History of Japan

日本の歴史 − 特に飛鳥時代を中心に
Brief history of Japan - focusing Asuka era


古墳時代から武烈天皇まで

応神天皇・仁徳天皇あたりから巨大古墳を築造した。

参考:
古墳時代っていつ? http://www.mediajoy.com/chikatsu/cs/cs01.html
前方後円墳 http://www.ozlab.osakac.ac.jp/KOFUN/index.html

応神天皇(第15代)

参照:
応神天皇陵 http://www.mydome.or.jp/habikino-city/mystery/kofun.html
応神天皇陵 http://www.ozlab.osakac.ac.jp/KOFUN/Ranking/nara11.html

仁徳天皇(第16代)

仁徳天皇は、国にたち上るかまどの煙を見て民の暮らしを計り、善政を敷いたという。(日本書紀)
応神天皇・仁徳天皇が同一人物であるという説もある。
倭の五王讃・珍・済・興・武の讃を仁徳天皇に当てる説がある。ただし、異説も多い。
倭の五王は大和王朝とは全く無関係の九州王朝の王だったという説もある。

参考:
仁徳天皇陵 http://www.ozlab.osakac.ac.jp/KOFUN/Ranking/nara10.html
仁徳天皇陵 http://www.city.sakai.osaka.jp/kofun/database/nintoku.html


雄略天皇(第21代)

倭の五王にある武が、雄略天皇のことだというのが定説。
ただし、前記のように、倭の五王は大和王朝とは無関係の九州王朝の王という説もある。

雄略天皇陵は、島泉丸山古墳(大阪府羽曳野島泉)とされている。

武烈天皇(第25代)

日本書紀は暴虐の天皇として記している。継体天皇の皇位継承を正当化するためである。


継体天皇(第26代)

武烈天皇の後継。越前王朝。男大迹王。皇后は手白香皇后(たしらかのきさき)。
磐井の乱を鎮圧。
継体天皇陵としては、下記の二つが有力とされている。
太田茶臼山古墳http://www02.so-net.ne.jp/~yuki-m/ota.html
今城山古墳http://www02.so-net.ne.jp/~yuki-m/imashiro.html

欽明天皇(第29代)

欽明天皇は継体天皇の嫡子。母は手白香皇后(たしらかのきさき)。皇后は石姫。石姫は二男一女を生んだ。次男がのちの敏達天皇。
欽明天皇は、石姫のほかに5人の妃を持った。稚綾姫皇女(わかあやひめのみこ)、日影皇女(ひかげのひめみこ)、堅塩媛(きたしひめ)、小姉君(おあねのきみ)、糠子(あらこ)の5人である。

欽明天皇陵は、奈良県明日香村にある。堅塩媛と合葬されている。下記を参照。
欽明天皇陵 http://www.sikasenbey.or.jp/asuka/kohun.htm

敏達天皇(第30代)

敏達天皇は、石姫皇后による欽明天皇の子。敏達天皇の最初の皇后は広姫。広姫との子に押坂彦人大兄皇子。押坂彦人大兄皇子の子が田村皇子(のちの舒明天皇)。
広姫の死後、敏達天皇は炊屋姫(のちの推古天皇)を皇后とした。炊屋姫は美貌と聡明を伝えられている。炊屋姫は二男五女を生んだ。19歳から34歳までの15年間に7人の子供を産んだことになる。敏達天皇は炊屋姫を深く愛していたものと思われる。
敏達天皇・広姫の系統は、舒明天皇を経由して天智天皇、天武天皇へ連綿とつづく。
敏達天皇の時代、仏教を崇拝する蘇我氏と、排斥する物部氏の対立が激化した。

585年、敏達天皇没。天皇陵は太子天王山古墳とされている。

用明天皇(第31代)

用明天皇は欽明天皇の第四子。母は堅塩媛(きたしひめ)。堅塩媛蘇我稲目の女(むすめ)。
皇后は穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。嫡子が厩戸王子(聖徳太子)。
用明天皇は疱瘡で死。後継は崇峻天皇。

