渡辺淳一 わたなべ・じゅんいち(1933—2014)


 

本名=渡辺淳一(わたなべ・じゅんいち)
昭和8年10月24日—平成26年4月30日 
享年80歳(愛楽院釈淳信)
東京都杉並区永福1丁目8–1 築地本願寺和田堀廟所特設二区(浄土真宗)


 
小説家。北海道生。札幌医科大学卒。母校で整形外科講師の傍ら小説を執筆。昭和四五年『光と影』で直木賞受賞。医療現場を舞台にした作品や男女の愛と性を描く『失楽園』などの作品を多く発表した。ほかに『遠き落日』『長崎ロシア遊女館』『ひとひらの雪』などがある。






 

  「手術の順番はどうして決めたのですか」
 「貴方のカルテが、寺内さんのカルテの上に置いてあったのです」
 「カルテが上……」
 小武は左手でしっかりと杖を握ったまま目を閉じた。抑えようとするが顳顬が震え、唇が歪んだ。誰の悪戯なのか、誰の意志なのか、小武は手術室へ向った時の気が遠くなるほど明るく、乾いた空を思った。
 あの時、すでに勝負は決っていたのだ。
 それなのに何と長い間、自分は踠いたことか。三十八年間必死に戦ってきた、小武の身内で音を立てて崩れていくものがあった。
 なんと愚かな……
 突然、小武は笑い出した。可笑しくて可笑しくてたまらぬというように、涙を出し、腹をよじって笑う。歯をむき出し、白髪の頭を振り乱して笑う。口だけ開き、眼は狂気のように宙を見詰めている。(中略)
 
 寺内の死後、小武敬介はなお二年間生き延びた。この間、小武はほとんど失明に近い状態であった。眼が見えなくなってから、彼は部屋の片隅に坐りこんで、日がな断端を舐め始めた。そのうちに舐めるのが昂じて囓ることさえあった。軍医がきびしく叱ったが、その時だけやめて、いなくなるとまたすぐ囓り出した。看護卒はついに堪りかねて、断端を小武の胴に縄で縛りつけた。小武はなお断端を舐めようと、首だけ、必死に振り廻した。
 小武が気管支炎から肺炎を起し、廢兵院で死亡したのは、二月の初めの寒い朝であった。当直の看守も気付かぬ静かな死で、同室の狂者達、だけが、ぼんやりと死体を見た。
 死に顔は漂白されたように白く、雛も目立たず、かすかに口を開き笑っているように見えた。死後遺体は神田五軒町の娘の嫁ぎ先に引き取られ、そこで通夜のうえ翌日火葬に付された。享年七十一であった。

(光と影)


 

 渡辺淳一の原点は北海道である。短い夏も終わり、秋の訪れもあっという間に過ぎて、時代も季節もこれから長い冬を迎えようとしていた昭和8年10月24日午前3時20分、北海道空知郡砂川町字砂川3番地で生まれた淳一は母校札幌医科大学で整形外科医として勤めながら、日本初の心臓移植手術を題材にするなど医療をテーマにした社会派小説を多く書いてきた。後年は男女の愛と性を追究し続け、不倫をテーマにした『失楽園』は大ベストセラーとなって社会現象を巻き起こしたりもしたが、数年前から患っていた糖尿病の精密検査で前立腺ガンが見つかり、手術を受けずに投薬治療によって執筆活動を続けながら回復を計っていた平成26年4月30日午後11時42分、都内の病院で80年の生涯を閉じた。



 
 〈 六月の札幌はリラの季節である〉と淳一は書いたが、梅雨空の蒸し蒸しと鬱陶しい六月の終わりに訪れた東京・築地本願寺和田堀廟所、佐藤栄作元首相の大きな墓もある特設二区の「渡邉家」墓前には祥月命日に供えられたと思しき彩りを失った白菊とカーネーションがうなだれて、英語名ライラック、花言葉を「初恋」「恋の芽生え」などともいわれ、穏やかに心を和らげさせてくれるというリラの花の強い芳香は望むべくもなかったのだが、墓石傍ら、地蔵菩薩のように設えられた自書刻の「天衣無縫」碑にこそ、思うがまま、感じるがまま、信じるがまま、天真爛漫に生き、書いた渡辺淳一の「生」と「死」が凝縮されてあるかのようだった。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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