円卓の騎士 ★☆☆
(Knights of the Round Table)

1954 US
監督:リチャード・ソープ
出演:ロバート・テイラー、エバ・ガードナー、メル・フェラー、スタンリー・ベイカー


<一口プロット解説>
アーサー王伝説の映画化。
<入間洋のコメント>
 「円卓の騎士」とは敢えて説明するまでもなく、中世イギリスを舞台とした有名なアーサー王伝説に登場する12人の騎士達のことです。実を云えば、アーサー王物語については、高校(静岡県立沼津東高校)入学の際に、入学前に読んでおく春休みの宿題として無理矢理英語版の本を買わされ読まされたので、それ以来恨み千万に思っているのですね。恐らくあちらでは子供向けだと思われる絵入りの薄っぺらな本でしたが、当時は英語は全く読めなかったので、現在であれば1時間もあれば読めるような本を、ひーこらひーこら云いながら何日も何日もかけて読みました。まあそのような個人的な話はどうでもよいとして、この有名なヨーロッパの伝説はさすがにアメリカでも何度も映画化されており、個人的には見ていませんが、比較的最近にもデンゼル・ワシントンがオスカーを受賞した「トレーニング デイ」(2001)を監督したアントニー・フークアによるその名もずばり「キング・アーサー」(2004)という作品がありましたし、当ホームページで既にレビューした作品の中でも、「円卓の騎士」と同時期に製作された「炎と剣」(1954)が、アーサー王伝説から素材を得ています。他の作品ですぐに思い出されるところでは、ミュージカルの「キャメロット」(1967)やジョン・ブアマンの「エクスカリバー」(1981)等があり枚挙にいとまがなく、また聖杯(the Holy Grail)探求のテーマは、歴史劇ではありませんが最近の話題作「ダ・ヴィンチ・コード」(2006)でも取り上げられていたことは皆さんご存知のことでしょう。まあ日本で云えば時代的にも「平家物語」あたりがかなりそれに近そうですが、その昔大河ドラマで放映されていた間はともかくとしても、日本における「平家物語」への関心よりも、欧米での「アーサー王伝説」への関心の方が遥かに大きいことがそのような傾向からも分るような気がします。

 さてそのアーサー王伝説を題材にした作品の1つがこの「円卓の騎士」であり、殊に冒険活劇が全盛であった1950年代前半の当時としてみればアーサー王物語は格好の素材であったことは間違いなく、しかも既に一般にも広く人口に膾炙しているお馴染みのストーリーが展開されているので、そこに新規性は見出されなかったとしても大きなハズれにはなりそうもなく、そこそこの客の入りは最初から保証されていたことでしょう。監督はリチャード・ソープで、彼は近いところだけでもたとえばウォルター・スコットの「アイヴァンホー」の映画化であり「円卓の騎士」同様ロバート・テイラーを主演とした「黒騎士」(1952)、「ゼンダ城の虜」(1952)或いは「プロディガル」(1955)などを監督しており、この手の歴史冒険活劇を無闇矢鱈と得意にしていました。ただ残念ながら、少なくとも1950年代の作品に限って云えば(彼は恐ろしく多産な監督さんであり、1920年代から1960年代まで100を軽く越える作品を監督していますが、個人的に見たことがあるのは1950年以後の一握りの作品のみです)、彼の作品にはいわゆるひとつの深みに欠けるきらいがないとは云えず、或る意味で現代のアクション映画と共通するような面すらあり、いわば中身の濃さよりもエンターテインメント性を徹底的に追求しようとする傾向が見られました。当時の歴史モノと云えば、エンターテインメント性と同時に宗教的それもキリスト教的コノテーションが適度に或いは過度に加えられることがしばしばありましたが、皆無ではないとしても彼の作品にはキリスト教的な宗教性はあまり見られず、「円卓の騎士」にもそれは見事に当て嵌まります。「ダ・ヴィンチ・コード」を見てもわかるように聖杯探求のエピソードはむしろ異教的でさえあります。「プロディガル」でもラナ・ターナーが異教の女王を演じていました。しかしエンターテインメント性にあまりにも重点が置かれ過ぎると、やはり当時の技術は現在に比べればどうしても未熟であったと言わざるを得ず、現在のオーディエンスから見れば物足りなさが残るのはいた仕方のないところでしょう。恐らく現代のオーディエンスがこの作品を見ると、何やら気の抜けたリボンシトロンを飲んだような印象を受けたとしてもさ程大きな不思議はないかもしれません。また拳銃を撃つ時ですらいちいちカッコをつける現在のアクション映画のカッコよさの基準を当て嵌めると、たとえば大きな剣を両手で持ちながらブンブン振り回し、ガツンガツンと音をたてながらチャンバラするシーン(画像左参照)などは、えらくダサく見えるかもしれません。けれども欠点ばかりではなく利点もあり、当時の多くのカラー作品に見られた鮮やかな色彩への拘りはこの作品でも十二分に発揮されていて、そのような意味におけるゴージャスさに関しては、当時のオーディエンスの目よりもダークな色調に慣れた今日のオーディエンスの目に対しての方がより大きな新鮮さを与えるかもしれません。その意味では、新たにリストレーションが施されたDVDバージョンの出現は歓迎すべきところでしょうね(但し、国内で発売されているワンコインバージョン等のDVDプロダクトの画像クオリティに関しては見ていないので分りません)。