天皇陵は、春日向山古墳(大阪府南河内郡太子町春日)とされている。

崇峻天皇(第32代)

崇峻天皇は欽明天皇の第十二子。母は小姉君。小姉君は蘇我稲目の女(むすめ)。
崇峻天皇は蘇我馬子の専横を苦々しく思っていた。あるとき崇峻天皇が、猪の首をきるように、憎い人の首を斬りたいものだ。と話した。これが蘇我馬子に伝わり、驚いた馬子は先手を打って崇峻天皇を弑した。崇峻天皇没年592年。享年39歳。
皇位は推古天皇に引き継がれた。

推古天皇(第33代)

推古天皇は、堅塩媛による欽明天皇の第二女。用明天皇の同母妹。幼名額田部皇女。炊屋姫。第30代天皇敏達天皇の皇后。敏達天皇は石姫による欽明天皇の子であるから、炊屋姫(推古天皇)は異母兄と結婚したことになる。
592年、32代崇峻天皇が蘇我馬子に殺された。炊屋姫は周囲から推されて即位し33代推古天皇となった。このとき炊屋姫三十九歳。初めての女帝である。なぜ炊屋姫が後継にえらばれたのか、それは崇峻天皇暗殺のあとの混乱収拾のため適当な人材が他になかったことが理由だろう。炊屋姫は先々帝敏達天皇の皇后であり、また母は蘇我氏である。このことから天皇家と蘇我氏の緩衝役を期待されたのである。

推古天皇は聖徳太子を摂政として国政に当たらせた。
梅原猛は、推古9年から推古19年までを聖徳太子の政治の時代と考えている。
推古20年(推古天皇60歳)以降、推古天皇はふたたび蘇我馬子と関係を緊密にしてゆく。
梅原猛を引用しよう。
「この推古20年(612)春正月を契機として、政治の実権は再び馬子に戻ったと思う。そして太子は孤立してゆく。彼の政治の理想はあまりに高く、群臣たちはおそらくそういう太子についてゆけなかったであろうし、太子も現実の政治より永久の学問、あるいは宗教に夢中になっていったのであろう。」
(梅原猛「海人と天皇(上)」、P.211、新潮文庫)



推古天皇と敏達天皇の子は莵道貝蛸皇女(うじのかいたここうじょ)。推古天皇は、莵道貝蛸皇女を厩戸王子(聖徳太子)に嫁がせた。が、不運にも子がなかった。厩戸王子(聖徳太子)はさらに蘇我馬子の娘刀自古郎女(とじこのいらつめ)を娶った。子が山背大兄王。推古天皇の後継者をめぐって混乱が起こった一因である。推古天皇は、自分の娘を結婚させた男が別の女に産ませた子を、後継者にする気持ちになれなかった。

628年推古天皇没。
推古天皇陵は山田高塚古墳(大阪府南河内郡太子町山田)とされる。

推古天皇没後、後継者に混乱。広姫による敏達天皇の孫田村皇子と聖徳太子の子山背大兄皇子が対立。蘇我蝦夷の後盾を得て、田村皇子が立ち舒明天皇となる。
のち皇極天皇のとき、山背大兄王は蘇我入鹿の軍勢に強要され自殺。
推古天皇は自分の後継者を明確にしなかった。推古天皇にとって、山背大兄王も田村皇子も直接血のつながった自分の子ではない。山背大兄王は聖徳太子の子つまり甥の子である。一方、田村皇子は夫の敏達天皇が自分とはべつの女(先妻)である広姫に作らせた押坂彦人大兄皇子の子である。晩年の推古女帝は、積極的に後継指名する気力を失った。
推古天皇は美貌の女性であり、かつ聡明だった。権力のうえでは決して恵まれなかった。しかし、推古天皇が長い間朝廷の頂点に立っていられたのは、美しさに加えて周囲に好かれる聡明さを併せ持っていたからだと私は思う。

