藤原氏

Fujiwara family


中臣鎌足

大化の改新で中大兄皇子(のちの天智天皇)と協力して蘇我氏を倒した。
功により天智天皇から藤原姓を与えられた。

藤原不比等 (659−720)

藤原鎌足の次男。
藤原氏の基礎を作った大政治家。
持統天皇に信頼された。持統・文部・元明天皇の時代を支え、天皇家と藤原家の結びつきを強めた。

不比等は平城京遷都を行った。遷都は、対立する石上麻呂など旧勢力の力を削ぐための不比等の深謀であった。
遷都を機会に石上麻呂を旧都藤原京の留守居役とし、権力の座から遠ざけた。

718年、養老律令を完成させた。


宮子

不比等の娘。文武天皇の夫人。聖武天皇の母。
701年(大宝元年)、首皇子(おびとのおうじ=のちの聖武天皇)を出生した。
首皇子出産後、精神的な障害があったようである。
玄ム法師の看病で病状は好転した。(玄ム法師の看病とは、宮子との肉体関係とも言う。)

光明皇后 (701−760)

藤原不比等の娘、安宿媛(あすかべひめ)。
729年、聖武天皇の皇后。
藤原氏の女でありながら、聖武天皇を超えた実際の最高権力者となった。聖武天皇は、弱々しい性格の男だった。光明皇后は、聖武天皇の代わりに政治を行った。
法華時を建立。
藤原仲麻呂が光明皇后の協力者だった。「天平勝宝年間は二重権力の時代だった。」梅原猛はいう。聖武天皇と橘諸兄のラインと、光明皇后と藤原仲麻呂のラインである。聖武天皇の死によって光明皇后=仲麻呂の勝利が確定する。
聖武天皇没後一年、後継皇太子をめぐって奈良麻呂の乱とよぶクーデター未遂事件。藤原仲麻呂はすばやい反撃に出て、奈良麻呂、黄文王、道祖王など反仲麻呂派を一掃した。

藤原房前(ふじわらのふささき)

藤原不比等の次男。次男であるが不比等の4人の子(四兄弟)の筆頭の力を持っていた。藤原房前は対立する長屋王を排除し、持統天皇系の聖武天皇の地位を確実なものにしようと考えた。藤原氏は藤原不比等の時代から持統天皇と近い関係にあったし、さらに直接的には聖武天皇の后が藤原不比等の子、光明子だったからである。光明子にできた男子が一年も経たずに死んだ。藤原房前は、左道を用いて謀叛を企てたとして長屋王を殺す。これが長屋王の変(729年)。おもてむき長屋王が謀叛を企てたということになっているが、実は藤原氏の陰謀である。長屋王の家系を絶ち、光明子を通じて藤原氏権力を確実にするねらいをもっていた。
長屋王の変のあと、天平九年(737年)藤原房前ら四人の兄弟は相次いで死んだ。天然痘の流行だった。藤原氏の権力は武智麻呂の子、藤原仲麻呂にうつる。


藤原武智麻呂

藤原不比等の長男。藤原仲麻呂の父。

天平九年(737年)、この年春から大流行した天然痘に感染し、没。


藤原仲麻呂 (706−764)

武智麻呂の子。藤原不比等の孫。恵美押勝。
藤原仲麻呂は、光明皇后の覚えがめでたく、そのことにより異例の昇進をした。梅原猛は、仲麻呂と光明皇后の間に男女の関係がなかったかと考えている。

聖武天皇
没後一年、皇太子道祖王を廃し、大炊王を立太子した。
この後継皇太子をめぐって奈良麻呂の乱とよぶクーデター未遂事件。藤原仲麻呂はすばやい反撃に出て、奈良麻呂、黄文王(長屋王の子)、道祖王など反仲麻呂派を一掃した。
仲麻呂は奈良麻呂の乱鎮圧の功績により、孝謙天皇から恵美押勝の名前をもらった。(実際には光明皇太后が恵美の名を与えたのではないかと梅原猛は言う。)
翌天平宝字2年、大炊王を天皇位に据えた。淳仁天皇。

