本名=三橋敏雄(みつはし・としお)
大正9年11月8日—平成13年12月1日
享年81歳(蒼天院真観敏雄居士)
東京都八王子市長房町58–3 吉祥院(真言宗)
俳人。東京都生。実践商業学校(現・実践学園中学・高校)卒。昭和13年同人誌『風』に発表した『戦火想望俳句』が山口誓子に絶賛され新興俳句無季派の新人として注目される。その後西東三鬼に師事。『天狼』同人。句集に『しだらでん』『真神』評論に『現代俳句の世界』などがある。

かもめ来よ天金の書をひらくたび
鬼赤く戦争はまだつづくなり
しらじらと消ゆ大いなる花火の血
少年老い諸手ざはりに夜の父
石段のはじめは地べた秋祭
あやまちはくりかへします秋の暮
一滴もこぼさぬ月の氷柱かな
尋常の死は冬に在り奥座敷
死して師は家を出て行くもぬけの春
いつせいに柱の燃ゆる都かな
新興俳句から出発した三橋敏雄は結社とは無縁の俳句人生で、船乗りとして長く海上勤務をしてきたゆえか明るくて自由な作風はどこか閉鎖的な俳壇とは一線を画くするものであったが、バブル期、不動産詐欺によって生まれ故郷八王子の土地家屋を失い、やむなく孝子夫人の実家がある小田原に移ってきたのは昭和62年秋のこと。〈野の果ての灘も相模や渡り鳥〉などというやりきれなさのこもった句をつくっているが、敏雄本来の積極的で強靱な意思は孤高の精神世界をつくりあげ、最晩年、温もりのある辞世の句〈山に金太郎野に金次郎予は昼寝〉を残して平成13年12月1日午後7時50分、師・西東三鬼と同じく胃がんのため家族・門人などに看取られながら死去した。
多摩八十八カ所霊場第六十七番、武蔵野丘陵に連なる一乗山吉祥院は三橋家代々の菩提寺である。高尾山とは目と鼻の先、本堂裏の墓地に通ずる坂径の途中にはこの地で敏雄が作句した〈たましひのまはりの山の蒼さかな〉の短冊形句碑や天狗の石像を配した高尾山遥拝所の鳥居が建っている。風の強い冬の午後、冷然とした陽を浴びている墓所、何を意味した意匠なのかエンタシス風の円柱上に石球がのせられた「三橋家」墓。平成14年1月、孝子夫人によって建てられた墓碑の周りには桜や松の枯落葉が吹きだまり、十七回忌の卒塔婆がカランカランと乾いた音を休みなく奏でていて、南に展けた眼下に敏雄生育の地八王子市街が望める。
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