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kinematopia96.10


 「岩井俊二監督は、言葉の微妙な響きを大切にし、甘美にゆったりと時が流れる『ラブレター』から一転、主人公がせわしなく動き回る、ガサついた色調の多国籍映画『スワロウテイル』を発表した。しかし確かな美意識と、映像の奥に透明な哀しみをたたえている点は、間違いなく岩井ワールドだ」「基調としては、『ブレードランナー』『ブラックレイン』の影響下にある。その模倣を避けつつ、あの隈雑なパワーに満ちた世界への共感を隠さない。だいたいグリコという名前が『ブレードランナー』へのオマージュでなくて何だろう。腹部からカセットテープを取り出すシーンは、容易に『ビデオドローム』を連想させる。先行する映画をパッチワークしながら、監督が本当に描きたかった世界がここにある」「『ラブレター』をはじめ、『ifもしも「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」』『Undo』『PiCNiC』『フライド・ドラゴンフィッシュ』と、新人としては実に手慣れた作品を発表してきた岩井監督が、こんなに『やんちゃな映画』を完成させた冒険心に、まずは敬意を表そう。かつて『新人としてはまとまりすぎている、過剰なものがなにもない』と批評したことを撤回する。ただし、実現に当たっては河井真也プロデューサーの存在も見逃せない」「『イェンタウン』のアイデア、偽札を巡る細部の矛盾に対する意見は分かれるだろう。とりわけ、タクシー運転手に銃を突きつけながら、料金がないばかりに三上博史が演じるヒオ・フェイホンが偽札を使おうとして警察につかまるという展開は、コメディとしてもあまりにもオチャラケている。かつて漫画家を目指した岩井監督の現代的なセンスだろうが、納得できない」

 「その三上博史が主演の『宮沢賢治 その愛』(神山征二郎監督)は、平凡すぎて取り上げるに値しない」「新藤兼人の脚本には、珍しく力がない」「人間賢治の痛みや苦しみが伝わってこないので、終始しらけてしまう」

 「『キッズ・リターン』(北野武監督)は、漫才にヤクザという定番に、ボクシングが加わった展開。前作『みんなーやってるか!』の『外し』とは正反対に、青春映画の枠に納まってしまった失敗作だ。『ソナチネ』で見事な地平を切り開きながら、既存の表現に戻って来たのは、なんとも惜しい。北野監督のなかで何かが失われたのだろうか」「映画のツボをおさえ、観客を楽しませる術は心得ているが、映像的な独創性は乏しい。やんちゃを通しながら、結局闘いに破れた二人の主人公。『世の中そんなに甘くない』と思わせておいて、最後の台詞が続く。『これで終わったわけじゃないよね』『まだ始まってもいねぇよ』。見せかけの自由に対する皮肉には響かなかった。北野武も随分と甘くなったものだ」

 「ラリー・クラークの写真集『タルサ』(1971年)は、スコセッシ監督の『タクシードライバー』、コッポラ監督『ランブルフィッシュ』、ガス・バン・サント監督『ドラッグストア・カウボーイ』に影響を与えた。『K I D S』は、そのクラークの初監督作品。ガス・バン・サントが製作総指揮に当たっている」「70年代なら衝撃作といえたが、90年代後半ではドキュメンタリーのように『リアル』な作品というだけだろう。彼の写真のテーマとテクニックを映画に応用したに過ぎない」「ただ、脚本が22歳のハーモニー・コリンだから、少年たちの会話はいかにも自然に弾む。少年たちの会話の中に表われる驚くほどのAIDSに対する無知への警告こそが、この映画の基調にある。ただし、何らの希望も示しはしない。ラストで無根拠な希望を語るどこかの監督とは、さすがにラリー・クラークは違う」