聖徳太子

聖徳太子は用命天皇の子、推古天皇の甥。母は蘇我稲目の孫、穴穂部皇女。
推古天皇の摂政として多くの革新を実行した。
内政面では十七条の憲法、冠位十二階。仏教の保護育成。
聖徳太子は蘇我馬子を大臣として用いた。
外交面では、下記。
煬帝と同時期。小野妹子を隋に派遣した。妹子は蘇因高と呼ばれた。国交。
隋は581年建国、618年滅亡。618年以降は
聖徳太子の妻は莵道貝蛸皇女(うじのかいたここうじょ)と刀自古郎女(とじこのいらつめ)。莵道貝蛸皇女は推古天皇の娘。刀自古郎女は蘇我馬子の娘。

推古30年(622年)聖徳太子没。
聖徳太子墓は、上城古墳とされる。
推古天皇は長命。

聖徳太子・推古天皇没後、蘇我氏の専横が続いた。

645年、中大兄皇子は中臣鎌足と謀ってクーデターをおこし、蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)親子を滅ぼした。中大兄皇子このとき19歳の若さ。のちの天智天皇である。中臣鎌足は藤原氏の祖。鎌足このとき31歳。このクーデターは、中臣鎌足が中大兄皇子の血気を利用したものだと私は思う。

参考:
飛鳥時代の歴史http://www.sikasenbey.or.jp/asuka/rekisi.htm
豪族
蘇我三代 http://www.cgc.co.jp/ASUKA/ASUKA4/soga/index.html
位階(http://www.wombat.or.jp/hiromi/heike/kansei/01_ref/ikai.html)

舒明天皇(第34代)

田村皇子。敏達天皇の孫。推古天皇の後継として即位。
敏達天皇と皇后広姫との子が押坂彦人大兄皇子。押坂彦人大兄皇子の子が田村皇子。
皇后は宝皇女。宝皇女はのちの皇極天皇・斉明天皇。子供は葛城皇子(天智天皇)・間人皇女(孝徳天皇皇后)・大海人皇子(天武天皇)。
夫人に法堤郎媛(ほてのいらつめ)。法堤郎媛は蘇我馬子の娘。法堤郎媛の子は古人大兄。

舒明天皇陵は、段ノ塚古墳(奈良県桜井市忍坂)とされている。


皇極天皇(第35代)

敏達天皇の曾孫。押坂彦人大兄皇子の孫、ちぬ王の娘。母は吉備姫王。宝皇女(たからのみこ)
舒明天皇の皇后。中大兄皇子の母。舒明天皇死に伴い即位。のち斉明天皇重祚。
皇極天皇は蘇我入鹿を重用した。梅原猛は、「(皇極天皇と)入鹿の間に男女の関係がなかったであろうか。」(p.220,「海人と天皇(上)」、新潮文庫)と言う。

蘇我入鹿は、法堤郎媛の子古人大兄を次期天皇にしようと企図した。まず、その障害となる聖徳太子の子山背大兄王を自殺に追い込んだ。
舒明・皇極の直系嫡子中大兄皇子にとっては、自分を排除しようとする蘇我入鹿は敵である。しかも母の皇極天皇が入鹿を信頼している。蘇我入鹿を殺すしか打開策がなかった。中大兄皇子は入鹿を暗殺。
(皇極天皇にとって、舒明天皇皇后である自分の子ではなく第二夫人の子が天皇位を継ぐことは面白いはずがない。このことと矛盾する入鹿の重用は不思議である。)

孝徳天皇(第36代)

(位645―654)孝徳天皇は皇極天皇の同母弟。すなはち、敏達天皇の曾孫、押坂彦人大兄皇子の孫、ちぬ王の娘、母は吉備姫王。名は軽皇子(かるのみこ)。中大兄皇子の叔父。
入鹿暗殺により、軽皇子が即位。孝徳天皇となる。皇太子は中大兄皇子。孝徳天皇は中大兄皇子に譲位するまでの中継ぎとして中臣鎌足が構想した。
646年、改新の詔を発した。実際には中大兄皇子・中臣鎌足の仕事だろう。

