本名=鷲尾 浩(わしお・ひろし)
明治25年4月27日—昭和26年2月9日
享年58歳(涼月院釋猛浩)
新潟市西区黒鳥5002―1 威徳寺御廟(浄土真宗)
小説家。新潟県生。早稲田大学卒。早稲田大学の同級生直木三十五と春秋社を設立、大正8年冬夏社を創立して出版業に乗り出すが失敗。その後書き下ろし長編『吉野朝太平記』で第二回直木賞受賞、歴史小説家として認められる。ほかに『明智光秀』『直江兼続』『武家大名懐勘定物語』などがある。

御台濃姫夫人の自害して果てた骸は、それに殉じた侍女の老若、ひとり残らずあるいは咽喉を、あるいは胸を、刺し貫き、 さしちがえて皆息絶えた亡骸もろ共、すでに焰のなかにつゝまれて、凄惨な荼毘の煙は、濛々と書院の殿中に渦を巻いていた。
針阿弥が数多の死骸を積みかさね、それに障子、襖を寄せかけて、油をそゝぎ、火を放ったのである。
火勢はいよいよ激しく、炎の尖の閃きは、幾十百の電光が一時に発し迸ばしったかと疑われた。
腹十文字に切った信長は、
「たあ!」
と、一声。その猛烈な火の真ッ只中へ、躍り入った。めらめらばっと燃えつく焰は、たちまちこの蓋世の英雄の軀を押しつつんでしまった。と見るまに天井は、すさまじい音響を立てゝ 欄間、桁梁と共に焼け落ちたのであった。
「本能寺御旅館に異変あり!」
この注進が、妙覚寺の信忠中将を愕然とさせたことは、もちろん言うを俟たない。
十重二十重に囲んだのは明智の大軍勢だと解ると、信忠は扈従の二百名を従えて、二条御所へ移った。
京都所司代の村井長門守が馳せつけて、本能寺へは到底入り難い状態だということを、報告に及んだからであった。一手になっての防戦が叶わずば、少しでも要害の増さる二条御所に、籠って防ごう。そう信忠は決心したのだ。
(覇者交代)
早稲田大学で直木三十五との出会いが鷲尾雨工の運命を左右することになってしまった。直木の金銭のルーズさから親密な関係はもろくも決裂。金銭的に恵まれて育った雨工の生活はその後、長い辛酸を味わう不遇の時代を過ごすことになったのだが、直木の活躍に刺激されて文学を志し、昭和11年、43歳の時『吉野朝太平記』で第二回直木賞を受賞、歴史小説家として認められたのは奇しき因縁といわざるを得ない。戦後、知己西脇順三郎の本家菩提寺、小地谷の照専寺に仮住まいした疎開先から帰京後、徐々に体調を崩し、心臓喘息と肝臓肥大、内臓衰弱はもはや施す術がないほどに悪化、昭和26年2月9日午前7時25分、心臓喘息症のため家族に見守られながら淀橋区諏訪町(現・新宿区西早稲田)の自宅で死去した。
越後の菩提寺西源寺から上京してきた楠見導師と市谷富久町源慶寺の本多住職で執り行われた告別式ののち6月22日、妻倫子と養子の貢氏によって雨工の遺骨は新潟市西区黒鳥の鷲尾家代々の墓に納められたが、かつて鷲尾家の土地の一角で鷲尾家の墓があった場所に、近くの威徳寺が平成27年に御廟を新設、新しい御廟の一番奥、永代供養塔の左に真新しい基壇の上に黒く古びれた碑、鷲尾本家の碑と鷲尾家代々墓、その前に雨工の業績が彫られた記念碑が建っている。晩年、デカダンスに走った前半生を大いに悔いていた雨工だが、そのことが寿命を縮めてしまったのかもしれない。享年58歳とはいかにも短い作家人生ではあった。
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