 「『眠る男』(小栗康平監督)は、群馬県という地方自治体が劇映画を製作した日本で初めての作品。しかも、監督は寡作で知られる小栗康平とくれば、注目しないわけにはいかない。なにせ、監督作品は『泥の河』(1981)『伽椰子のために』(1984)『死の棘』(1990)の3本だけだ」「これまでの作品は人間の葛藤にスポットを当ててきたが、『眠る男』は葛藤を表に出さない受動的な映画だ。過疎の問題、アジアからの出稼ぎ問題など、社会的なテーマをはらんではいるが、物語は眠り続ける拓次を中心に淡々と流れていく。監督は『アジア的』と言うが、あまりにも受動的すぎる。自然と人間の関係は、人間が全くの受動となるのはむしろ例外で、農家の田園風景は江戸時代に人間が作り上げてきたものであることは良く知られている」「四季の自然を写した場面は超絶的に美しく、時に息を飲むほどであった。『死の棘』の奄美の自然描写も刺さってくるほどに美しかった。その美しさは、トシオとミホの葛藤によってさらに冴え渡った。しかし、今回は人間の心の揺れと自然美が相乗効果を上げていない」

『太陽と月に背いて』(アニエスカ・ホランド監督)は、当初、故リヴァー・フェニックスがランボー役として企画された。フェニックスのランボーなら、より退廃的で繊細な映画になっただろうが、ディカプリオのランボーも、田舎育ちのたくましさと文学的な才気を発散し、それなりに納得できた」「ただし、ヴェルレーヌの受動的なだらしなさは、いただけない。屈折した文学的なカインドが微塵も感じられなかった」「監督は詩の魔力が分かっていないのではないか。ランボー解釈もすこぶる通俗的で、詩人同士の愛と葛藤も、デカダンスの深まりも中途半端に終わっている」「デカダンスといえば、リリアーナ・カブァーニ監督の『愛の嵐』、ヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』をすぐに連想してしまうが、その底無しの退廃美に比べ、『太陽と月に背いて』は表面的なレベルにとどまっている。張りつめた自我が、内側にねっとりと崩れていくような感じを描かないと退廃が匂ってこない」

 「ブラザーズ・クエイ監督の初めての実写長編映画『ベンヤメンタ学院』は、形而上学的な不安に満ち、すぐにドイツ表現主義を連想させるが、死の空間で官能的なまどろみにすべてが包まれている点で、紛れもなく現代的な映画だといえる。ローベルト・ヴァルザーの『ヤーコブ・フォン・グンテン』を原作としながら、睡眠と覚醒の境界にある光だけの世界を定着させた。そこには確かな動機も意味も存在しない」「ブルーノ・シュルツの短編をもとにした怪奇ロマンの傑作『ストリート・オブ・クロコダイル』をはじめ、クエイ兄弟が生み出す人形アニメの人形たちは、驚くばかりの存在感を持っていた。それに対し『ベンヤメンタ学院』に登場する人間たちは、存在感が乏しく皆うつろに浮遊している。クエイ兄弟の世界では人形と人間が見事に逆転していた」「ベンヤメンタ学院は執事を養成する奇宿舎付きの学校。しかし建物は以前牡鹿のムスクから香水をつくる工場だったため、今も発情した鹿のイメージに支配され、濃厚な官能が漂っている。その学院はヤーコブの入学で徐々に崩壊していくのだが、その展開よりも官能的にたえず揺れ、踊り続ける光の表情を楽しむ方がいいだろう」

 「『リービング・ラスベガス』(マイク・フィッギス監督)は、酒をのみ続けて死ぬためにラスベガスに来たアル中男ベンとマフィアのヒモと別れた娼婦サラのラブストーリー。生き続けてほしいと願いつつ『酒を飲むな』と言わない約束を守りながら愛を貫く娼婦サラは、野たれ死に志向の男にとっては究極の天使かもしれないが、あまりにも男の身勝手がすぎないだろうか」「娼婦サラを演じたエリザベス・シューは、『カクテル』『バック・トゥ・ザ・フューチャー』など健康的なイメージが強いが、今回は汚れ役に挑戦した。俳優としての成長ぶりは認めるが、娼婦のしたたかさも崩れたところも感じさせないのが物足りない」「アル中のベン役のニコラス・ケイジは、アカデミー賞でオスカーを手にした。死を決意しながらもベタベタしたところがなく、逆に残された人生を軽やかに、時にはコミカルに生きる姿は確かに共感できるが、アル中になった背景も死を決意した動機もあいまいなので、男の生き様として迫ってこない」「『アルコールはやめましょう』という説教をする映画ではないだけが救い。しかし映画としては、展開がきれいごとすぎる。『きれいごとの愛じゃない』という宣伝コピーが泣く」