斉明天皇(皇極天皇重祚)(第37代)

皇極天皇重祚である。したがって、敏達天皇の曾孫。押坂彦人大兄皇子の孫、ちぬ王の娘。母は吉備姫王。舒明天皇の皇后。宝皇女。中大兄皇子の母。
660年、新羅と唐が連合して百済を攻め、百済滅亡。義慈王の遺臣鬼室福信が来て、援軍を要請した。日本書紀に次のようにある。
「冬十月、百済の佐平鬼室福信は、佐平貴智らを遣わして、唐の俘虜百余人をたてまつった。(中略)また援軍を乞い、同時に王子余豊璋をいただきたいと言い、『唐人はわれらの身中の虫(新羅)を率いて来たり、わが辺境を犯し、わが国を覆し、わが君臣を俘にしてしまいました』と告げた。」
斉明天皇は百済遺民の支援を決定。しかし、遠征準備中に、斉明天皇は七年秋没。後継は中大兄皇子。

天智天皇(626―671)(第38代)

日本を確立した天皇。
父は舒明天皇、母は皇極天皇。文句のない血統である。
19歳のとき(645年)蘇我入鹿を殺すクーデター。このあと、孝徳天皇、斉明天皇のもとで実質的な権力を握った。
660年、新羅は(618―907)と結んで百済を撃った。このとき新羅将軍は金春秋(のちの武烈王)、唐皇帝は第三代高宗、将軍は蘇定方。百済義慈王長安へ虜囚。百済残存勢力のリーダー鬼室福信から日本斉明天皇へ軍事援助要請。斉明天皇は朝鮮半島派兵を決定。この時、中大兄皇子(天智天皇)34歳。
百済救援派兵準備中に斉明天皇死。中大兄皇子は即位しなかったが、実質的な指導者。

663年9月28日、白村江の戦。敗戦。中大兄皇子36歳。
この敗戦により、中大兄皇子(天智天皇)は朝鮮半島への影響力行使をあきらめ、軍事の重点を唐・新羅にたいする国内防備に移した。対馬・壱岐・筑紫などに烽火台の建設。近江大津京への遷都(667年)など。
668年即位。天智天皇。皇太子に大海人皇子を指名(日本書紀による)。
新羅は、百済を滅ぼしたのち、唐と引き続き同盟して高句麗を攻めた。668年高句麗滅亡。

天智天皇の晩年、唐から郭務宗を代表とする2000人の使節が対馬へ来た。使節というよりも軍勢というべきだろう。天智天皇崩御の直後、絹、ふとぎぬなど多量の品を賜ったと日本書紀では書いている。実際は、戦闘を回避するための貢ぎ物だったろう。唐の軍勢にとっては軍事圧力で得た戦利品に他ならない。唐は日本から引き上げ、今度は新羅との戦いに力をそそぐ。

671年、天智天皇没。享年45歳。天皇陵は、御廟野古墳(京都府京都市山科)。

天智天皇の死去にともなう、壬申の乱という内乱。これは、天智天皇の子大友皇子と天智天皇の弟大海皇子の生き残りを掛けた戦い。大海皇子が勝利し、天武天皇として即位。

天武天皇(第40代)

(位673―686)
舒明天皇・皇極天皇の子。天智天皇の弟。大海皇子。皇后は天智天皇の娘(のちの持統天皇。)
持統天皇の姉大田皇女も妃。
壬申の乱で天智天皇の子大友皇子を滅ぼして即位。持統天皇による子が草壁皇子。大田皇女による子が大津皇子。
天武天皇十年(671年)、草壁皇子を皇太子とした。

686年、天武天皇死去。天皇陵は、野口王墓古墳(奈良県高市郡明日香村野口)。持統天皇と合葬。

持統天皇(第41代)

