おきらくごくらく

これから先、僕はどのように暮らしたいかというと「気楽に」暮らしたい。これまでだってそうだったのだが、何故かだんだん気楽じゃなくなってきたのだ。それで、気楽さを取り戻すために、色々とあまり気楽じゃないことも考えてみることにした...というのがこの「小脳論」というページの存在理由である。

まず、気楽であるとはどういうことかから考えてみる。気楽というのは、自分にとって不都合なことがあまりない状態である。不都合なことをいっぱい抱え込んでいながら気楽でいられるはずがない。そして、不都合というのは現実が目の前に姿を表したものだから、気楽とは「現実に直面しなくてすむ状態」か「現実に直面しても不都合を感じない状態」のどちらかである。今は価値崩壊の時代で、価値観の急変にともなって様々な問題が起きている。そのような現実に直面しなくてすんでいる人はいないだろう。

「現実に直面しなくてもすんでいる気楽さ」というのがありえないとすると、「現実に直面しても不都合を感じない状態」を目指すしかない。現実に直面しても不都合を感じないでいられるようになるには、その現実にきちんと対処することができるようになればよい。現実を不都合と感じるのは、それに対処できないからである。つまり、現実に対処する方法を身に付けているかいないかで、同じ現実に直面した時に気楽でいられるかどうかが分かれるわけだ。だとすると、現実に対処する方法というものをひと通り身に付けてしまえば、後は気楽に暮らしていけるはずである。ただし、それは現実というものがあまり変化しないか変化がゆっくりしている時代の話である。

問題は現実というものが最近になって急速に変わりつつあるという点にある。現実が変わるとそれに対処するのに今までの方法が使えなくなって、対処する方法がないという状態になる。それが不都合であり、気楽にしていられない状態である。それでも、現実の変化がゆっくりしている時代ならゆっくりと新しい方法を考えることができるし、誰かが新しい方法を考えだすのを待っていても間に合うかも知れない。しかし、現実の変化が激しくなってくると、「対処する方法を考えているうちに現実の方はさらに変化している」というような状態になる。これではいつまでたっても気楽になれるはずがない。

90年代になったあたりから現実の変化は急激になりつつあるので、目先の現実に対処する方法ばかり考えていても何が何だかワケワカランということになる。だから、変化する現実に対処する方法をいちいち身に付けていくことで「不都合を感じなくなる」というのは無理のようである。ということは、もう気楽になる道は残されていないのだろうか? いや、そう簡単にあきらめるわけにはいかない。何しろ、僕は気楽に暮らしたくて、しかも、それは正しいことだと思っているのである。

変化する現実に対処する「正しい」方法を身に付けるのは間に合わない。つまり、変化する現実に「正しく」対処することはできない。ということは、どう対処しようと自由なわけである。要するに、臨機応変に自分の好きなように対処すればよいのであり、そうでもするしかないのである。そう考えると少し気楽になるが、この変化というやつが永遠に続くのかと思うとやっぱり気が重くなる。しかし、この急激な変化が長期間にわたって続くとは思えない。バブル経済の頃に株や土地が急激に値上がりしたのと同じことである。そんなことが永久に続くわけがないのだ。

考えなくてはならないのは、この変化の落ち着く先である。いつかは落ち着くのだと思うと、また少し気楽になる。そして、落ち着いた先にある現実がどのようなものなのかを考えて、その現実に対処する方法を身に付けておくことが、未来において気楽に暮らすために必要なことである。そして、色々考えた末、「これからは頭で覚えたことより身体で覚えたことが重要になる」という結論に達した。そして、何かを身体で覚えることは焦ってもどうにもならない。逆に気楽に構えていた方がうまくいくものだ。

そういうわけで、「気楽に暮らすためには気楽に構えていることが重要」なのである。これだけだと「お気楽で結構なことですね」と言われそうだが、実はそうではない。ややこしい現実に対処するためには、ややこしい決まりごとに縛られずに気持ちだけでも気楽に保っていた方がうまくいくだろうということです。