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三太夫の墓碑
 地域の歴史探訪をした。地元図書館で西宮市教育委員会発行の「西宮歴史散歩・案内マップ」という地図を借り受けたことがきっかけだった。記載された地元の史跡や石碑を自身の目で確かめようと思ったのだ。
 興味をそそられたのは竹本○○太夫という浄瑠璃の太夫とおぼしき人物の墓碑である。案内マップにはわずか1.5kmの範囲に「多賀太夫」「増太夫」「加治太夫」の三人もの墓碑が記載されている。実際に現地を訪れて墓碑を目にした。三つの墓碑は、規模や仕様が驚くほど似通っている。
何故三人もの墓碑があるのか?山口にどんなゆかりの人物なのか?
 何故、三人もの太夫の墓碑が至近距離で共通する形状でこの地に残されているのか?山口にどんなゆかりの人物たちなのか?その謎に俄かに興味が湧いてくる。ネットで三人の名前でキーワード検索を試みると以下のことがわかった。「義太夫の太夫が芸名を名乗る際にはかならず竹本か豊竹を苗字とするようになった」「竹本増太夫は、延享〜宝暦初期に江戸三座に出演した太夫」。このことから墓碑の竹本姓の三人の太夫が単に義太夫の太夫という共通項があるだけで同じ一門ということではないらしい事、竹本増太郎の活躍した時代が江戸中期の吉宗の時代だったという事がわかっただけである。彼らと山口との関わりを示すものは見つけられなかった。そんなわけで、三人の義太夫・太夫の墓碑の謎に嵌ってしまった。熱しやすく冷めやすい生来の性格はどうしようもない。三人の墓碑の再探索に出かけた。
平尻街道分岐点の茶店前の竹本多賀太夫塚
 最初は中国自動車道北側の「竹本多賀太夫塚」だ。今朝も農作業小屋の庭先を訪れると小屋から出てきた70歳前後のおじいさんに出会った。早速、疑問をぶつけてみた。「この辺りは昔の大坂街道の一部だった平尻街道の分岐点のあったところですか」「そう、ここは小字は平尻と言っていた所で、この小屋はその頃は街道筋の茶店だった。旧街道はあの向こうの山の谷間を通り、山中を縫って道場平田の宿まで繋がっていた」と知りたかったことを一挙に教えてもらった。「子供の頃は、名来の村で道刈りをしていて、その街道を行き来していたもんだ。今は通れなくなってしまったが」「その三つの墓石も、わしのじいさんとばあさんが倒れていたのを二人で起こして据え直したものだ」と、多賀太夫塚の横の「宇滴宋圓」の文字が刻まれた墓石と「蝸牛」の文字が辛うじて判読できる墓石を指さした。いずれの墓石も建立の年号は見当たらない。
銭塚地蔵墓地の竹本増太夫塚と西国巡礼供養塔
 次に訪れたのは銭塚地蔵横の墓地だ。「竹本増太夫塚」と「西国巡礼供養塔」が並んでいる。増太夫塚には天保6年(1836年)の、供養塔には安政4年(1858年)の文字が刻まれている。1750年代に江戸三座に出演した太夫である増太夫のこの塚は、死後100年ほど後に建立されたものと推定された。
 最後の山口中学校近くの「竹本加治太夫墓」には年号らしきものもなく、かすかに残る文字も判読不能だった。
 かくしてこの地に残る三人の義太夫・太夫の墓碑の再探索は一旦終了した。依然として彼らのこの地との関わりは謎のままである。推理小説の謎解きの如き旅路が続いている。
謎解き
 過日、何か手がかりになる資料はないか、山口町郷土資料館に問い合わせた。徳風会理事長を兼ねる館長から、山口町史編集委員で郷土史家のOさんを紹介された。以前私も参加した山口公民館の地域講座で「山口の昔話」というテーマで講師をされた方である。恐らく90歳前後の年配で今やこの地域の大長老ともいうべき方と思われる。電話によるぶしつけな問合せにも関わらず、以下のような貴重なお話しを伺えた。
 「江戸時代、山口では浄瑠璃が非常に盛んだったようだ。それはこの街の古い家の多くに当時の浄瑠璃本が残されていることでも裏付けられる。三人の太夫の墓碑の内、増太夫墓碑は下山口の橋本さん宅が、加治太夫墓碑は上山口の加治さん宅が代々供養をされている。両家の過去帳にもそれを窺わせる記載がある。それらを考え合わせると、三人の太夫が山口の在住者か出身者であったことは十分推測可能ではないか。また墓碑の台座の文字はそれぞれの師匠を囲むグループの名前だったのではないか」
 ここに至って、ようやくかねての謎の大枠が解き明かされた。それにしてもOさんのような高齢の郷土史に詳しい方にお話しを伺えた僥倖に感謝するばかりである。同時にこの街の伝承を受け継げる環境や仕組みを早急に整備することの大切さも痛感した。
国立文楽劇場の資料
 2010年6月に知人の紹介で大阪の国立文楽劇場の資料閲覧室を訪ねた。山口ゆかりの三人の浄瑠璃太夫の消息を調べるためだった。その結果、以下のことが判った。
・「義太夫年鑑」に延享2年(1745)に竹本増太夫の、文化7年(1811)に竹本多賀太夫の名前が記載されている。
・この二人と山口の墓碑の人物を結ぶものはない。ただ江戸時代に竹本増太夫と竹本多賀太夫という太夫の実在を確認できたという事実だけである。