本名=和田芳恵(わだ・よしえ)
明治39年4月6日—昭和52年10月5日
享年71歳
茨城県古河市中央町2丁目8–30 宗顕寺(浄土真宗)
小説家・評論家。北海道生。中央大学卒。新潮社に入社、編集の傍ら小説を書き、昭和16年『格闘』が芥川賞候補となる。樋口一葉の研究をライフワークとし、『一葉の日記』で芸術院賞、『塵の中』で38年度直木賞受賞。ほかに『接木の台』『暗い流れ』『火の車』『雪女』などがある。

悠子に溺れている自分の姿を、払は、いやにもなっていた。
「奥さんは、やはり、うわ手ね。五年は、持たないと思っているのよ。思いつめたら、あなたが、わたしのものでないとわかったの。考えさせて戴きます。ひとりになって、ほんとに別れられないというときは、こちらから、お願いにまいります」
「誰だって、思いつめたら、なにも無くなってしまうよ。私は老い朽ちかけた樹のように、やっと、強い風に耐えて別れずにいるのさ」
私が、すばっと根元から斬りたおされ、その樹皮へ悠子の小さな枝を接木して、幻の花を咲かせるつもりだった。
私の限の前で、悠子は、うっすらと涙を見せてから、たばこを静かに、燻らせていた。
女の働き盛りという感じだった。
「お元気ですか」
安子のことをたずねているらしかった。払は、かなり前から、妻を眺めるだけの男になっていた。毎日を生きているのが不安だった。
あの頃は、まだ、私も大善寺の急な石段を駆けのぼることができた。
西の方に、甲府盆地が遥かに見渡せた。
「息苦しくて、ひくい坂をあがるのも、やっとの思いさ。こうなっては、生きていても、味気ないなあ」
色っぽく死にたいものだと、私は、そのくせ、心の隅で思いあせっていた。
(接木の台)
影を描く名手といわれた和田芳恵は、昭和52年10月5日朝、東京上池台の自宅で十二指腸潰瘍のため死去した。
ライフワークとしていた樋口一葉についての研究や考察はつとに有名だが、生涯の大部分は編集者として過ごしてきたのだった。出版社を興して失敗、多額の借金に困窮して失踪したこともあった。小説家への回り道をかなり経て。〈食えなくって、餓死するなら餓死しろ〉という覚悟のもとに勇往邁進した作家生活。野口冨士男は、和田芳恵も愛読者であったラフカディオ・ハーンの『草ひばり』の一節〈世に歌わんがためにわれとわが身の心臓をくらう人間の蟋蟀もいる〉を引いて、〈文学者はいかに生きて死すべきかを教えてくれた〉と追悼した。
城下町古河の渡良瀬川畔に向かっての通り沿いにある作家・永井路子旧宅の南手あたりは、周辺に土塁、お堀など当時がしのばれる痕跡や古河文学館、歴史博物館などもあり、この街の文化的中核のような地域であるようだ。武家町特有の鍵の手曲がりの道を辿った先に見える宗顕寺に和田芳恵の墓はあった。
静子夫人の妹が嫁がれているこの寺の奥まった墓地、筑波山麓から運ばれたという石に和田自身が遺した「寂」の文字が刻まれている。苔むした土庭におさまって、緑青吹きのような石膚に刻まれたいかにもか細気な文字。傾きかけた西日が竹林に反射して、わずかばかりの華やかさを醸し出している塋域の様子が、和田芳恵の人柄を表しているようでことのほか頬笑ましかった。
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