「ミケランジェロ・アントニオーニ監督久々の作品『愛のめぐりあい』は、監督自身が書いた32編の短・中編小説集の中の4編を映画化したもの。撮影開始後に脳卒中で倒れ、企画は暗礁に乗り上げたが、ヴィム・ヴェンダースを共同監督とすることで、やっと実現した」「さすらう男女の愛の断片を、執拗に描き続ける姿勢は変わらない。しかも、愛しあう姿ではなく、偶然に出会い、迷い、争い、別れる局面に監督の視線は注がれている。端正でありながら開かれている。寓話的でありながら肉感的である。そして、つかみかけた意味は、砂のように手のひらからすり抜けていく」

 「『D.N.A』(ジョン・フランケンハイヤー監督)は、完全にタイトル負けした作品。タイトルといっても題名ではなく、カイル・クーパーの緻密でダイナミックなタイトルデザインのことだ。肝心の映画は、B級のメイクがのけぞるほど酷い。ストーリーも噴飯もので、どうにも下らない結末を迎える。『ドクターモローの島』のリメイクが泣く」「この作品はカイル・クーパーがタイトルを製作した作品としてのみ残るだろう」

 「『鯨の中のジョナ』(ロベルト・フェアレツァ監督)は、子どもの視点からのナチス批判の映画。しかし展開が不十分で詰めの甘さが目立った」「『月の瞳』(パトリシア・ロゼマ監督)は名作だ。レズビアンを繊細なタッチですくいとった」「きらびやかで官能的。冒頭の水中シーンから、心ときめくものがあった」

 「『RUBBER'S LOVER』(福居ショウジン監督)は、『ピノキオ ルート964』から後退している。コミカルに躍動していた暴力が閉塞し、危うさが失われた」「映画の中で充足している暴力は、本当のパワーではない」

 「『新居酒屋ゆうれい』(渡辺孝好監督)は、館ひろし、鈴木京香、松坂慶子による新作。しかし、二番煎じの印象はぬぐえない」「ストーリーの新鮮味に乏しくては。フグだけで2時間持たないと思うよ」


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 「古いパリと最先端の新しい パリが混在する11区を舞台に、行方不明の猫グリグリを探すなかで、多彩な人々が出会う コメディタッチの佳品『猫が行方不明』(セドリック・クラピッシュ監督)。ブルックリンの雑多さに望みを託した『ブルー・イン・ザ・フェイス』ほど楽観的でないものの、緩やかな人々のつながりへの淡い希望が灯る」

「主人公のクロエは、地味で友人も少なく、途方にくれたよう に日々を送っている。男女関係のわずらわしさを避けるために、ゲイのミシェルと同居中 だ。ためらいがちに生きるクロエをギャランス・クラヴェルが好演している。もう一人忘 れてはならないのが、猫好きのマダム・ルネを演じたルネ・ル・カルム。73歳にしてデビ ューしたとは思えない飄々とした個性は、映画全体をキュートなものにしている」

 「クラシックからシャンソン、ジャズ、ヒップポップ、ジャングルなどなど、さまざま なジャンルの音楽を使っているのも特徴。11区の雑多な雰囲気を意識したものだが、意図 して映像とズレた曲を選択している。このセンスは、評価の分かれるところだ」

