project:
Serfdom and Freedom
日本の歴史 : 飛鳥奈良の天皇史
(Ancient Japanese Emperors : Asuka and Nara era)
奴隷制度は人間が人間を酷使し、搾取する仕組みです。
なぜ奴隷が搾取から逃れられないか。それは暴力で抵抗を封じられているからです。
白人奴隷商人はアフリカの若者や子供を略取し、新大陸へ強制移送しました。黒人奴隷を買った北アメリカ南部の白人たちは、初期のころは黒人奴隷たちが子供を増やすことを奨励しました。労働力が不足していたため、奴隷人口を増やすことが奴隷所有者の利益になったからです。のちには奴隷人口が増え過ぎて、南部の農場主にとって奴隷所有を続けることは経済的に引き合わない状況になっていきました。
アメリカの黒人奴隷は1619年ころから始まり、1776年の独立時には75万人、1865年の奴隷解放令の時点で400万人に増えました。
リンカーンは、1863年奴隷解放を宣言し、南北戦争(1861年−1865年)終結後の1865年にアメリカの奴隷は解放されました。しかし、アメリカの黒人は多くの点で差別されたままその後100年以上を経過しました。
reference :
slaves in USA
Alex Hailey,"Roots"
隋書倭国伝に「盗むものは、贓を計りて、物を酬いしめ、財なき者は身を没して奴となす。」とあります。
(p.33,石原道博編訳、「新訂魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝中国正史日本伝(1)」、岩波文庫)
隋書倭国伝の記事は、日本の古代日本でも奴隷制度があったこと、そして奴隷化が犯罪(盗み)に対する刑罰として行われたことを示しています。
一般に、人が奴隷にされる原因は、戦争捕虜の場合、刑罰として行われる場合、人身売買の場合の三つが主なものです。
泰緬鉄道建設における戦争捕虜強制労働 は短期間で人間を搾取し尽くす目的の奴隷制度でした。短い期間に体力の限り働かせ、栄養失調や病気で労働に耐えなくなれば、放置してそのまま死なせるか、もっと積極的に殺すこともありました。そうすることがもっとも経済的だと考えられたのです。食料は最低限しか与えず、体力の続くものは長く生きるが、体力の続かないものは早く死んでゆきます。欠員が出ればまた補充すればよかったので、栄養分のある食事を与えて長期間働かせる必要はありませんでした。
日本本土への朝鮮人・中国人強制徴用も同じ構図です。
see : 強制徴用
「モスクワ国家が強大になるにつれて、農奴制は強化された。農奴がいかにつらいものであるかを、わたしども日本史の体験者が感覚的に理解することはむずかしい。ともかくも、地主である貴族から生存だけは許され、労働をしぼりとられ、非違があれば、裁判権を持つ領主から生殺を含めた刑をうける存在で、異動や移籍の自由もなかった。」
(司馬遼太郎、「ロシアについて - 北方の原形」、p.61,「シビル汗の壁」、文春文庫,1989年)
*
「キプチャク汗国がロシア農民に対して行った搾りあげはすさまじいもので、ある説では14種類もの貢税がかけられたといわれ、ロシア農民は半死半生になりました。汗国のやりかたはロシア諸公国の首長を軍事力でおどし、かれらを隷従させ、その上でかれらを通じ、農民から税をしぼりあげるというもので、これにたえられずに逃げてしまう農民もあり、悲惨なものでした。首長が汗国に少しでも抵抗の色を見せれば、汗国から軍隊が急行するのです。軍隊はその町を焼き、破壊し、時に住民をみなごろしにし、女だけを連れ去るというやりかたをとりました。
収奪を可能にする汗国の権力の実質は、すべて軍事力でした。彼ら、当時のモンゴル人の軍事力は、他の秩序世界の人々が刃むかえるようななまやさしいものではありませんでした。モンゴル人にとって軍事とは、すべてを可能にする源泉でした。モンゴル帝国の本質そのものでした.」
(司馬遼太郎、「ロシアについて - 北方の原形」、 pp.23-24、文春文庫, 1989年)
also see : Khan
古代ローマの奴隷は、主として戦争捕虜でした。ローマにとって戦争は、捕虜獲得のための重要な経済活動でした。Latifundium(ラテフンディアム)と呼ばれた大農場で大量の奴隷を酷使することが古代ローマ社会の生産力基盤でした。
古代ローマの奴隷がたびたび引き合いに出されるのは、何よりもその規模が大きかったことが理由でしょう。古代ローマの奴隷制は、奴隷の数が市民より数十倍も多いという驚くべき規模に達していました。(*)
ローマ奴隷の数
奴隷は搾取されつくす − その意味で人間でありながら消耗品です(注**)。消耗すれば補充しなければなりません。ローマは奴隷補充のため戦争を行いました。戦争で捕獲奴隷が潤沢に供給でき、反抗する奴隷たちを強権で鎮圧できた時代にはそれでよかったものの、そのような強権政治は長続きするものではありません。しかも、強制労働の生産性はじつは低いものです。労働を収奪される奴隷たちはできるかぎり働かないようにするから、生産性が高まるはずがないのです。
