本名=宮尾登美子(みやお・とみこ)
大正15年4月13日—平成26年12月30日
享年88歳(舜文院登覚妙叡大姉)
東京都狛江市岩戸南2丁目10–13 明静院(天台宗)
小説家。高知県生。高坂高等女学校卒。生家は芸妓紹介業。家業を嫌い17歳で結婚し、旧満州に渡るも敗戦で引き揚げ、過酷な体験を力に執筆を始める。昭和37年『連』で婦人公論女流新人賞受賞。離婚・再婚後上京。47年に自費出版した『櫂』で翌年太宰治賞、54年『一絃の琴』で直木賞を受賞。ほかに『寒椿』、『序の舞』、『藏』などがある。

月も星もなく霙でも降り出しさうな暗い夜で、やがて動き出した車の中まで二月の寒さはしんしんと忍び込んで来るやう であった。刃物のやうに冷たい夜の凩に軒のビラが吹上げられてゐる商店街を通抜け、車はそろそろ大戸を下さうとしてゐる電車通りの灯りの中を東へ向つて速度を早める。綾子が窓枠に頣を乗せるやうにして窓外の灯を見てゐるのへ、喜和は何か明るい調子で話し掛けてやりたかったが、唇が硬ばつて動かず、無理に口を聞かうとすれば升の縁すれすれほどに盛上つてゐる涙がどつと一時に噴き滾れさうに思へた。
夜寒の始まった季節、荷のすべてを車力に乗せて海岸通りを出たのはいまから三カ月前であり、今はまた、その荷を分けてもと来た方向へ引返してゐる。考へてみれば儚なく慌しい流転で、しかも母娘は今日限りで母娘ではなくなる筈であつた。
喜和は外の景色を窺ってゐてから運転手に、
「あの四つ橋の南の橋の上で止めて頂戴」
と、低く沈んだ声で云った。
その橋の上に立てば確か岩伍の家の灯が望める筈であり、健太郎に書いて貰つた地図を懐から取出さなくとも喜和ははつきりとよく憶えてゐる。
街灯も人通りも全く無い、厚い闇の畳み重なつてゐる四つ橋の南の橋の上にすうーつと車が止まると、喜和は綾子に向つて、
「お母さんは此処で下りるぞね。
風邪引かんやう、よう気を付けて」
綾子はさすがに悲しさうな顔で頷き、閉めてある窓硝子を内側から下して、
「お母さんは今から何処へ行く?」
と心配さうに訊いた。冷たい不気味な闇の底に一人下り立つ母親の行方を確かめておきたいらしかつた。喜和は一寸考へてから窓に顔を寄せ、
「此の橋の上に立つて、綾子の車を見送ってあげる。
それから鉄砲町へ行くつもり」
鉄砲町と聞いて安心したのか、綾子は深く頷いて硝子戸を引上げた。
喜和が立ってゐる前を、車が一旦後へ下つてから納屋堀川に面した広いアスファルトの道を、南を指して音もなく滑つてゆく。
( 櫂 )
高知県生まれの性格は男はいごっそう(頑固で強情)、女ははちきん(お転婆)だそうな。父猛吾もまたいごっそうな芸妓紹介業つまりは女衒であった。その家業と女衒の父と愛人の間に生まれた自分の生は生涯に亘って富美子を苦しめ、愛憎は作家の道に踏み出す大きな要因にもなった。父から逃れるように若くして結婚したものの満州から引き揚げて間もなく離婚、その後再婚した夫とともに夜逃げ同然に上京し、自費出版した『櫂』によってようよう日の目を見ることができた。『一絃の琴』では直木賞も受賞。波瀾万丈とはまさにこのことかと思えるほど起伏の多い人生であった。平成26年12月30日午後8時30分、深い息を二度してはちきんの高知女宮尾登美子は老衰のため東京・狛江、多摩川畔の自宅で逝く。
磨かれた五輪塔に朝の陽が強く眩しい。陰翳はクッキリと輪郭を際立たせて、平家紋の揚羽蝶をあしらった宮尾家の水桶が逆さに立てかけられている。平成19年に夫が亡くなった際に自宅に近いこの墓地を購入し、翌年9月に建てた墓。地輪にある墓碑銘は「然」。裏に夫雅夫と登美子の戒名没年月日などが彫られている。夫婦揃って祥月は12月。一昨日来の台風の余波が続いているのか、ゆうらりゆうらりと先端を波打たせていた背後の竹林が突然、前後左右に激しくざわめきだしている。〈青春の日をその憎悪でほとんど埋めつくした〉家業と女衒の父猛吾、女義太夫の実母、育ての親喜世、絡み合ったすべての愛憎の糸を解すかのように。
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