後記 2011-01-05         


 

 誕生色というものがあることを初めて知りました。
 私の誕生色はVIOLAだそうです。
 全く似合いません。
 PANTONEでいうと16-3815。

 ついでにいえば、私は無学にして色の名も、花の名も、鳥の名も、風の名もほとんど知りません。
 色は色、花は花、鳥は鳥、風は風。
 哀しいことにそれでもどうにか今日までつつがなく過ごしてこられたのは何の意味も求めず、漫然と無意味な生活を繰り返してきたからだろうと反省かたがた推測しています。
 冬の美しさを知らず、秋の初嵐を知らず、枯淡の水を知らず、失われたものが多すぎて風雅風流の世界とは縁遠い生活ではありました。

 ところで、唐木順三氏によれば「芭蕉翁は高く心を悟って俗に帰れという。百尺の竿頭にのぼりつめたら、そこに住することなく、手を放って却来せよ、却り来ったところは俗ながら俗にあらず、さらばといってひとり澄む雅にもあらず、いわば風雅に照された俗、風狂風流である。そこでは遊女と同室に寝たことも句になる。馬の尿も句境に入る。」、つづけて「この俗に立帰ったところが、西行や雪舟、また宗祇や利休と違う点といってよい。中世人のわびをもわびつくして、風情がついに菰をかぶったところに反って、さびの世界が生まれた。」と。
 私にはそんな境地にとても辿りつけるはずもないのですが、時にして、色を思うこと、花を思うこと、鳥を思うこと、風を思うことはあるのです。世阿弥のいう「時分の花」ではありませんが、年齢とともにに失われてゆく折々の花を恐る恐るなぞること、そのことによって私はせいぜい生かされてあるのでしょう。
 と、自らを慰めています。

 半生はとっくの昔に過ぎました。
 残された時間に比べて失われた時間のなんと多いこと。

 北村太郎は「朝の鏡」というこんな詩を書いています。
  
 朝の水が一滴、ほそい剃刀の
 刃のうえに光って、落ちる ーー それが
 一生というものか。不思議だ。
 なぜ、ぼくは生きていられるのか。曇り日の
 海を一日中、見つめているような
 眼をして、人生の半ばを過ぎた。

 「一個の死体となること、それは
 常に生けるイマージュであるべきだ。
 ひどい死にざまを勘定に入れて、
 迫りくる時を待ちかまえていること」
 かつて、それがぼくの慰めであった。
 おお、なんとウェファースを噛むような

 考え! おごりと空しさ! ぼくの
 小帝国はほろびた。だが、だれも
 ぼくを罰しはしなかった。まったくぼくが
 まちがっていたのに。アフリカの
 すさまじい景色が、強い光りのなかに
 白々と、ひろがっていた。そして
 まだ、同じながめを窓に見る。(おはよう
 女よ、くちなしの匂いよ)積極的な人生観も
 シガーの灰のように無力だ。おはよう
 臨終の悪臭よ、よく働く陽気な男たちよ。
 ぼくは歯をみがき、ていねいに石鹸で
 手を洗い、鏡をのぞきこむ。
 朝の水が一滴、ほそい剃刀の
 刃のうえに光って、落ちる ーー それが
 一生というものか。残酷だ。
 なぜ、ぼくは生きていられるのか。嵐の
 海を一日中、見つめているような
 眼をして、人生の半ばを過ぎた。
 
 慟哭した日も、快哉を叫んだ日も、迷い彷徨った日も、ついには一日となり、過ぎ去って無に帰する時は瞭然とあるのです。







 

 

 

 

 

 

 

 

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