 ここまで述べたことはそれ程この作品自体の独自の特徴であるというわけではなく多かれ少なかれ当時の類似の作品にも見られる傾向ですが、しかしながら実はこの作品には、独自か否かは別として少なくとも当時は一般的ではなかった画期的とも呼べる特徴が1つあります。それは、ワイドスクリーン画面の活用法に関してですが、「円卓の騎士」に特徴的なワイドスクリーン画面の活用法に関して述べる前に、まずワイドスクリーンの導入によってどのような影響がもたらされたかについて簡単に触れておきましょう。ワイドスクリーンがTVの脅威に対抗する為の1つの秘密兵器として最初に実用に供されたのは、ご存知のようにこの作品の前年に製作されたスペクタクル史劇「聖衣」(1953)からであり、従って「円卓の騎士」はワイドスクリーンが導入されてから間もない頃に製作されたということになります。IMDBによれば「円卓の騎士」は、横縦比(aspect ratio)2.55:1の超横長ワイドスクリーンで製作されています(上掲画像は、規定のサイズに合わせる為にキャプチャ後左右を裁断してあるので画像の横縦比率について確認する為の参考にはなりません。又、私めの所有しているワーナーの海外バージョンDVDでは横縦の比率が維持されているようですが、国内販売のプロダクトについても同様であるか否かはよく分かりません)。因みにフラットではない横長なワイドスクリーンの標準は現在では2.35:1とされており、従って2.55:1は一般的に見ることができるほぼ最大の横長画面になります。それ以上の横長比率ということになると、特殊なパノラマビューを意図して製作された「西部開拓史」(1962)の2.70:1など、極めてわずかな例外しか存在しないはずです(個人的には「西部開拓史」しか知りません)。「西部開拓史」は1500円の廉価版DVDが遥か昔から販売されているので、持っている人は是非、短冊のような画面の細さを確認してみて下さい。貧乏根性の抜けない私めなどは、画面の上下に大きな真っ黒の真空地帯が存在するのを見て、画像部分が少なくて損をしたと思ってしまう程です。DVDのみの現象なのか画面に薄く縦線が2本入っているのが分りますが、これは画面の細さが関係しているのでしょうか?1950年代前半にこのようなワイドスクリーンが登場するまでの標準横縦比は1.33:1であったのであり、2.55:1ということになると、それまでと比べてほぼ2倍の横長画面にいきなりなってしまったことになり、さすがに慣習が確立していない導入当初は、表現様式としてそれをどのように効果的に扱うべきかが、海千山千のかつての巨匠監督達にすらはっきりとは分らず、試行錯誤が暫くは続いている状態にありました。「灰色の服を着た男」(1956)のレビューでも述べたように、当初は横長なキャンバスを生かした絵画的な構図が重要視されていましたが、一言で云えば動きよりもスタティックな俯瞰性が重視されるようになったと云えるかもしれません。たとえば、複数の登場人物が会話をする一連のシーケンスがあった場合、従来はそのようなシーケンスを更に細かなカットに分割し、その時々の中心人物(大概はしゃべっている人物ということになりますが)のみをカメラに収め、後からかくして撮られた複数のカットを時系列に従って繋げて編集するというような手順が一般的でしたが、ワイドスクリーンが導入されると一連のシーケンスに関連する登場人物全員を1画面フレーム内すなわち1ショット内に収めてしまい、誰をどの位置に配置するかというような静的な構図に力点が置かれるようになります。