天武天皇の皇后。天智天皇の娘。子は草壁皇子。草壁皇子の妃は阿陪皇女(のちの元明天皇)。阿陪皇女の父は天智天皇。阿陪皇女と持統天皇は異母姉妹。草壁皇子と阿陪皇女の子、すなわち持統天皇の孫たちは、日高皇女(元正天皇)、軽皇子(文武天皇)、吉備皇女。

686年、天武天皇崩御。持統天皇ただちに皇位を継承。
持統天皇は草壁皇子を天皇にする意志を持っていた。その障害になるのは大津皇子だった。持統天皇は大津皇子を除こうと画策する。同年10月、大津皇子を逮捕、即決死罪。皇位継承者は草壁皇子に絞られた。
689年(持統天皇称制三年)、草壁皇子病死。享年28歳。草壁皇子に皇統を継がせようという持統天皇の計算は大きく狂った。
しかし、持統天皇はひるまない。自分の子供たちに皇統を残そうとする持統天皇の執念は強い。孫の軽皇子に望みを託す。草壁皇子死のとき、軽皇子わずか7歳。
690年、持統天皇として即位。藤原不比等が持統天皇を支える有能な人材として頭角を現してくる。不比等この時32歳。

持統天皇11年までに、軽皇子は皇太子になっていた。不比等39歳。軽皇子15歳。
持統天皇11年(697年)、持統天皇は軽皇子に譲位。軽皇子は文武天皇として即位。不比等は娘宮子を夫人として入内させた。
701年(大宝元年)、宮子夫人が首皇子(のちの聖武天皇)を出生した。
702年(大宝二年)12月22日、持統天皇没。享年58歳。


持統天皇を支えた藤原不比等の政治。律令の整備。飛鳥浄御原宮から藤原京への遷都。政敵を追い落とす不比等の策謀。
唐との交流。

陵墓:
天武・持統天皇合葬陵http://www.sikasenbey.or.jp/asuka/kohun.htm
天武・持統天皇合葬陵http://www02.so-net.ne.jp/~yuki-m/asuka/tenmu.html

文武天皇(第42代) (位697−707)

持統天皇の孫。名は軽皇子。父は草壁皇子、母は阿陪皇女(のちの元明天皇)。夫人に藤原不比等の娘、宮子。宮子による子が首皇子(のちの聖武天皇)。首皇子は持統天皇のひ孫にあたる。
持統天皇に引き続き、藤原不比等を厚く信任した。

文武元年(持統11年=697年)8月、持統天皇から譲位されて即位。このとき、わずか15歳。
藤原宮子を夫人とした。また紀朝臣竈門娘(きのあそんかまどのいらつめ)、石川朝臣刀子娘いしかわあそんとねのいらつめ)を嬪とした。宮子の子を皇統につける藤原不比等の意向に沿ったものである。
701年(大宝元年)、宮子夫人が首皇子(のちの聖武天皇)を出生した。
702年(大宝二年)12月22日、持統天皇没。享年58歳。

慶雲4年(708年)6月15日、文武天皇没。享年25歳。
陵墓:
奈良県明日香村、天武天皇・持統天皇合葬陵のすぐ近くにある。
明日香村の地図http://www.sikasenbey.or.jp/asuka/tizu.htm

元明、元正女帝の時代

元明天皇(第43代) (位705ー715)

文武天皇の母、阿陪皇女。父は天智天皇。母は蘇我山田石川麻呂大臣の娘、宗我嬪、姪娘(めいのいらつめ)。夫は草壁皇子。持統天皇の異母妹。子に文部天皇、元正天皇。
708年、元明天皇即位。即位の宣命では「不改常典」を引き合いにだした。
和銅と改元。石上朝臣麻呂(いそのかみあそんまろ)と藤原不比等が並びたつ有力者であった。
和銅3年(710年)、平城京へ遷都。藤原不比等の勢力がより強化された。
和銅7年、文武天皇の子、首皇子が元服。皇太子となる。14歳。首皇子は持統天皇のひ孫。
和銅8年9月2日、氷高皇女に譲位。元明天皇55歳。氷高皇女36歳。
養老4年(720年)、藤原不比等死。元明天皇にとっても打撃。
藤原不比等の子、藤原武智麻呂、藤原房前よりも長屋王が高位になった。
養老5年(721年)11月末、元明太上天皇は簡素な葬儀を行うよう遺言。あわせて藤原房前に内臣として天皇を助けるよう指示した。
養老5年(721年)12月7日、元明太上天皇没。61歳。後継は元正天皇(42歳)。