仲麻呂は独裁者となっていった。一方、孝謙天皇は僧道鏡と知り合い、淳仁天皇と不和。
仲麻呂は、孝謙天皇が邪魔になってきた。
ところが、孝謙天皇の思わぬ反撃に遭い、仲麻呂は破滅した。

764年(天平宝字八年)9月11日、孝謙天皇は恵美押勝の謀反が露見したとして淳仁天皇の駅鈴と内印を回収。恵美押勝は近江へ逃走したが、孝謙天皇の軍勢に追われ、9月18日子孫、同志とともに殺された。


藤原仲麻呂(恵美押勝)年譜
734年(天平6年)従五位下。仲麻呂28歳。
743年(天平15年)5月、従四位下から従四位上へ昇進。このころは聖武天皇・橘諸兄のラインがつよく、藤原の仲麻呂の権力はまだ目立たない。
745年(天平17年)正月7日、従四位上から正四位上へ昇進。
746年(天平18年)4月22日、正四位上から従三位へ昇進。
748年(天平20年)3月22日、従三位から正三位へ昇進。
749年(天平勝宝元年)7月2日、聖武天皇は孝謙天皇(阿倍内親王)に譲位。同日、藤原仲麻呂は、正三位として大納言に昇任。同年8月10日、仲麻呂は紫微令兼務を拝命した。仲麻呂43歳。政治の中枢に関わる。
750年(天平勝宝二年)正月16日、正三位から従二位へ昇進。
752年(天平勝宝四年)4月9日、東大寺大仏開眼供養。孝謙天皇は仲麻呂の私邸に泊まった。
754年(天平勝宝六年)7月19日、太皇太后(宮子)崩。葬儀の中心は橘諸兄など反仲麻呂派。
756年(天平勝宝八歳)5月2日聖武天皇没。皇太子を道祖王に遺詔。橘諸兄に出し抜かれた。
葬儀の中心は藤原豊成、文室真人智努、橘奈良麻呂、塩焼王など、反仲麻呂人脈。
757年(天平勝宝九歳=天平宝字元年)正月6日、政敵橘諸兄没。
孝謙天皇・光明皇太后と図り、3月29日道祖王を廃した。4月4日大炊王を皇太子に決めた。この件で橘奈良麻呂はじめ反仲麻呂派は、仲麻呂誅殺、孝謙天皇廃位を狙うようになる。仲麻呂はこれに対抗して、5月20日紫微内相に就任し軍事権を掌握。同年7月先制して橘奈良麻呂の乱を鎮圧。奈良麻呂・黄文王・大伴古麻呂らを拷問死させた。道祖王は配流。
左大臣就任。仲麻呂51歳。
同年8月藤原氏の氏寺興福寺に功田百町を布施することを、孝謙天皇に認めさせた。
758年(天平宝字二年)8月、孝謙天皇を説得して、大炊王(おおいおう)に天皇位を譲位させた。大炊王は第47代淳仁天皇として即位。孝謙天皇には「上台宝字称徳孝謙皇帝」の称号を推戴して面目を保たせた。
同年8月、大保(右大臣)に就任。恵美の二字を姓に追加することを許された。
760年(天平宝字四年)正月4日、従二位から従一位へ昇進。同時に大師(太政大臣)に就任。息子や姻戚を要職に就けることがはなはだしくなりはじめた。一方で孝謙天皇が道鏡を寵愛することで、しだいに扱いにくくなってきた。
764年(天平宝字八年)道鏡を遠ざけ、孝謙太上天皇を廃位、塩焼王を即位させようとしたが、発覚。孝謙天皇軍に追討され近江で敗死。58歳。


改訂履歴
6/28/98 藤原仲麻呂関係を補記。
7/4/98,7/5/98 藤原仲麻呂関係を追記、修正。



Last update : July 5, 1998
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