 「前作の『青いパパイヤの香り』は、静かな官能が 全編を包み込んでいたが、『シクロ』(トラン・アン・ユン監督)は、猥雑な活気に満ち あふれたベトナムの現在に迫るパワフルな作品となっている。前作があまりにも予定調和 的だった反動とも思えるほど、喧騒と腐敗が全体を染め上げている」「時代に流されてい く人々をリアルに描こうとしながらも、色彩美を捨てきれず随所にわざとらしい仕掛けが 散乱する。前回が柔らかな美しさとすれば、今回は痙攣的な美しさといえるだろう。とか げのしっぱや金魚をくわえたシクロの、凍りついた様な表情は、やはり忘れ難い」「トニ ー・レオンが演じる詩人は、作品のなかでの役割がブレていたのではないか。あれでは詩 人というよりは、ただのヒモ、殺し屋だ。姉役のトラン・ヌー・イェン・ケーの魅力は健 在。独特なエロティシズムがただよっている」

 「『ケス』(ケン・ローチ監督)は、生前のキェシロフスキ をはじめ、多くの監督が絶賛していた。その『ケス』がやっと劇場公開された。期待 を裏切らない、極上の作品。ビリー・キャスパー役のデイヴィッド・ブラッドレーは、純 粋さと粗暴さが混在する多感な少年の姿を演じ切っていた」「60年代後半のイギリス・ヨ ークシャーの日常が、過不足なく巧みに切り取られる。家庭では貧困と苛立ちが、学校で は管理といじめが、ビリーを取り巻いている。目標もなく、気の弱い悪ガキとして日々を 過ごしていたビリーは、偶然見つけたハヤブサのヒナの餌づけを通して、生きがいを見い 出していく。『ハヤブサは飼い慣らせない。人に服従しないから好きなんだ』というビリ ーの言葉が少年の心を象徴している』

 「ビリーが兄の馬券代をふところに入れたばかりに、ハヤブサのケスは怒った兄に殺さ れてしまう。ケスの亡骸を埋めるシーンで映画は終わる。いくらでも観客を泣かせることができるにもかかわらず、映画は不意に終わる。この抑制こそが『ケス』を非凡な作品にしている」

 「それに比べスペイン内戦をリアルに描いた『大地と自由』は、ドキュメンタリーのよ うな素晴しい迫力で観る者に重い問いを投げかけ、構成も緩みがないが、最後の抑制を欠 いたばかりに『ケス』に一歩及ばない」「自由と民主主義を守るため、自発的に反ファシ ズムの戦いに参加した青年デヴィッドが、大きな政治の力の前で挫折していく姿を追う。 映画は主人公が年老いて死に、その遺品を孫娘キムが整理する中でその生涯を理解してい く形をとっている。理想に燃えて生きることの意味を、若い世代に伝えたいというケン・ ローチ監督の熱い思いが反映したものだ」

 「しかし埋葬のときにキムが赤いスカーフを握り、かつてのデヴィッドのように右手を掲げたのには、幻滅した。遺品を整理しただけで 思いが伝わるのなら苦労はしない。経験の伝達の困難さという現実から眼をそらせ、安直 な結末を用意したケン・ローチ監督は、明らかに『ケス』よりも後退している」

 「『アライバル侵略者』(デビッド・トゥーヒー監督)の地球温暖化が異星人による惑星改造というアイデアはなかなか面白い」「問題はそれをどうみせるかでしょう。異星人や装置のデザインがあまりにも幼稚すぎる。最後の警告も浅はかだね」

 「『学校』はややわざとらしさが感じられたが、『学校2』(山田洋次監督)の脚本は自然でよくできている。養護学校を舞台としながら、日本の教育、学校、社会全体を鋭く問い返す力を持つ作品に仕上がった。その余韻の重さは『息子』をしのぐ」「この作品では生徒たちが前面に出ている。先生はサポート役に過ぎない。生徒たちの試行錯誤と交流の中で生徒自身が変わっていく。心に深い傷を受け無口 だった高志が、暴れる佑矢を怒鳴り、佑矢がおとなしくなるという決定的な場面がある。 ここに描かれているのは奇麗事ではない。人間が切実に関わり合う時、しばしばこのよう な瞬間が生まれる。そして、その後の人間関係が劇的に変わる。このシーンのリアルさが 映画全体を輝かせている」