 当然ワイドスクリーン仕様により製作された「円卓の騎士」でも、その当時ワイドスクリーン画像に適用されつつあった俯瞰的な画像構成に重きを置く傾向が目立つことには変わりがありませんが、しかしそれと同時に若干それとは異なる側面もまた見出すことができます。そのことに気付かせてくれたのが、最近当ホームページで引用することが多くなったドルー・キャスパー氏の「Postwar Hollywood 1946-1962」という著書です。彼によると、「円卓の騎士」はカメラを移動させながらアクションシーケンスを撮影した最初のワイドスクリーン作品の中の1つだそうです。たとえば、前半のアーサー王の軍団とモルドレッドの軍団の戦闘シーンでは、徐々に加速していく騎馬隊の突撃を、突撃する騎馬隊のすぐ脇をカメラが同様に加速しつつ同期的に移動しながら撮影しています(画像中央参照)。通常このシーンを絵画的構図を重視して撮影しようとするならば、カメラを中距離に固定しておいてパンさせるか、高所から遠距離俯瞰させる、或いは編集過程でそれらを組合わせるかするでしょう。しかし、ソープはいずれの方法も採用せず、カメラの方も突撃する騎馬隊と並行して移動させることにより、それまでのワイドスクリーン作品のように背景を固定して前景の動きを捉えるのではなく、前景すなわち騎馬隊の突撃の方を画面中央に固定しておいて背景の方を流動させます。ではそのような技法により何が得られるのかという疑問が湧くのではないでしょうか。それに対する回答は、身体運動感覚ではないかと個人的には考えています。まず俯瞰的なビューが採用された場合を考えてみると、その名が示す通り第三者的観点から特定のシーンを俯瞰的に眺めることになり、オーディエンスとしては専ら視覚による知覚が最優先されることになります。それは勿論、中遠距離から各々のシーンが捉えられるので距離的な意味においても視覚的にならざるを得ないということが第一にありますが、そのようにして撮影された映像は位置関係を中心とした視覚的な構図をそもそも下敷きにして構成されているということもあります。それに対して、カメラの方も同期して移動させることにより、動く被写体である騎馬隊の突撃に近距離から焦点が当てられ固定化されると、オーディエンスはそれに一種の(感情)移入をすることが容易になります。従って、そのシーンを見るオーディエンスの方でも自分達も一緒に突撃しているような錯覚を覚えるはずであり、従ってここにおいてオーディエンスは視覚のみではなく身体運動感覚までをも動員してそのシーンを見るように強く誘われることになるわけです。思わず身を乗り出すとは、まさにそのような事態を指しているのではないでしょうか。

 さて、前節では軽々しく身体運動感覚などという用語を持ち出しましたが、ここで実は1つの告白をしなければなりません(とは大袈裟な!)。それは、映画関係の専門の論文や書籍などを読んでいると、映画は視覚だけではなく身体運動感覚(或いは身振りとか身振り言語とか類似の用語が使用される場合もあります)にも大いに関わるメディアであると主張されているのをしばしば見掛けますが、直感的にそのことは正しいであろうとは思いつつも何故そのように言えるのかが、かつては全く理解できませんでした。確かに絵画や写真の場合のような静止画ではなく、動画をオーディエンスは見ることには違いないとしても、暗い中でじっとしてお行儀よく見るのが普通である映画が(因みに映画ではありませんが18世紀19世紀あたりまでのヨーロッパでは観劇はそもそも社交の場であり、一昔前の映画館や現在の大学の授業がそうであるように劇の途中で出入りするのが当たり前であったそうですね)、何故運動感覚に関係するのかがよく分からなかったのですね。どうやらそれらの論文においては、そのことは当然であるかの如く扱われていてその理由が全く書かれていなかったので、そもそも運動感覚という用語をどのような意味で使用しているのかいつも不思議に思っていました。たとえば、これまた最近当ホームページレビューでの引用が増えてしまったジークフリート・クラカウアーの「Theory of Film」などでも運動(movement)或いは動き(motion)が映画の重要な要素として語られていますが、写真とは異なり映画は動画であるという或る意味で極めて当たり前のこと以上の根拠は少なくとも一度読んだ程度では分りませんでした。また、たまたま現在入間の図書館から借りて読んでいる桜井哲夫氏の「TV 魔法のメディア」(ちくま新書)にもハンガリーの映画評論家ベラ・バラージュの「視覚的人間」に言及して、「人間の全身は、かつてどこでも可視的であったが、言葉の文化において、その全身像が見えなくなった。映画(シネマトグラフ)の出現は、まさに、忘れ去られていた「表情や身振りによる言語」の再習得にほかならず、この普遍的な身振り言語こそが、民族性を越える最初の国際言語となる、とバラージュは熱を込めて論じたのであった」などと述べられていますが、この件に関してはそれ以上の説明は特にありません。勿論桜井氏は、タイトルにあるようにTVメディアに関する本を書いているのであって、決して映画論を展開しようとしているわけではないので、映画に関する引用記述に関してそのこころは何かが書かれていなくても非難されるべき筋合いは全くありませんが、映画に大きな関心を持つ私めのような輩がこのような文を読むとどうしても、何故或いはどのようにして映画が「表情や身振りによる言語」の再習得と関係があるのかと問いたくなってしまうのですね。バラージュの本は全く読んだことがありませんが、いずれそのこころが書かれているかどうか機会があれば読んでみたいところです。確かにたとえば「ミメシス」のようなそれらしき概念を持ち込めば何となく分かったような気になるかもしれませんが、このような概念装置が導入される場合、たとえば科学史上の一種の笑い話「物質が燃えるのは燃素が含まれるからである」といった類の説明に堕していないかに注意しないとなりません。

