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酒呑み百姓の会ができるまで。
最終更新日:96.12.5
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私たち酒呑み百姓の会は、小諸市内で活動している「まちづくり団体」の中の有志が集まって結成された、素人農業集団です。
現在の正会員は、6名。また、農業の指導をお願いしている4人の方がいらっしゃいます。
酒呑み百姓の会の歴史は、小諸市のまちおこしの近代史(と言ってもここ5〜6年)に近いものがあり、まちづくりの仕掛人達が数多く関わっています。
このページで、小諸市まちづくりの一端から始まった、酒呑み百姓の会の歴史を紹介したいと思います。
1988年(昭和63年) |
記録がありません。(T_T)
1989年(平成元年) |
1990年(平成2年) |
小諸市のまちづくり団体のネットワークの元祖「こもろ放俺夢」が結成される。
会長に宮島佐一さん、事務局長に鴨志田英人さんが就任。火付け役は土屋政紀さんでした。
記念すべき『第1回こもろふれ愛WALK』が開催されました。
なんと、参加人数はたったの475人で、完走をしたのは247人。平成8年の参加者は5000人ですから、いかに急成長したかお判りでしょう。現在も、大規模イベントゆえの問題も抱えています。
小諸を代表するイベントですから、今後も末永く続いて欲しいとおもいます。
(ちなみに、私は、15時間1分でゴール。)
ふるさと再発見フェスティバルinSAKUが開催される。
木曽の日義村で夢21地域づくりフォーラムが開催される。
1991年(平成3年) |
5月24日 〜
第4回小諸キーパースンの会、開催される。会費は\2000
会場は、jazzライブで有名な「大塚酒造・酒蔵資料館」
「フル」だの、『ミニ』だのと大騒ぎをした新幹線問題が、小諸市の「ミニ断念」という形で決着。小諸市が、「特急の停まらないまち」になることが決定。
第2回ふれ愛WALKが開催される。参加人数は、800人。
私は、11時間45分でゴール。
阿智村の昼神温泉で、夢21地域づくりフォーラムが開催される。
小諸市市民会館3階で「新しいむらづくり小諸フォーラム」が開催される。
1992年(平成4年) |
劇団ふるさときゃらばんのミュージカル「ムラは3・3・7拍子」小諸公演実行委員会「小諸Oh!援団」が結成される。小諸市の各種人脈が集う、風変わりな集団。
3月4日
看板が完成。公演1ヵ月前にあわせて主要場所に看板を設置。
R18・諸の信号付近に設置した大看板は、畳10枚分もある大作。
3月8日
小諸の伝統行事「わら馬引き」に「巨大わら馬」を引き下げて参加。
巨大わら馬は、掛川剛さんと内堀敏男さん各々のお父さんが協力して制作。
3月11日
チケット販売促進のため、「ムラは3・3・7拍子」ビデオ鑑賞会を商工会議所3階会議室で開催。
カントリーミュージカル「ムラは3・3・7拍子」公演当日。大盛況で市民会館前に行列が出来る。
4月の小諸公演時の市民会館館長(当時)の一言。
「こんな行列が(市民会館前に)出来たのは、恐らく開館以来初めてだろう……。」
信州自治体学会フォーラムが開催される。
小諸Oh!援団で空き缶みこしを制作。
メインスタッフは、土屋吉正Oh!援団団長と、下崎さん。
小諸祇園祭での1枚。
空き缶みこしが注目を浴びる。
第3回ふれ愛WALKが開催される。
今回から、小諸Oh!援団が上田チェックポイントのサポートを担当する。
(ちなみに、私は100位ぐらいでゴール。12時間13分かかった。)
1993年(平成5年) |
昨年の勢いを引き継いで、Oh!援団で「牛乳パック御輿」を制作。