元正天皇(第44代) (位715−724)

元明天皇の娘。文武天皇の姉。氷高皇女。
和銅8年(715年)、元明女帝は氷高皇女に譲位。氷高皇女は元正天皇として即位。36歳独身。
養老2年(718年)、安宿媛(光明子)が首皇子(のちの聖武天皇)の子を出生。阿倍内親王(のちの孝謙天皇)。
養老4年(720年)、藤原不比等死。
養老5年(721年)、元明太上天皇没。
養老7年、三世一身の法(開墾田の三世私有許可)を施行した。


持統系皇統の末期

聖武天皇(第45代) (位724ー749)

文武天皇と藤原宮子の子。首皇子。持統天皇のひ孫。后は藤原不比等のむすめ安宿媛(あすかべひめ=光明皇后)。子が阿倍内親王(孝謙天皇)。
仏教に帰依。
天平8年(736年)、美努王と県犬養橘三千代の子葛城王に橘の姓を与えた。葛城王は以後橘諸兄。

天平9年(737年)、藤原不比等の子、藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が天然痘で相次いで死亡。この結果、橘諸兄(たちばなのもろえ)の勢力が強まった。
橘諸兄は美努王と県犬養三千代の子。橘諸兄は東大寺建立を後押しした。藤原氏の氏寺である興福寺に対抗する巨大な寺を建てることで、橘諸兄は自分の権力を誇示し、確保しようとした。橘諸兄は聖武天皇の信頼が厚かった。橘諸兄没年757年。
僧玄ぼう、吉備真備を重用。

天平12年(740年)、藤原広嗣の乱。広嗣は、玄ぼう、吉備真備の追放を求めた。
天平13年(741年)、国分寺建立の詔。
天平15年(743年)、大仏建立の詔。大仏開眼は孝謙天皇の時代になってからである。
この年5月5日、橘諸兄は正二位から従一位に昇進。藤原仲麻呂は従四位下から従四位上へ昇進。聖武天皇の下では、橘諸兄が藤原仲麻呂よりも重用されていることがわかる。


天平勝宝8歳(756年)5月2日聖武天皇没。遺詔して道祖王(ふなどおう)を孝謙天皇の後継皇太子に任命した。道祖王は長屋王の子、母は藤原不比等の女(むすめ)。

光明皇后は聖武天皇の皇后。聖武天皇に代わって実権を握った。
藤原仲麻呂と光明皇后は、協力関係にあった。


孝謙天皇(第46代)

女帝。聖武天皇の子、母は光明皇后。光明皇后は藤原不比等の女(むすめ)。
孝謙天皇は、道鏡に出会うまでは光明皇后や藤原仲麻呂の言うことを素直に聞く良い子だった。光明皇太后とその側近である藤原仲麻呂が実質的な支配者であった。
藤原仲麻呂は、孝謙天皇が邪魔になり、退位させた。(淳仁天皇即位。)
孝謙天皇は、中年になって道鏡を愛するとともに真の自分に目覚め、本来の奔放さ、我ままさを現した。孝謙女帝は、淳仁天皇と藤原仲麻呂(恵美押勝)に挑戦し、追いつめて行く。恵美押勝の独裁を憎む者も孝謙天皇を後押し、恵美押勝は破滅への道を進む。
恵美押勝はクーデターを企図。しかし、孝謙天皇側は恵美押勝の乱を鎮圧、恵美押勝を殺し、淳仁天皇を配流した。
重祚して称徳天皇となった。
道鏡を天皇位に就けようとしたが、和気清麻呂がこれを防いだ。皇太子を決めないままに病没。