 とまあ色々と不満を呟いてしまいましたが、しかしながらかなり最近になって、映画とは運動感覚も多大に関わるメディアであるということの意味が少なからず分ってきたのですね。それは実は映画論と銘打った書物や論文を読んだからではなく、近現代における知覚の変遷を扱った書物を読んだことによってです。具体的に云うと、理論的にはマーティン・ジェイ(アドルノなどのドイツフランクフルト学派に詳しい哲学者ですが、彼の著書はそのような狭い範囲には限定されず、また文章は素人にも分りやすく、更に云えば英語も平易であり入門書としても最適な書物が多くお薦めですね)の「Downcast Eyes」(University of California Press、邦訳不明)、実践面としてジョナサン・クレーリーの「Techniques of the Observer」(The MIT Press、邦訳「観察者の系譜−視覚空間の変容とモダニティ」(以文社))、「Suspensions of Perception」(The MIT Press、邦訳「知覚の宙吊り−注意、スペクタクル、近代文化」(平凡社))或いはロザリンド・E・クラウスの「The Optical Unconcious」(The MIT Press、邦訳不明)などです。彼ら彼女らの議論を簡単に述べることはかなり難しいものがありますが、基本的には19世紀のある時点で視覚という知覚様式に対する考え方が大きく変化したということになるでしょう。どのように変化したかというと、それ以前はデカルト的な考え方が影響を与えており、非常に荒っぽい言い方をすると視覚という内部知覚は、外部にある実体を鏡のように1対1に反映するという考え方が取られ、その典型的な様式が適用された光学装置としてカメラオブスキュラを挙げています。ワイドスクリーン導入の文脈で云えば、人間の主観的要素が入り込みにくい俯瞰的な視覚がそれに近いと云えるでしょう。しかし19世紀も後半にさしかかると、或る意味で極めて単純とも云える内部と外部の鏡像的な一対一関係というそのようなモデルが崩れだし、一種の知覚のパラダイム変換を通じてその代わりとして登場してくるのが「attention」という知覚様式です。「attention」とは一般に日本語では「注意」という意味に相当し、すなわち主観的な側面がそこでは色濃く投影されることになります。しかし、「attention」には必ずしも意図的な意味での「注意」のみが含まれるのではなく、後にフロイト達が見出す無意識や或いは運動感覚のようなものまでそこには包含されます。すなわち、新たなパラダイムにおいては視覚には常に何らかのユレやブレが含まれるのであり、それはたとえば前述した運動感覚のような身体装置とも密接に関連しており、運動感覚が視覚に働きかけることもあれば、一種のフィードバック回路を通して視覚が運動感覚に影響を与えることもあるということです。

