思考と行動

我々が何かの考えに基いて意識的に行動しようとするとき、その何かは正しいのだと仮定しています。我々はその何かが正しいと信じていることになります。何かを信じることは思考停止であるとも言えますが、思考を停止してこそ行動できるわけです。思考は意識優位の状態で、行動は無意識優位の状態であると考えると、それらは両立せず、我々はその間を行ったり来たりするものなのではないでしょうか。また、肯定的に思考できればおもしろく、肯定的に行動できれば楽しいのだと思います。

我々は意識を持ち思考をするせいで、自分や他人の行動に正しさを求めてしまいます。が意識によって否定された存在であるとすると、正しさとは意識の自己正当化だと考えられます。我々は生きていくために行動しなくてはなりませんが、行動は無意識優位の状態なので、意識にとっては不安です。そのため、我々は行動の正しさの根拠を求めて思考するのでしょう。しかし、絶対的に正しいことなど存在しないと考えられるので、その思考には解決がありません。思考を停止しなければ行動できないので、我々は仮に何かを正しいものとして、それに基いて行動する必要があります。

ところが、あまり意識に偏ってしまうと、「行動するためには何か正しい根拠を考えなくてはいけないが、絶対的に正しいことなどありそうもない、しかも行動しなければならない」という矛盾に陥ってしまいます。極端に意識が優位になると、いわゆるダブルバインドの状態になるわけです。意識優位の状態を我々に要求するのは社会なので、社会が精神を病ませるのだとも言えます。ところが、社会というのは我々の意識が作りだしたものなので、結局、意識が精神を病ませるのだということになります。

意識優位の状態において陥る矛盾から逃れるには、正しいと信じきれない「何か」を正しいものと仮定してでも行動しなくてはなりません。しかし、その正しさは仮定に過ぎないので、行動の結果から元の「何か」の正しさを反省する必要があります。意識的行動を続けていると、常に行動の根拠を反省する必要があるわけです。ところが、行動の根拠を疑うことを繰り返していると、何かを正しいと仮定することが絶望的になり、ますます行動が困難になり意識優位になるでしょう。つまり、意識優位の状態で生きていくことは意識の優位をますます加速し、その結果、精神はますます不調になります。

だからといって、「何か」を仮にではなく絶対的に正しいと信じて行動してしまうと、行動の結果から元の「何か」を疑うことができないので、我々は行動を停止して思考することができません。つまり、思考を停止したままになってしまいます。我々は大きな文明社会知らない人とも関係しながら暮らしているので、思考を停止したままではうまくいきません。問題は「正しさ」を求めることにあります。思考と行動は矛盾するものなので、正しさを求めると、どうしてもとちらかに偏ってしまうのです。思考と行動を両立するには、正しさではなくバランスが重要だと思われます。