにもイノシシがいるというのは驚きである。 ウキペディアによると、 「貞享3年(1686年)4月27日、京都三十三間堂で大矢数を試み、総矢数13,053本の内、通し矢8,133本で天下一になった。この記録は以後破られることはなかった。 だが、フェア・プレイの精神に欠けるところがあり、射る度に少しずつ前に進んだという。 範遠は記録達成の功績により知行300石に加増された。その後貞享5年(1688年)には綱教附の射手役となり200石を加増された。 元禄8年(1695年)には頭役並となった。この間、元禄2年(1689年)3月には師の吉見順正から印可を得た。 宝永6年(1709年)3月13日、安藤陳武に預けられ田辺城に幽閉された。 正徳3年(1713年)3月24日、失意のうちに、病に罹り田辺城内の長ヶ蔵で死去。享年51。 遺跡は長男貞恒が継いだ。和佐家は以降も代々藩の弓術師範役となり存続した。 範遠の愛用した弓が、浄恩寺に2つ保管されている。 一つは享保3年(1718年)に範遠の子が納めたもので、もう一つは範遠の250回忌を記念して子孫が納めたもので三十三間堂の通し矢に使用されたと伝わっている。 貞享3年(1686年)4月27日の京都三十三間堂での大矢数の際、前日暮れ六つ(午後6時)から開始したが、翌朝ごろ調子が悪くなり通し矢が少なくなった。そこに当時の天下一の記録保持者星野勘左衛門茂則が現れ、範遠の左手を小刀で切ってうっ血を治したところ調子を取り戻したという」 などと書いている。 ▲ページトップに戻る
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