奴隷捕獲のメリットよりも反抗・反乱・戦争のコストの方が大きくなるにつれ、古代ローマの生産力主体は奴隷労働からコロヌスと呼ばれる農奴的農民へと、しだいに移っていきました。コロヌスには移動の自由は認められていません。生産力であるから、出てゆかれては支配者が困るのです。それで暴力で移動の自由を制限しました。この種の移動制限は、帝政ロシアの農奴や日本の封建時代領民制度と同じです。
移動の自由がないということが、奴隷制度の重要な点です。
古代ギリシャにも奴隷制度はありました。
古代ギリシャ人の考え方では、労苦を伴う労働から解放されて余暇を十分にもち、世界や宇宙の観想を深める生き方がポリスの市民の理想でした。
しかし、市民が生きてゆくためには、日常の食糧や必需品を誰かが生産しなければなりません。そのために奴隷が必要でした。古代ギリシャもまた、植民地戦争で奴隷を手にいれました。戦争で奴隷を手に入れるやり方でも古代ギリシャは古代ローマの先輩にあたります。(**)
*ローマの奴隷の数は全人口の3割程度だったという説もあります。
"Slavery in
the Roman Empire Numbers and Origins, John Madden, University College Galway
(http://www.ucd.ie/~classics/96/Madden96.html)
**「ローマの奴隷は法律上「物」としての性質を貫徹された。」(p.20、人身売買、牧英正、岩波新書)
***「奴隷は言葉を話す動物であって、ポリス共同体から排除されている。ところで、奴隷労働はもっとも非人間的な労働であるが、これなしにはポリスの生活が立ち行かない。自由民が奴隷になるわけにはいかない以上、奴隷をどこかから調達しなければならない。他国から奴隷を移入する他はない。植民地戦争が不可欠となる。植民地戦争は奴隷の再生産装置となる。」(p.73、今村仁司「仕事」弘文堂思想選書、弘文堂、1988年)
大東亜戦争時の朝鮮人従軍慰安婦は人格を無視され、性的な強制労働をさせられた現代の奴隷でした。暴力で連れ去られて戦地におくられ、その環境から逃げ出すことはできませんでした。職業選択の自由と移動の自由が暴力的に奪われていたのですから、これは奴隷制度そのものといえます。
(注。従軍慰安婦は朝鮮人女性ばかりではありません。中国、フィリピン、オランダの女性もいました。)
征服と奴隷制度は結び付いています。奴隷制度は酷使虐待と結び付いています。
奴隷制度は、フランス革命の先駆けとなった思想家ジャン・ジャック・ルソーも社会契約論(民約論)で考察しました。
戦争捕虜が奴隷になることが昔から行われていたことが社会契約論に書かれています。グロチウスが奴隷制を合理化する主張としてかかれており、ルソーはその不当さを論証しています。また、身売りによって奴隷となる人がいたとしてもその子供が奴隷になる理由がないとも主張しています。ジャン・ジャック・ルソーが革命的な社会思想家だったとされるのは、このような主張をフランス革命以前に明確に論じたからです。
前項でのべたように、古代ローマ帝国では戦争を奴隷獲得のために行っていました。そこで採用された論理は、「戦争捕虜は命を助けてもらうことと引き換えに奴隷となることを承諾する」でした。グロチウスが言っているのはこの論理です。
捕虜虐待の禁止はジュネーブ条約で決まりました。太平洋戦争当時、日本外務省は戦争捕虜取り扱いに関してジュネーブ条約「準用する」ことを対外的に約束しました。ところが、当時の日本軍兵士は捕虜を恥とする戦陣訓を徹底的に教え込まれており、兵隊はもちろん将校も捕虜虐待禁止をきめたジュネーブ条約の存在などほとんど知りませんでした。旧日本軍軍人・兵士は捕虜になるくらいならば死ぬことを要求されました。その裏返しとして、捕虜になった外国軍人・兵士にたいしては「おめおめと捕虜になどなって」という目でしか見ませんでした。それが戦争捕虜の大規模な酷使・虐待につながりました。泰緬鉄道では415キロの鉄道建設にために4万人以上の戦争捕虜が死にました。単純計算で100メートルに一人の死者です。工事区間には条件のよいところもあったでしょうから、条件の悪いところでは文字どおり「まくら木一本死者ひとり」という表現が誇張でなかったかもしれません。
(内海愛子、G.マコーマック、H.ネルソン、「泰緬鉄道と日本の戦争責任」, p.117,
明石書店)
身売り奉公については多くの語るべきことがあります。いまは<工事中>にしておきます。
一点だけとりあえず述べると、身売り奉公の存在は、前近代的・野蛮な制度が残っている証拠だとして、明治政府が西欧諸国との不平等条約の改定を交渉するにあたって障害となったことがあります。明治5年の太政官布告(人身売買の禁止、娼妓・芸妓など身売り奉公人の解放)はこのためです。