 とはいえ、もしかすると当方の誤解かもしれませんが、19世紀のある時期に新たなパラダイムがいわば「発見」されるまでは、そのような視覚様式で人々は外界を見ることは全くなく故に19世紀をはさんで18世紀人と20世紀人の間では視覚世界が根本的に全く異なるはずだという意味かと云うと、それには少し無理があるように思われます。そもそも一般人が俺は或いはあたいは泣く子も黙るCartesian(デカルト主義者)だいなどと考えながら大通りを闊歩していたなどということはいつの時代であっても考えられないでしょうから。そうではなく、新たな視覚のパラダイムが明確化する以前はたとえば芸術表現などを通じてそのような傾向が顕在化される程にもモーメンタムを有していなかったのに対して、新たなパラダイムが明確化され芸術表現などを通じてそれらが顕在化されればされる程、一種のフィードバック機構によりそのような新たな傾向が加速度的に一般にも浸透していったということではないかと考えられます。たとえばロマン主義的な傾向が全盛を迎えた後で表現主義やフロイトが登場し、フロイトが登場したが故に、現在の我々は無意識の存在を半ば意識しながらソソソクラテスかプラトンかのように悩みながらみんな大きくなるのであり、かくしてある様式がひとたび軌道に乗ると、自己言及的なプロセスを含むメカニズムを通じてそのような様式が雪だるま式に高度な意識レベルに達し、人口にも広範に膾炙していくのではないかということです。パラダイムという用語の総元締めである、トマス・クーンの科学革命論などもそれに近いのではないでしょうか。その意味ではフロイトを知った以上ソソソクラテスやプラトンと全く同じ仕方で悩むことは最早不可能であるとも云えるかもしれませんね。本来ならばもう少し論点を明確にする為にこれらの書物から要点となる箇所を引用したいところですが、最近どうも引用によってレビューが必要以上に長くなる傾向にあることを反省して今回は引用は控えることにしました。いずれにせよ、そのような議論を読んでいてハタと気が付いたのですね。すなわち、映画というメディアはカメラオブスキュラ的な単純な視覚モデルに従って捉えられるべきではなく、まさにこのような運動感覚などをも含む新たな視覚モデルが適用可能なメディアとして捉えられるべきことをです。ジョナサン・クレーリーは、そのような新しい知覚様式に関して映画ではなくセザンヌやスーラなどの絵画史における例を用いて説明していますが、前述した彼の両著作は映画とは直接関係がないとはいえ、映画というメディアを考える上で重要な示唆を含んでいるように思われ映画ファンにも大いに推薦できます。但し残念ながらこの手の書籍の例外に漏れず邦訳は恐ろしく値段が張り、そのようなわけで英語を苦手としなければ原書をwww.amazon.com等から買った方が送料を含めても遥かに安く済みます。英語が得意であれば、マーティン・ジェイの前掲書も絶対的にお薦めです。クラウスの著書については、やや詩的で気取ったような書き方がされていて読みにくいところがありました。つらつら考えてみると、たとえば視覚中心的な傾向を多分に有するスタンリー・キューブリックの「2001年の宇宙の旅」(1968)のような作品を見ていて、一方では極めて斬新に見えながらも、他方で何やらいつもと異なる違和感を覚えるとするならば(個人的にはそのような印象が強くあり従ってこのポピュラーな作品の評価をファンに殴られそうな★☆☆つまり並みとしていますが、詳細はそちらのレビューを参照して下さい)、ジェイやクレーリー或いはクラウスらが取っているアプローチからもその原因を探ることができるかもしれませんね。

 ということで、「円卓の騎士」から恐ろしく話が逸れてしまいましたが、
このように考えてみると「円卓の騎士」でソープが採用した撮影方法は、オーディエンスの運動感覚を動員する為に極めて大きな効果を持っていたと考えることができます。ワイドスクリーンの大きな特徴であるとは云え、それがあまりにも多用され過ぎると映画というメディアが本来持っているはずの運動感覚に対する働きかけを損なう結果にもなり兼ねない俯瞰的なビューの合間に運動感覚を惹起するようなビューを巧みに混ぜ合わせることにより、より現実的な解をソープは見出したということかもしれません。殊に、アクションに重きが置かれる冒険活劇のようなジャンルに関してはこの点が極めて重要になるものと考えられます。考えてみれば、たとえば「聖衣」や「十戒」(1956)のようなスペクタクル巨編においては、むしろオーディエンスが第三者的に眺めておおおーーーっと歓声を挙げるような俯瞰的視点がより重要視されても構わない作品であるのに対して、この「円卓の騎士」のような冒険活劇においてはオーディエンスの運動感覚をいかにすれば効果的に動員できるかが成功の大きな条件になるようにも考えられます。海千山千の経験を誇り理論派というよりは実践派のソープは、カメラも移動させるという方法を用いて見事にそのようなジレンマを解決したのではないかということです。

2007/11/18 by Hiroshi Iruma
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