室生犀星には二つの「坂」という詩があります。
街かどにかかりしとき
坂の上にらんらんと日は落ちつつあり
円形のリズムはさかんなる廻転にうちつれ
樹は炎となる
放浪時代の室生犀星が佇ちつくした遠い日のこの坂を私は上り、この坂を下っています。
道幅の狭い急なこの坂を町の人たちは毎日あえぎながら上っていきます。昔はもっと狭く、もっと急な坂だったといいます。かって、坂の上には森鴎外、夏目漱石、高村光太郎、宮本百合子、川端康成などが住み、平塚雷鳥の「青鞜」や江戸川乱歩の古本屋などもありました。漱石の「三四郎」、鴎外の「青年」、二葉亭四迷の「浮雲」、乱歩の「D坂殺人事件」などの小説にも登場しました。明治の頃は菊人形でにぎわったとも聞いています。
この町に越してきてからというもの、この坂の上り下りは、坂上にある図書館に通うために繰り返す私の常となりました。朝に夕に、上る坂と下る坂、祭りのお囃子が聞こえてくるときもありました。靴音だけが響いてくる日もありました。時折は自転車の急ブレーキ音が耳をつんざいて下っていきます。途中で逆「くの字」に折れ曲がった坂は、恥ずかしいほど無垢なよろこびと剥落してしまった時を見送って一粒の露となった光が砕け、同行し、あるいは離れ、果てしなく繋がっていくのです。「らんらんと落ちる日」を眺めながら行ったまま帰らない記憶を呼び戻そうとしてぐらぐらと佇ちつくしたときもありました。あの建物のずっと上の、一枚の雲のさらに高い所、故郷の雑木林に降り積もった枯れ落ち葉の上を歩く足音が幽かに聞こえるようなあたりに、いつの季節だったかの何かを忘れてきた気がして、吊り橋に揺られたように酔ってしまったのでした。
珍しく雪の降った翌る日、坂の途中にある電話ボックスの傍らに、黄色い蝶を閉じ込めたような模様のビー玉が一個、真綿の雪に包まれて静かに眠っていました。ただ一瞬そう思っただけで、それは私の探していたもの、私の置き忘れてきたものであったかもしれなかったのに、下り坂の勢いのままやり過ごし、すっかり忘れていたのです。それから数日たったある日の午後、坂を上りながら、いつもは無人のボックスに人影を認め、半開きになっている電話ボックスの扉に気を取られてふと下を見ると、雪が溶けた縁石の窪みにあのビー玉は挟まれてあったのです。閉じ込められていた黄色い蝶はやはり眠っているようでした。
翌日、雨が降りました。
その場所にあったはずのビー玉はなくなって、ビー玉が挟まれてあった窪みには雨水が溜まり、私とは無縁な小さなうち暮れた世界が放心したように沈んでいました。運命を識ったものは空に舞って、わたしは飛び立った蝶を、黄色い羽を持った蝶を思います。初夏の田園風景を思います。つかの間の永遠を思います。朝日がさす坂を思い、夕日がしずむ坂を思います。
物憂げな瞳の奥に樹を揺らせ、空を映し、空の中に風を泳がせ、不安な町人となった私はあえぎながら、この先、幾たびこの坂を上り、この坂を下るのでしょう。
犀星の詩はこう結ばれています。
さらに見よ
坂の上に転ろびつつ日はしづむ
そのごとく踊りつつ転ろびつつ
坂を上らんとするにあらずや
そしてもう一つの詩があります。
この坂をのぼらざるべからず
踊りつつ攀らざるべからず
すでに桜はしんじつを感じて
坂のふた側に佇ちつくせども
ひざんなる室ぬちにかへらねばならず
日としてわが霊
しをらしからざりしことはなけれど
ただ坂の上をおそれる
いまわが室は寂として
かへらむとするわが前に
鼠を這はしめんとするか
ああわがみじめなる詩篇を携ち
悄として
されど踊りつつ坂を上らざるべからず
坂は谷中より根津に通じ
本郷より神田に及ぶ
さんとして
眼くらやむなかに坂はあり
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