more on 身売り奉公 : 苦界
奴隷制度は古代からあり、つい50年前くらいまでははっきりとした形で日本にも存在していました。いまもなお、姿を変え、カモフラージュして存在しているのだと思います。
「職業を強制される」、「移動の自由がない」が見られる場合、それはすでに奴隷状態なのです。
第二次世界大戦後の日本では、自由とか民主主義という言葉があまりにも頻繁、粗雑、かつ安易に使われてきました。そのため、自由とは本当は何なのか、日本人はほとんどわかっていないのだと、私は思います。
自由を理解するために、奴隷制度の例をいくつか挙げてみました。
自由の対極にある奴隷制を知ることで、自由がどんなものか、なぜ大切かを理解することができます。人権について憲法に書いてあることの意味もよりよく理解できるとおもいます。
ところで、本当の奴隷とはいえないものの、皆さんが企業のなかで奴隷にちかい状態で働いていたりしないか、振りかえるのも必要なことでしょう。
Link to the homepages relating to Serfdom and Slavery :
http://www.kyukyo-u.ac.jp/kku/eco/teachers/shimosan/
http://squash.la.psu.edu/~plarson/smuseum/
http://www.history.org/people/african/aaintro.htm
「自由はより高い政治目的のための手段ではない。自由はそれ自体、至高の政治目的である。自由が必要とされるのは、よい行政を実現するためではなく、市民社会、そして個人的生活が、至高の目標を追求していくことを保証するためである。」
ハイエク「隷属への道」 西山千明訳,春秋社(p.87)
「民主主義は、本質的に手段であり、国内の平和と個人の自由を保証するための功利的な制度でしかない。民主主義は決してそれ自体、完全無欠でも確実なものでもない。」同(p.88)
「個人主義とは『人間としての個人』への尊敬を意味しており、それは、ひとりひとりの考え方や嗜好を、たとえそれが狭い範囲のものであるにせよ、その個人の領域においては至高のものと認める立場である。」同(p.10)
現代になるまで、人間に移動の自由はないのが普通でした。
「同業組合法は、労働の自由な移動を妨げるが、たしかにこれはヨーロッパのどの地方でも見られる現象である。救貧法が労働の自由な移動にたいして与えている妨害のほうは、私の知るかぎりでは、イングランド特有の事情である。その妨害というのは、貧しい人が、彼の所属する教区以外のどこかで定住権を取得することが困難だということ、またはそこで働くことの許可を受けることすら困難だということにある。」
(p.226, 国富論I,大河内一男監訳,中央公論新書)
「ロシア貴族(皇帝をふくむ)は、領地をもつ場合、地主であっただけでなく、その所有地のうえに載っている農奴も私物でした。農地・農奴は持主の貴族の意思によって売買されます。同じ土地でも農奴が何百人、何千人載っているかで、値段の上下がきまります。」
p.26, 司馬遼太郎"ロシアについて-北方の原形", 文春文庫,1989
「『職業選択の自由』が最善の世界においてすら限定を伴っていることは、疑いえない真実である。」「何にもまして状況を耐えがたくするのは、(職業選択の自由がないために)どんなに努力しても(自分の希望や才能に反してひとつの仕事に永続的に縛られるという)その状況を変えられないと知らされることである。」
(ハィエク"隷属への道",西山千明 訳,p.120)
自分が自由を享受しようとすれば、他の人の自由も認めなければなりません。
自分の利益を追求する権利を主張するならば、他の人が同じように利益を追求する権利もまた認めなければなりません。必然的に競争が起こります。自由は競争と表裏一体の関係にあることを認め合わなければなりません。
競争をなくすか、少なくしようとする考え方もあります。それが社会主義です。競争をなくすためには、"当局"というような存在を仮定し、それが調整機能を果たさなければなりません。ところがハイエクの言うように、それは無理なのです。調整するために必要な知識を、政府なり当局が十分に持つことは事実上できません。また、調整することは結果的に当局が、対立する利害関係者のどちらか一方に加担することです。結局、競争を調整することはあらたな不平等を生み、特権階級を育て、腐敗させ、個人や企業の自由な活動を阻害することになるのです。
自由な国家では法の支配の原則が守られており、為政者が場当たり的な判断で個人の活動を規制したり圧殺したりすることがないとハイエクは言います。
「自由な国家では『法の支配』 (Rule of Law)として知られているあの偉大な原則が守られている」同(p.92)
