本名=和辻哲郎(わつじ・てつろう)
明治22年3月1日—昭和35年12月26日
享年71歳(明徳院和風良哲居士)
神奈川県鎌倉市山ノ内1367 東慶寺(臨済宗)
哲学者・倫理学者。兵庫県生。東京帝国大学卒。大学在学中第二次『新思潮』同人。漱石門下。ニイチェ、キエルケゴールの研究に没頭する。その倫理学の体系は、和辻倫理学と呼ばれる。また仏教美術の研究にも秀でたものがある。『古寺巡礼』『風土』『ニイチェ研究』『日本古代文化』などがある。

人間生活を宗教的とか、知的とか、道徳的とかいふ風に截然と區別してしまふことは正しくない。それは具體的な一つの生活をバラバラにし、生きた全體として掴むことを不可能にする。しかし一つの側面をその著しい特徴によって他と區別して観察するといふことは、それが全體の一側面であることを忘れない限り、依然として必要なことである。この意味では、宗教的生活と享楽の生活とは、時折不可分に結合してゐるに拘らず、なほ注意深い區別を受けなくてはならぬ。佛徒の生活 も、このから區別脱れることは出来ない。佛教の禮拝儀式や装飾藝術は、決して宗教的生活の本質に屬するものではない。宗教的生活はこれらの總てを缺いてもかまはない。荒野のなかにあって、色彩と音楽とのあらゆる人工的な試みを離れ、たゞ絶對者に對する帰依と信頼、さうしてこの絶對者に指導せられる克己、忍辱、慈愛の實行、──それだけでも十分なのである。
(古寺巡禮)
〈美の哲学者〉といわれた和辻哲郎が、20代の後半に旅した古都奈良の建築や美術の印象を書き留めた『古寺巡礼』。その中に、法隆寺の印象について木下杢太郎へあてて書いたという文章が載っている。
〈私は一己の経験としては、あの中門の内側へ歩み入って、金堂と塔に歩廊とを一目に眺めた瞬間に、サアアッといふやうな、非常に透明な一種の音響のやうなものを感じます〉。
昭和35年12月26日、哲学者は、練馬・南町の自宅で心筋梗塞により死去したが、〈二つくしゃみをし、大きく二度息を吐いた。十二時四十分あんなにも好きだった太陽が、あかあかと明るく部屋の障子いちめんにあたっていた〉と、照夫人は臨終の様子を記している。
和辻哲郎の名は『古寺巡礼』の著者としてよりも、郷土の誇りある哲学者として、より早くから意識の元にあった。北鎌倉の東慶寺にその人の墓があると知ってからは、何よりも先ず詣でたいと思っていた。
年の終わりの朝、思わず背筋がピンとなってくるほど峻烈な冷気に墓地全体が支配されている。交流のあった安倍能成、鈴木大拙や谷川徹三、西田幾多郎などの墓へ向かう一寸した坂道の脇に、低い石塀を背にして建っている哲人の墓碑は、横広でゆったりとしており、和洋を融合した趣があった。近代建築に日本の伝統精神を生かした建築家堀口捨己の手になるそれは石段の高さ、巾、墓前の空間、台石、墓石等、すべてが幽然とスキなく構成されていた。
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