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 「山口村誌」の資料編には昭和2年に作られた「山口音頭」の歌詞が収録されている。作者は甚野竹雀と記されている。この歌詞には「山口古蹟名称調べ」の副題があり、山口の史跡や名勝についての伝承が豊富に伝えられて興味深い。盆踊りの歌詞に託して古くから伝わる伝承を語り継いでいた古人の智恵に驚かされる。この貴重な歌詞を私なりに編集して全文を収録するとともに、必要に応じて解説のコメントを付した。
テーマ 歌 詞 コメント
お天上山  偖サテも皆さん山口の 古蹟名勝調べて見れば
   元は鎮守の森とぞ伝ふ 古名・久牟知クムチと称えたる
 お天上山の宮の跡 今は寂しき松風の音  
北六甲台の天上公園に公智神社旧鎮座跡之碑がある
高塚古墳  麓流るゝ有馬川 清き流れの水の音は
   在りし昔を漫ソゾろに語る 朝日輝く夕日の当る
 村を眼下に高塚古墳 
北六甲台の向山公園にも高塚古墳伝承地之跡の碑がある
銭塚地蔵  春木最初の開拓者 民の栄を夢見つゝ
   老幹低き松陰に 長き眠りを何時いつ迄も
 己が黒髪子女の為に 惜しまず切て養育す
   世にも隠れた賢婦人 之れを祀りし銭塚地蔵
 乳の病に子供の夜泣 之れが霊験名アラタかと聞く
   今は日本三体の 一に数へて其の名も高し
国道176号線は有馬川を新明治橋で跨いでいる。その宝塚側の南に銭塚地蔵がある。
丸山稲荷  富士によく似た丸山稲荷 伏見稲荷の勧請と聞く
   所領三千石の城主にて 山口五郎左衛門の
 居城なりしが羽柴秀吉 中国征伐其の砌ミギリ
   豪将中川清兵衛や 塩田其の外勇将の
 為に脆くも落城したり 年は過ぐれど今に猶
   月の光を浴び乍ら 之れを弔ふ秋の虫
 実にも憐れや郷士の末路
丸山は宝塚と有馬温泉を結ぶ湯山街道と三田方面へ向う丹波街道の分岐点に位置する。山頂には山口五郎左衛門の居城があったが、今は稲荷神社が鎮座する。
金仙寺 山の麓の観音堂は 千足山は金善寺
   抑もそも由来をた尋ぬれば 往古六月半ば頃
 此の地に住める百姓家へ一人の旅僧訪れて
   日も西の端に入りければ 一夜の宿を借り給ふ
 其の夜老僧は主に告げて 我に有縁ウエンの土地なるが故
   我が住所ジュウショウを建つべしと 観音菩薩の尊像と
 銭千足を残し置き 姿煙と消え失せ給ふ
   五間四面の本堂を造り 九輪塔やら山門を
 建てて一宇の霊場となす その後兵火に焼き儘されて
   今は淋しく間雲閉ざす されど尽せぬ読経は
 朝な夕なの山気を破る 
金仙寺は丸山の南麓、金仙寺湖の西湖畔にあった。現在は観音堂が建ち、金仙寺遺跡としてはその東南に整然と並ぶ礎石と竹薮の中の土塀の跡が残る。
公智神社  延喜式内公智クモチの神社 祭神久々能知ククノチ神にして
   古ムカシ久牟知クムチの山に祭れるを 有馬川の瀬東に変り
 故に今なる此の地に遷す 龍鱗リョウリン老いし神木松
   高く聳ソビえて青空を抜く 緑滴る森こそは
 四時鳴禽の声を聞き 一郷風致の中心ぞ
   実にも懐かし産生神ウブナスガミよ 毎年十月例祭は
 近在きっての賑かさ 血気に早る青年が
   神輿擔カツぎや壇尻ダンジリを 出して宮入勇ましく
 鐘や太鼓の囃しに連れて
歴史的にも山口の核となってきたのが公智神社である。代々船坂を除く山口の氏神であった。公智神社については、醍醐天皇の延長5年(927年)に完成した「延喜式」に記されている。
御旅所  大化三年冬十月に 人皇三十六代の
  孝徳天皇左右大臣 群卿大夫を従へて
 難波長楽の宮を出で 猪名野蔵人東久保経て
  春道平野に着き給ひ 車駕をこの地に止ませ給ふ
 日本書紀にと著わされたる 有馬行幸はこの時なれり
  行宮の跡はなけねども 今の崇神御旅所
 奉奠堂ホウテンドウとぞ字名アザナが残る