「『法の支配』のもとでは、政府が個人の活動を場当たり的な行動によって圧殺することは防止される。」同(p.92)
自由の無い国家では、専制的な国王が個人の気まぐれで民衆を搾取したり、殺すことさえできました。これを許さないのが法による支配です。
自由を現在に連なる基盤として作ったのは、1789年のフランス国民議会で採択された人権宣言です。その条文は単なる理想の表明ではなく、旧体制での国王や特権階級の搾取と圧政を平民(第三身分)の側が拒否する宣言でした。
(第一条)「人は生まれながらにして自由であり、権利において平等である。」
これは、1989年の当時において平民に自由はなかったこと、権利において不平等に扱われていたと読むべきです。
(第二条)「人間の自然にして奪うべからざる権利...は自由・所有・安全・及び圧政に対する抵抗である。」
フランス革命以前には、平民に自由はなく、所得ないし財産は支配階級に勝手に課税・収奪され、それに反対すれば身の安全は保障されず、圧政に抗議すれば逮捕や監禁や刑罰が待っていたと理解するべきです。
(第三条)「自由とは他人を害せざるかぎり何事をもなしうることをいう。」
自由の定義として明快だと思います。
(第七条)「何人も、法律によって定められた場合でしかも法律が規定した形式によるのでなければ、告発・逮捕・監禁されえない。」
これはすなわち、当時は訳の分からない理由で逮捕されたり、告発、監禁されたりすることがあったことを物語っています。
reference :
French
Revolution in brief - http://edweb.sdsu.edu/mclanehs/LJG-The_French_Revolution.html
1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法は奴隷制度(奴隷的拘束)の禁止を明文化しています。
「日本国憲法第18条 奴隷的拘束及び苦役からの自由
何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。」
reference : 日本国憲法(http://yumimi.dais.is.tohoku.ac.jp/constitution/j-constitution-j.html)
自由とは強制されないこと、収奪されないことです。
ところで、住専処理では一次損失の一部6850億円を税金で補てんすることに決しました。わたしは納得していません。多くの国民にとっても納得のゆかない措置だと思います。金融業界と政府と一部高級官僚の不手際のツケを国民にまわしたものです。国民への収奪が簡単に行われることがあることが証明された出来事でした。
自由を奪われるのは簡単なことなのです。
国王の権力を制限するために民主主義は生まれました。人民の代表が議会を構成し、国王ではなく議会が国の意志決定をすることになりました。
フランス革命 が議会による国の意志決定のモデルを示しました。フランス革命は恐怖政治など問題もありましたが、近代・現代の民主主義国家制度の骨組みを示す上で画期的な事件でした。
法を作るのが議会だとすると、議会の暴走を抑える必要があります。そのために憲法が作られました。議会が国の基本理念に反するような法律をつくることのないようにする歯止めが憲法です。
ヒトラーは合法的に独裁を実現しました。すべての権力を総統に委ねる法律が実際に議決されたのです。議会が自分自身の存在意義を放棄する法律をつくる場合があることを、ヒトラーは実例で示しました。
官庁や官僚というものは、もともと国王の行政担当機関です。王は、臣下のなかから有能なものを選び、大臣や長官に任命して政治を行わせました。意志決定者が国王であり、政府は国王の意志にもとづいて実際の政治を行う、すなわち行政です。ところで、フランス革命以後、国王の代わりに議会が位置づけられたのですから、大臣や政府・官僚は意志決定機関である議会(国会)の意志を実行することが任務のはずです。
55年体制とよばれる自民党政権の時代では、自民党の意志が議会の意志でした。しかし、官僚の意志がまた自民党にはやくから根回しされており、実際には官僚の意志が自民党の意志となり、議会の意志となり、法案成立後結果として官僚が実施の責任と権限を持つようになります。よくよくみれば、一部官僚が決めたことが国民全体の合意であるかのようになってしまうのです。日本の政策は、議会や政治家が決めているのではなく、まして国民が望んだことでもなく、霞が関が決めていたといわれるのはこの事でしょう。
1996年10月の総選挙で各党が掲げている公約には行政改革が並びました。官にたいする政の反攻ということであり、流れとしては好ましいといえると思います。
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