20−21

20世紀は大量生産の時代だった。なんでモノを大量に生産するのだろうか? 我々は生きていく上で衣食住を確保するためにいろいろな物を必要とする。しかし、生きていくために必要な物は大量生産の時代以前にもあったはずだから、大量生産というのは必要以上の物を作るということである。現実の必要以上の物を作るのは、現実の必要を満たす以外の目的があるからだ。現実の必要以外の目的とは想像上の目的である。想像上の目的のためであっても、物を作れば現実に物ができる。大量生産の目的は我々の想像を現実化することにあるのだといえる。

大量生産品の代表は家電製品や自動車だが、高層ビルは事務所や住居の大量生産だし新興住宅地もそうだ。本やレコ−ドも大量生産される。何かを大量生産するためには、生産効率を高くしなくてはならない。生産の効率というのは時間あたりの生産量のことである。時間あたりの生産量を上げるためには決まった手順で規格品を作ればよく、一日あたりの生産量を上げるには一日のうち長時間働けばよい。そういうわけで、大量生産時代の生活というのは「決められた作業をすることで一日の大半を過ごす」というようなものになる。

家電製品や自動車が大量生産される前には、そういう物は存在しなかったか、あったとしても数が少なかったので、我々は「そういうものが自分のものになったらいいだろうなあ」と想像することができた。想像すると欲しくなる。欲しかったら、大量生産の仕事を一部担当して、代わりに「大量生産品引換券」を受け取る。それが20世紀のお金だ。大量生産の仕事をするのは稼いだお金で大量生産品を手に入れるためである。つまり、大量生産のシステムは大量生産品についての想像的価値が支えている。

大量生産の仕事というのは「決められたことをして一日を過ごす」ような仕事で、その仕事に就くにはそれなりの訓練を受けていなくてはならない。子供は、というか人間はほっとくと自分で何かを思いついて好きなことをしたりぼおっとしたりしてしまうものである。想像力があるからだ。そういうものである人間を「決められたことをして一日を過ごす」ように訓練するのが20世紀の学校教育だった。想像力は決められたことをするのにジャマだから、20世紀的教育というのは想像力にフタをするようなものである。

そのようにして、大量生産の仕事をした結果、我々は大量生産品を手に入れることができた。つまり、「ものを手に入れる」という想像を現実化してしまった。ところが、想像というのは自分に都合よくできているが現実というのは不都合を含んでいるので、現実は想像していたほど素晴らしくない。想像を現実化しようとしている時が一番幸せかも知れない。だから、「大量生産品を手に入れる」という想像を現実化してしまった我々は、今度は別の想像を必要としているのだ。

20世紀的生活が身に付いている我々は想像力にフタをして生きてきたようなもので、次の時代を想像することがなかなか難しい。まず我々は次の時代の生活を想像するための想像力を取り戻さなくてはならない。我々が想像力にフタをして生きてきたのは、そうすることで仕事に就き、物を買うことができるからだ。想像力を取り戻すとそういう生活を失うかもしれない。しかし、今までどおり想像力にフタをしたままでも、今までの生活というのは経済システムの混乱の結果として失われつつある。自分の今の生活が当分安泰だと思っている人はいないだろう。

我々の一番の問題は想像力にフタをしてきたことだ。なぜ大量生産時代に想像力にフタをしなければならなかったかというと、「決められたことをして一日を過ごす」ためだった。想像力というのは自発的なもので、決められたことをして過ごしていると想像力は涸れる。我々が想像するべきことは「決められたことばかりしなくてもいい生活」だ。決められたことをするのは生産効率のため、つまり時間を無駄にしないためだった。だから、「決められたことばかりしなくてもいい生活」とは時間を無駄にしてもいい生活」のことである。

「時間を無駄にする」という時の「無駄」は生産に結びつかないということだが、生産より想像に価値があるということになれば、好きなことをしたりぼおっとしたりするのは無駄ではなく時間の有効活用である。そのようにして、想像力が復活してくれば、地味なものごとの中に大きな価値を見出すことができるようになる。そうなると、想像したことの実現というのも20世紀的に大層ではなく地味なもので構わない。21世紀は気楽そうだ。

 → 21世紀の仕事