蘇我稲目の女(むすめ)堅塩媛(きたしひめ)は欽明天皇の后。堅塩媛の第四子は用明天皇。したがって用明天皇は蘇我稲目の孫。
蘇我稲目の別の女(むすめ)小姉君(こあねのきみ)は、やはり欽明天皇の妃。小姉君の子は穴穂部皇女、穴穂部皇子、泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)。
蘇我稲目は、穴穂部皇女を用明天皇と結婚させた。孫同士を結婚させたことになる。
穴穂部皇女と用明天皇の嫡子が厩戸王子(聖徳太子)。
蘇我馬子は蘇我稲目の子。堅塩媛、小姉君の弟。
用明天皇没後、蘇我馬子は、泊瀬部皇子を立て、崇峻天皇として即位させた。
崇峻天皇は蘇我馬子の専横を憎み馬子を殺そうとした。蘇我馬子はこの動きを察知し、先手を打って崇峻天皇を暗殺した。後継者を炊屋姫とし、推古天皇として即位させた。
蘇我馬子は、厩戸王子(聖徳太子)の才能を見込み、皇太子として立てた。また、娘の刀自古郎女(とじこのいらつめ)を厩戸王子と結婚させた。
日本書紀には「聖徳太子は蘇我馬子を大臣として用いた。」とあるが、実際には推古天皇の皇位継承と皇太子を厩戸王子に決めたのは蘇我馬子の力だった。
蘇我馬子は推古天皇とほとんど同年齢である。梅原猛によると、聖徳太子の晩年には、推古天皇と聖徳太子の関係はかなり悪化していたという。(「この頃、太子と推古女帝の関係はかなり悪化していたと思われる。それは太子の妃の問題である。」、梅原猛「海人と天皇(上)」,P.212,新潮文庫)。その間隙を埋める形で蘇我馬子は再び推古天皇との関係を強めた。
奈良県明日香村にある石舞台が蘇我馬子の墓だとされている。
蘇我馬子の子。
推古天皇の死にともない、後継者問題が混乱した。
広姫による敏達天皇の孫田村皇子と聖徳太子の子山背大兄皇子が対立した。
蘇我蝦夷は田村皇子を推し、舒明天皇として即位させた。
舒明天皇は意外にも早く没した。
蘇我蝦夷・入鹿親子は、舒明天皇の皇后、宝皇女を推した。宝皇女は皇極天皇として即位。
645年、蘇我入鹿とともに大化の改新で中大兄皇子(天智天皇)らによって殺された。
墓は下記を参照。
「御所市大字古瀬小字ウエ山の水泥古墳と、隣接する円墳水泥塚穴古墳とが、日本書紀にいう蝦夷、入鹿の双墓に当たると古くから言いならわされてきた。」http://www.cgc.co.jp/ASUKA/ASUKA4/soga/soga09_4.html
蘇我蝦夷の子。
舒明天皇没により、蘇我蝦夷・入鹿親子は、後継天皇に舒明天皇の皇后、宝皇女を推した。宝皇女は皇極天皇として即位した。
蘇我入鹿は皇極天皇に重用された。
蝦夷・入鹿の親子が当時の権力者とされているが、実権は入鹿が大きかった。
「元年の春正月の丁巳の朔辛未に、皇后、即天皇位す。蘇我臣蝦夷を以て大臣とすること、故(もと)の如し。大臣の児入鹿、更(また)の名は鞍作。自ら国の政を執りて、威(いきおい)父より勝れり。」
(日本書紀)
蘇我入鹿は、法堤郎媛の子古人大兄を皇極天皇の後継天皇にしようと企図した。643年、その障害となる聖徳太子の子山背大兄王を自殺に追い込んだ。
645年、大化の改新で中大兄皇子に殺された。
墓については蘇我蝦夷の項を参照。
蘇我氏についてのLinks:
http://www.cgc.co.jp/ASUKA/ASUKA4/soga/index.html
copyright Eiji Takeuchi, 1998.
last update: April 19, 1998