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 江戸時代以降の有馬郡各村の領主の推移は、以下の通りである(「山口町史」より)。
1582年 有馬郡の多くは豊臣秀吉の直轄領となり、山崎堅家が三田城主となる。
1601年 関ヶ原合戦後、山崎氏が転封され、有馬則頼が三田城主となる。
1620年 有馬豊氏が久留米に移封され、有馬郡は江戸幕府領となる。
1633年 九鬼久隆が有馬郡北部と南部の一部を合わせて三万石の三田藩主となる。南部の大部分は幕府領として存続。
1747年 名来、下山口他の有馬郡南部10ケ村が田安領となる。
幕末 生瀬、名塩が幕府との換地により、尼崎藩領となる。



 江戸幕末期には有馬郡南部は以下の40ケ村の村があり、それぞれに右図のように藩領を異にしていた。
 生野、塩田、道場川原、日下部、平田(以上、道場町)、下宅原、上宅原、上津下、上津上、岩谷(以上長尾町)、市原、簾、日西原、中大沢、上大沢(以上、大沢町)、中村、下小名田、上小名田、吉尾、柳谷、附物、深谷、屏風(以上ハ多町)、二郎、田尾寺、結場、馬場、岡場、切畑、西尾、堀越、唐櫃(以上、有野町)、名来、下山口、上山口、中野、船坂(以上、山口町)、名塩、生瀬(以上、塩瀬町)、湯ノ山(有馬町)
 

 有馬郡北部各村は三田藩に一括統治されていたが、有馬温泉に近い南部は事情が違った。秀吉が愛した有馬温泉は豊臣家の直轄地だった。豊臣政権を倒した徳川幕府はここを幕府直轄地として継承した。有馬郡南部の各村もまたその多くは有馬温泉の付属村的な役割から幕府領になった。
 その後、飯野藩領や岡部藩領に見られるように大坂城代や京都所司代に就任した幕閣の役地領として有馬郡南部各村が割当てられたり、徳川御三卿のひとつ田安家領となったりするケースもみられた。その結果、上記の図のように、南部各村の帰属は見事なパッチワーク模様を描いている。
 有馬郡北部の一体性に比べ、南部のバラつきの背景が窺え、これは南部各村が有馬温泉の付属的役割から幕府領とされたことに起因する。幕府領故に、特に湯山から比較的離れた村々は幕府の事情で柔軟に配置換えが可能だった。