 「手がつけられなかった佑矢が、あまりにも急におとなし くなってしまった点や、卒業式で小林先生が社会の差別や偏見をあからさまに批判する発 言の必要性に疑問は残ったが、雪の中の秀抜な熱気球のシーンや教師と生徒の関係をつか めずに悩む教師の真摯な姿が久々に強く胸を撃った。普通学校の歪み、普通教育の狭さ、 一般教養の粗雑さに、あらためて気付かされた2時間だった」


 

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  「大ヒットした『インデペンデンス・デイ』(ローランド・エメリッヒ監督)は、50年代の地球侵略B級SF映画のストーリーを巨万の製作費と最新のSFXを駆使して作り上げた作品。コンピューターウイルスという近年流行のアイデアを盛り込んではいるものの、はるか宇宙の果てからやって来た宇宙人が地球人と全く同じ仕組みのコンピューターを使っているという点は、50年代と変わらない脳天気さだ」

 「単純に破壊シーンを楽しんではいられない。あまりにも露骨なアメリカ中心主義は許し難い。その政治的な悪影響は無視できないだろう。一部でアメリカ絶対視に対するパロディという批評があるが、どうみても距離を置いて笑いとばしているとは思えない」「何よりも何故宇宙人が襲撃してきたのかが分からない。大統領だけが宇宙人の言葉と侵略の意図を理解したのも解せない。宇宙船が地球人に簡単に操縦できたのも不可解。高度な技術を持ち戦いを繰り返してきたはずの巨大な宇宙船が極めてもろい構造をしていたことが不思議。挙げていけば切りがないな。ヤレヤレ」

 「同じB級SFなら、フイリップ・K・ディック原作の『スクリーマーズ』(クリスチャン・デュゲイ監督)の方が、はるかにインパクトがある。長引く戦争のなかで兵士たちは、人間の姿をした殺人兵器・スクリーマーズとの不条理な戦いを強いられていく。混沌、恐怖、疲弊の描写は見事だ。ラストはやや甘すぎるものの、人間のアイデンティティを問うディック的なテーマは、今も切実さを失ってない」

 「『デカローグ』(クシシュトフ・キェシロフスキ監督)が、ついに劇場公開された。この9時間20分に及ぶ10連作は、痛ましい子供の事故死から始まり、遺産相続をめぐる苦いコメディで終わる」「宗教的な苦悩に満ちたテーマが続いた後、10話の冒頭でパンクロッカーが十戒を破れと歌う。さまざまな仕掛けが絶妙にブレンドされ、各作品の終わり方も余韻に満ちている」「第5話と第6話は独立した映画になっているが、連作版の方がはるかに優れていた」

「キェシロフスキ監督は『ふたりのベロニカ』『トリコロール/青の愛』という忘れ難い優れた作品を生み出しているが、『デカローグ」』を観た後では、やや生温い印象を受ける。それほどに、この連作は美しいバランスと緊張に満ちている」「一種神秘主義的な表現も全体の中にさりげなく置かれ、後期の作品ほど露骨ではない」「最高傑作と断言していいだろう」

 「『世にも憂鬱なハムレットたち』(ケネス・ブラナー監督)は隠れたクリスマス映画。見終わって明りがつくと、クリスマス・イブに感じる温かな雰囲気が劇場に満ちていた。良い映画を観た後の幸せな表情が目立った」「ケネス・ブラナー監督の才気を感じさせる逸品。35歳までに製作した作品を眺めると、天才という言葉が恥ずかしくない活躍ぶりだ」

