水上瀧太郎 みなかみ・たきたろう(1887—1940)


 

本名=阿部章蔵(あべ・しょうぞう)
明治20年12月6日—昭和15年3月23日 
享年52歳(賢光院智阿文徳章蔵居士)
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園5区1種16側6番 



小説家・評論家。東京府生。慶応義塾大学卒。大学在学中『三田文学』に処女作『山の手の子』を発表。久保田万太郎とともに「三田派」の新進作家として知られ、作品集『処女作』『その春の頃』『心づくし』を刊行。父の創立した明治生命につとめ、生涯実業家と文学者の二重生活を続けた。『大阪』『大阪の宿』などがある。






  

 お屋敷の子と生れた悲哀を、沁み々々と知り初めたのは何時からであつたらう。
 一日一日と限り無き喜悦に満ちた世界に近付いて行くのだと、未来を待つた少年の若々しい心も、時の進行に連れて何時かしら、何気なく過ぎて来た帰らぬ昨日に、身も魂も投出して追憶の甘き愁に耽り度いと云ふ果敢無い慰籍を弄ぶやうになつてから、私は私に何時も斯う尋ねるのであつた。
 山の手の高台もやがて尽きようと云ふだらだら坂を丁度登り切つた角屋敷の黒門の中に生れた私は、幼き日の自分を其黒門と切離して想起すことは出来無い。私の家を終りとして丘の上は屋敷門の薄暗い底には何物か潜んで居るやうに、牢獄のやうな大きな構造の家が厳めしい塀を連ねて、何處の家でも広く取囲んだ庭には鬱蒼と茂つた樹木の間に春は梅、桜、桃、季か咲揃つて、風の吹く日には何処の家の梢から散るのか見も知らぬ種々の花が庭に散り敷いた。そればがりではない、もう二十年も前に其の丘を去つた私の幼い心にも深く沁み込んで忘れられないのは、寂然した屋敷々々から、花の頃月の宵などには申合せたやうに単調な懶い、古びた琴の音が洩れ聞えて、淋しい涙を誘ふのであった。私は斯うした丘の上に生れた。
                                                          
 (山の手の子)

            


 

 泉鏡花に傾倒し、「水上」、「瀧太郎」は鏡花の作品『風流線』と『黒百合』の主人公からとった筆名であった。
 父、阿部泰蔵の創設した明治生命保険会社(現・明治安田生命保険相互会社)に勤め、実業家と小説家、二筋の道を歩きながら創作に励んでいった。
 昭和15年3月23日、水上は明治生命保険会社専務取締役阿部章蔵として明治生命講堂に於ける「銃後娘の会」発会式に臨み、講演途中に脳溢血を起こしてその日午後11時10分、代々木の自宅で死去する。その月『三田文学』は「水上瀧太郎追悼號」を臨時増刊し、『三田文学』の支柱であった水上の死を〈水上瀧太郎は人間として、第一流中の一流であった。〉と悼んだ。



 

 乳母に、「町っ子とお遊びになってはいけません」といわれながら育ったお屋敷の子と生れた悲哀を〈悲しくも懐かしくも嬉しき思い出として〉生涯にわたって持ちつづけた水上瀧太郎。——明治生命保険会社創業者阿部一族の墓が霊園の放射状の通りに向かって七基、横一列に並んでおり、そのすべてに「阿部家之墓」と刻されている。右から二番目が水上瀧太郎の墓であるが、瀧太郎の名も、阿部章蔵の名も記されていない。幼い息子と散歩途中に立ち寄った泉鏡花邸前の往来で、かの文豪が、鼻から烟草の煙を出してあやすのを「汽車々々」と喜んだという長男優蔵の名が建立者として裏面に刻されてある。その有様だけが故人を偲ぶ縁であった。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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