本名=倉片よし(くらかた・よし)
明治19年8月7日—昭和2年3月26日
享年40歳(浄貞妙芳大姉)
埼玉県所沢市元町20–15 実蔵院(真言宗)
歌人。埼玉県生。埼玉県女子師範学校(現・埼玉大学)中退。明治42年新詩社、44年青踏社、大正5年より『アララギ』同人。以後、古泉千樫に師事。大正10年歌集『吾木香』、死後に『三ヶ島葭子全歌集』刊行。俳優の左卜全は異母弟にあたる。

鈴ふればその鈴の音を食はむとするにやあはれわが子口あく
わがひとり堪ふるによりて君が心安しといはば命もて堪へん
断ちがたき思ひなりけりこの心いまはみづから苦しむにまかす
障子しめてわがひとりなり厨には二階の妻の夕餉炊きつつ
朽ちし樋の幾ところより夕立の雨むきむきにほとばしるなり
裏庭に落つると鳴きし蝉のこゑこの真夜中の暗にひびきし
枕あげてわが見たる時フリジヤのすがしき花は光りけるかも
はげしくも怒れる心凩の吹く夜をひとりわが寒からず
紙に吐きし痰赤からずわが窓にあたる障子の日かげのしづけさ
麻布谷町50番地、じめじめとした崖下の暗い借家の二階には〈学者の恋・詩人の恋〉とさわがれた物理学者石原純博士と原阿佐緒女史が同棲し、説得のため斎藤茂吉や古泉千樫も訪ねてきた。二人が去った後も、大阪から戻ってきた夫寛一を追って、愛人冨野が上京し暮らし始めた。2年もの忍耐生活を強いてその二人も去った。
——葭子一人の小さな家に今日は朝から冷たい春雨が降りかかっている。前日の25日、肺患の上に心身共にぼろぼろの彼女に脳出血の再発という不幸が重なり、肺患ゆえに祖父に預けていた愛娘みなみがかけつけた時には微かな意識があるのみであった。昭和2年3月26日午前11時30分、孤独の歌人三ヶ島葭子は死去した。
武蔵野三十三観音霊場第九番実蔵院の本堂裏、あじさいの花が鮮やかに咲く坂を登ると古びた墓地がある。
ひとつの縦道、ひとつの横道、碑面の刻を確かめながらなぞっていく。倉片姓の多いこの墓地の碑に「倉片よし」の名は何処にも見あたらない。仕方なく引き返し住職に聞く。土地の旧家であった倉片家の塋域には葭子の夫寛一とその母わぐり、葭子の死後妻となった冨野の納まる「倉片氏墓」を首座として左右に大小の碑が並べてある。その中の「故倉片ふさ/司壽之墓」、古湿とした寂しいこの碑の下に三ヶ島葭子は眠るという。複雑な因縁に繋がった人どもとはいえ、寛一の叔母といとこの眠る墓に納められた葭子の霊は泉下においてなお、あきらめにも似たやるせなさを託っているのだろうか。

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