752年、東大寺大仏開眼。
聖武天皇死後一年経った天平宝字元年(757年)正月、橘諸兄没。
3月29日、孝謙天皇は道祖王(ふなどおう)を廃し大炊王(おおいおう)を皇太子とした。この裏には藤原仲麻呂の意向がある。大炊王このとき25歳。
この一件は、奈良麻呂の乱の原因となった。

奈良麻呂の乱(757年)
道祖王の皇太子廃位、大炊王の立太子をめぐって橘奈良麻呂がクーデターを企てた。
藤原仲麻呂と皇太子大炊王を殺し孝謙天皇を廃する計画。
天平宝字元年(757年)6月安宿王、黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、多治比牛養らが集まり盟約。決行を7月2日とする。
6月28日、密告によりクーデター計画が発覚。藤原仲麻呂は直ちに反撃を開始。
7月2日道祖王を自宅に包囲。
7月4日、首謀者である奈良麻呂、黄文王、道祖王らを相次いで逮捕。黄文王、大伴古麻呂、多治比牛養、小野東人、賀茂角足を獄中で拷問死させた。道祖王は配流。

奈良麻呂の乱のころ、権力はまだ光明皇太后にあり、孝謙天皇はまだ傀儡だったようである。

淳仁天皇(第47代) (位758−764)

舎人親王の子。天武天皇の孫、大炊王。

恵美押勝の乱の後、廃帝。淡路島へ押し込められ、軟禁状態のまま没。

称徳天皇(孝謙天皇重祚)(第48代) (位764−770)

孝謙天皇の反撃。
恵美押勝の乱を鎮圧。
道鏡を寵愛。

神護景雲3年(769年)
9月、道鏡を天皇位に就けようとした。和気清麻呂・法均が阻止。これに怒り、清麻呂・法均を穢麻呂・広虫売に改名させ追放。

神護景雲4年(770年)
2月27日由義宮に行幸。
4月6日平城宮へ帰った。体調の不良。水鏡は体調不良の原因を不品行としている。(梅原猛による。)
5月、6月位階を授けたり、大赦を行ったりした。病が重いことを示している。
7月殺生禁断、経典転読をさせた。愈々病が重くなっている証拠。
8月4日(770年)称徳天皇没。53歳。持統帝皇統の断絶。
一年間の服喪が宣言された。ところが四十九日がおわると、あっさり一年の服喪は取り消された。藤原百川など残った権力者は称徳帝の死にほっとしていたことが分かる。

道鏡の追放。

光仁天皇

白壁王。天智天皇の孫。父は施基皇子、母は紀朝臣橡媛(とちひめ)。妻は井上(いがみ)内親王。井上内親王は聖武天皇の皇女。

神護景雲4年(770年)8月称徳天皇没。藤原百川の策により、遺詔として白壁王が後継に指名された。
梅原猛によると、白壁王が後継者に選ばれたのは、井上内親王の夫であることが大きな理由だったという。(海人と天皇、下巻、P.193)。
藤原百川が白壁王を推した。百川の対立者は吉備真備。吉備真備は文室真人浄三を次期天皇に推していた。これに対抗するために藤原百川は白壁王を推した。白壁王の妻は井上内親王であり、井上内親王は聖武天皇の娘。したがって白壁王の子は聖武天皇の孫になる。白壁王を天皇にすれば、次期天皇は聖武天皇系になる、というのが有力な論拠だった。じっさい、白壁王はすでに62歳だった。白壁王の在位は長くないことが誰の目にも明らかだったのである。


Links

中国の歴史
韓国・朝鮮の歴史
歴代天皇要覧 http://www.net-b.co.jp/jbox/I3/9611I301.htm


reference


改訂履歴


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