当時、1団体で御輿を2台出すのは、Oh!援団と日立小諸工場のみでした。
また、信州博が開催され、「安・近・短(安い・近距離・短時間)」ブーム(?)により大盛況となる。
下崎会長別宅で新年もちつき大会を開催。元日は、皆さん暇なのか大勢集まりました。
みどりの日にちなんで、チェリーパークライン(小諸市)に桜の植樹を実施する。題して「人生の並木道」。
ミュージカル「もくれんの花」小諸公演。
今年も懲りずに「牛乳パックみこし」の制作を開始。
昨年と並び、事前から注目を集めるが、皆さん「軽いでしょう?」とのこと…実際は、太い柱が中に入っているので空き缶みこしよりも重たいのです。
Oh!援団で祇園祭に参加。さすがに、2台分の「担ぎ手」を集めるのは大変。
信州博覧会が、松本市で開催される。
ふるさときゃらばんがプロデュースした村総参加のミュージカル公演なども催される。
(IMAXの「長野県館」に感動する。『信州に生まれて良かったぁ〜。』 この間、公私あわせて10回、信州博に行く。)
こもろ放俺夢塾「小倉みつ子先生」の講演会。
丸子町の方から「空き缶&牛乳パックみこし」の貸出要請がある。
第4回ふれ愛WALK。
今回、参加者3000人という「超」大規模なイベントに発展した。 (ちなみに私は、参加者が大幅増になったため、今回から歩くのを止めて、スタッフとして参加をする。)
小諸Oh!援団で知り合った、土屋さんと依田さんがご結婚された。
「まちづくりで嫁探し」が一時流行った。
こもろ放俺夢塾で、「赤井鬼介さん」が講演をする。
ふるさときゃらばん小諸公演を見て「これならば、我々でも出来る」と思った人々「相生町かかし劇団」が、ミュージカル公演を実施。
(想像以上の出来に、みんな感動する。)
2人芝居「森の詩」公演が小諸市総合体育館で開催される。
(ふるきゃらの場合は、公演の「お膳立て」をするのが目的だが、この芝居は、スタッフも「役者」として参加できるのが魅力でもあり、大変なところでもある。)
1994年(平成6年) |
再びやってきてしまった、劇団ふるさときゃらばんのミュージカル「男のロマン 女のフマン」小諸公演の実行委員会を、「こもろ放俺夢」と「小諸Oh!援団」が合流する形で「小諸かんとりぃくらぶ」結成。ここで、下崎&跡部(Oh!援団)と、鴨志田(放俺夢)が出会う。そして、かんとりぃくらぶの副支配人で保母さんの内堀明美さんと、デザイナーの佐藤重さんがかんとりぃくらぶに参加。酒呑み百姓のアウトラインができ上がる。
総動員数は1200名。前回の3・3・7拍子を上回り小諸市民会館開館以来(?)の観客数を達成する。
小諸かんとりぃくらぶ「クラブハウス」でのワンショット。 小諸公演終了後、「小諸かんとりぃくらぶ」は活動を休止。その中から、『酒呑み百姓』プロジェクトが立ち上がり、首謀者である下崎真澄さんと鴨志田英人さんがメンバーを集め酒呑み百姓の会を組織する。
土地提供者は小諸Oh!援団所属で、今回はふるさときゃらばん御代田公演実行委員会「御代田のロマン見つけ隊」隊長、内堀敏男さん。指導者には、内堀さんのご両親(専業農家)と、かんとりいくらぶの支配人宮島佐一さんにお願いをした。
酒呑み百姓の会の会長「下崎さん(左)」と副会長「鴨志田さん」
かんとりいくらぶ「クラブハウス」撤退作業中の1ショット
(酒を“あまり”呑まない、わたくし跡部が「水呑み百姓」と囁いたのがきっかけで、「酒呑み百姓」というネーミングができ上がる。
当時は、「小諸かんとりぃくらぶ 農天気百姓部会」ということで、かんとりぃくらぶの内部での活動ということにしていたが、翌年からは『酒呑み百姓の会』とだけ名乗るようになる。)
初年度は水田(コシヒカリ)と蕎麦、野菜少々、野沢菜などを栽培。
一年目のジンクスで大豊作。
田植えの終わった田んぼを見つめる仲間たち。
1995年(平成7年)へ... |