 「今回は、旧知の俳優を起用し自分は監督に徹した。売れない役者たちが、それぞれの思いを胸に『ハムレット』の上演に向けて協力し、あるときは反目する。喜劇仕立てながら、演出家、俳優の本質的な苦悩が伝わってくる」「『ハムレット』という重い芝居が、役者たちのコミカルだが切実な生き様を引き立たせる。現在の映画界への皮肉をさりげなく盛り込みつつ、最後は見事なハッピーエンド。真面目なブラナー監督の優しさに、あらためて感動した」

 「『ファーゴ』(ジョエル・コーエン監督)は、コーエン兄弟が私たちに向けたブラック・ジョークなのだろうか。偽装誘拐を計画したところから、犯罪が犯罪を呼び、おびただしい殺人が行なわれる。どの登場人物も一癖あり、人間関係がぎくしゃくしている。そんな中、妊娠中の警官・マージは、独力で事件を解決しラストで夫とともに出産を待ち望む。めでたし、めでたし。ただし、妊娠している警官を殺人事件の担当にするか?と、考えてしまうと、すべてがガラガラと崩れてしまう」「ストーリー自体は、さして独創性のあるものではないが、冷たさと温かさ、シニカルさとコメディタッチ、血の赤と雪の白の調和、そして計算された構図と配色は高い水準にある。的確な配役と『ヤー、ヤー』の挨拶をはじめとする会話のリズムの妙も、付け加えなければならない。まとまりの良さは、これまでで最高ではないか」

 「しかし確かにうまいのだが、見終わったときの湧き立つような感動がない。見せ場のはずの死体をチップ化するシーンが、あまりにもさりげなさ過ぎた。こんなところを抑制するなら、むしろラストの会話の陳腐さに気付いてほしかった。『未来は今』のようなひどい出来ではないが、『バートン・フィンク』の何ともいえない後味には及ばない」

 「『わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語』(大森一樹監督)は、気張らずにさりげない配慮を積み重ねることで、賢治の天真爛漫さや温かさ、そして友情を描くことに成功している」「ただ、宇宙的な深さを持つ想像力と辛辣な現実凝視という賢治の希有な才能に迫るまでには至らなかった。この点は、実写では困難だろう。時折挿入されたアニメーションを、もっと賢治の世界の広がりを表現するシーンにつなげてほしかったと思う」

『パトリス・ルコントの大喝采』は、1996年を締めくくるにふさわしいルコント監督の傑作。そのうまさにあらためて舌を巻いた。ここ数年は、ほとんど年1本のペースで作品を発表しているが、多彩な味付けを加えながら、高い水準を保っている」「前作『イヴォンヌの香り』では、官能美を堪能させてくれたが、今回は一転してテンションの高いコメディ。売れない老俳優たちが何とか役にありつき奮闘する中で、爆発的な人気を得ていくという底抜けなハッピーエンドが用意されている」

 「不遇を吹き飛ばす老人パワーはすごい。名優たちの絶妙な演技に圧倒され、笑いの渦に飲み込まれてしまった。久しく忘れていた種類の快感。ジャン・ピエール・マリエル、フィリップ・ノワレ、ジャン・ロシュフォーレたちの存在感あるコミカルな演技はさすがだが、カミラ・ミロ役のカトリーヌ・ジャコブの的確な演技、発散するエネルギーはけっしてひけをとらなかった。ジュリエット役のクロティルド・クローも抜群に可愛らしい」

『私の男』(ベルトラン・ブリエ監督)は、天使のように優しく美しい娼婦の物語。シャープな映像とテンポの良い展開で、おおいに期待した」「後半、ヒモの視点に移動した後、失速していく。そして終わり方は最低。娼婦マリー役のアヌーク・グランベールは最高だったけれど」「『オセロ』(オリバー・パーカー監督)は拾いもの。サスペンスと官能のバランスが心地よい。随所にみせるアイデアも感心するほどうまい」「欠点を挙げるとすれば、整いすぎているということくらいかな」「それは酷だよ」


 

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