公智神社の正面を東に向って「宮前通り」と呼ばれる参道が続いている。参道入口の南角に「御旅所」がある。
船坂
山王神社
 後鳥羽天皇の建久二年 僧の仁西有馬へ来り
  温泉再修其の時の 湯槽ユブネを当地で作らるゝ
 当時創立せられし宮が 之が船坂山王神社
宝塚、船坂、有馬温泉を結ぶ旧・有馬街道の船坂交差点のすぐ西に船坂山王神社がある
光明寺  幾世重ねし老松古杉 社殿を掩オオひ自オノヅから
  弥イヤが上にも神威を高む 浄土宗にて鎮西派とす
 護念山なる光明寺こそ 蒼枝翠蓋ソウシスイガイ煙を含む
  清風風致の梵字なり 天文十年十月に
 南針和尚の開基とす 古き仏像ある其の中に
  西国三十三番の 木像を刻み安置せり
 他の寺院に数なき作よ
下山口の公智神社北隣りに浄土宗・知恩院末寺の光明寺がある。
西生寺  今は廃スタれし西生寺こそ 昔城山松原の
  右近大輔タユウが砦を兼ねたる菩提所
 開基確かに永禄時代 僧の善空が創建ときく
  宝樹山と称号し 閑寂風致の古刹なり
 夕陽沈み晩鴉バンア鳴き 栄枯盛衰此の理を語る
名来二丁目の国道西側の道路沿い浄土真宗大谷派・東本願寺末寺の西生寺がある
善照寺  浄土真宗大谷派なる 黄金山は善照寺
  寛正二年春二月 釈善想の開基なり
 当寺安置の本尊こそは 其の丈一尺八寸の
  黄金阿弥陀如来なり 元播州は加東郡
 大江ケ池より出現と 摂津名勝図絵にあり
  世には盗難守護仏tp謂ふ
船坂交差点の北東、船坂小学校西側に浄土真宗大谷派・東本願寺末寺の善照寺がある
明徳寺  慶長年間俗称中尾の経正が 開基に係る惣道場
  元栄是寺に安置せる ご本尊なる木立像
 阿弥陀如来は国宝となる 小安地蔵は境内にあり
  元は村端才の神 祀りあるのを移せしものよ
上山口二丁目の有馬川西岸、万代橋南に浄土真宗大谷派・東本願寺末寺の明徳寺がある
川上の滝  清く流るゝ船坂川の 水は源川上の
  滝で一度銀泡ギンポウとなる 霧を吹き出し煙りを作り
 白龍落つる其の音は 渓タニに響きて凄味を感ず
有馬街道から船坂川西側の道に入り、北に徒歩約30分の所に川上の滝がある
相生の松
夫婦松
 世に名知られし相生の松 豊太閤の御手植と
  土地の口碑に残るなり 幾百歳を経たるとも
 変ることなき君子の操 双龍伏したる老松の
  前に黒煙厳めしき 汽車の半影現わして
 後へ丸山控へなば 実にも豊富な洋画の資料 
かって国鉄有馬線がすぐ前を走っていた夫婦松のの跡地は、現在は「高田上谷病院」の南角に当たる地点である
天狗岩  音に聞へし天狗の岩は 船坂川の中流の 
  字河浦の所属なり 奇巌怪石点々として
 水流之と闘ひて 水泡煙の如く飛ぶ
  直下数尺両巌に 蒼苔ソウタイ封ぜし只中へ
 落つる水音木霊コダマに響く 之を天狗の棚池と云ふ
  池上に楚々たる老孤松 横に拡がり懸崖となる
 一度此処を訪れば 幽邃にして仙境に
  入りし心地で帰るを忘る
天狗岩がどこにあったのか定かでない。字・河浦の地名も知る術がない。唯、「有馬郡誌」上巻第四篇第二章名勝舊蹟の山口村の記述に「川浦の湯」があり、「七合川右岸の林縁に在り」と記されている。鎌倉峡バス停前から生コン工場に向う旧道の船坂川にかかる橋に「七合橋」の名が残っていることから、この辺りと推定される。
河浦冷泉  すこし下りて絶壁の 巌イワの間より湧き出る
  痔疾皮膚病の特効と 遍アマネく人に知られたる
 これが河浦冷泉と謂ふ
エピロ−グ  他にまだまだ名勝古跡 大石浮石屏風岩
  座頭谷やら牛ケ滝 天明地蔵に作兵衛屋敷に三王谷
 二本松やら城山城趾 赤松祐春居城たる
  船坂城趾と調ぶれば 限りなき故こゝらで止める
 後日又よき機会を求め 更に探りて読むことにする
               昭和弐年九月作之 甚野竹雀
               袖下節節まわしにより歌う