太祖王(53−145?)
古代国家体制を整えた。太祖王の死後、国内城(集安)に都をおいた。
東川王(227−247)
遼東で中国(魏)と戦った。
故国原王
371年(百済近肖古王26年)、百済の軍勢が高句麗の首都平壌城を攻撃した。この攻撃で故国原王は戦死。
小獣林王(371−383)
故国原王の後継者。
広開土王(391−412)
国土を大幅に拡張した王。
現中国東北部集安にある広開土王陵碑で有名である。王陵碑には、倭が大陸に進出していたという説の論拠となった文が刻まれている。この件は、拓本の信憑性をふくめ諸説・諸議論がある。
長寿王(413−491)
広開土王の息子。
長寿王63年(475)、百済の首都漢山を攻略し、百済蓋鹵王を殺した。
嬰陽王
嬰陽王の時代、高句麗と中国は戦闘を繰り返した。下記に例を挙げる。
598年(嬰陽王9年)、高句麗軍は隋文帝の派遣した軍と遼西で衝突。
612年(嬰陽王23年)隋煬帝は113万人の兵を動員して遼東城を攻撃した。
宝蔵王(642−668)
644年(宝蔵王3年)、唐の太宗は高句麗を攻めた。
668年(宝蔵王27年)、高句麗滅亡。唐高宗は将軍李世勣を高句麗攻略の総司令官に任命した。唐は、新羅文武王と連合した。唐・新羅連合軍は高句麗平壌城を攻め落とした。宝蔵王は高句麗人捕虜20余万人とともに唐に抑留された。
高句麗遺民は一部は新羅へ吸収、一部は渤海国に吸収された。
近肖古王(346−374)
近肖古王は、百済の古代国家体制を確立した。
近肖古王は百済王国のひとつの頂点を築き上げた。
369年(近肖古王24年)、百済は馬韓を完全に征服した。
371年(近肖古王26年)、近肖古王は平壌城を攻撃した。この攻撃で高句麗の故国原王は戦死。
蓋鹵王
475年、高句麗が侵攻。百済の首都漢山を攻略し、蓋鹵王は高句麗軍に殺された。
首都漢山から百済は後退し、首都を熊津(公州)に移した。このとき高句麗は長寿王63年。
この事件は、日本書紀雄略天皇二十年のくだりにつぎのようにある。「高麗王、大きに軍兵を発して、伐ちて百済を尽す。」(P.94,鳥越憲三郎 「古代朝鮮と倭族」、中公新書1085、1992年)。
聖明王
首都を泗ひ(扶餘)に移した。
武王(位600−640)
義慈王(位641−660)
武王の子。百済最後の王。
660年(百済義慈王20年、新羅武烈王7年、唐顕隆帝5年、日本斉明天皇6年)唐は新羅と連合して百済を攻略した。百済は唐・新羅連合軍に敗れ、首都泗ひ(扶餘)は陥落、義慈王は捕虜となり、唐に連れ去られた。
この時、義慈王の王子豊(豊璋)は日本にいた。
663年、白村江の戦い。日本軍、百済連合軍は唐・新羅軍に敗れた。王子豊璋は高句麗に亡命。
武烈王(位654−)
654年、金春秋が即位。
660年、新羅は唐と組んで百済を攻略。百済滅亡。百済残存勢力は日本の援助を求めた。
663年、日本が百済残存勢力と連合して攻勢。新羅は唐と連合して対抗。白村江の戦いで新羅・唐連合軍が勝利した。
672年−675年、唐と新羅軍の戦い。新羅の独立。半島統一。