素晴らしき男 ★☆☆
(A Fine Madness)

1966 US
監督:アービン・カーシュナー
出演:ショーン・コネリー、ジョアン・ウッドワードジーン・セバーグ、パトリック・オニール

左:ジーン・セバーグ、中:ジョアン・ウッドワード、右:ショーン・コネリー

前回、「トータル・リコール」(1990)のレビューで、現代における意識と身体性の乖離の問題について長々と述べましたが、それを逆方向から照射するケースが扱われる作品について今回は取り上げてみることにしました。そのケースとは、ロボトミー手術のことです。ロボトミー手術が素材として取り上げられる映画としては、一般的には「カッコーの巣の上で」(1975)がしばしば挙げられるようですが、しかしながら、この作品では、額の縫合の跡により主人公のマクマーフィ(ジャック・ニコルソン)がロボトミー手術を施されたことが示されるラストシーンを例外とすれば、ロボトミー手術自体よりも、精神病院という管理施設の持つフーコー流のパワー相関の問題に焦点が当てられていると見るべきでしょう。他の有名どころの作品としては、「去年の夏突然に」(1959)があります。しかし、この作品の場合にも、「人食い」、「同性愛」、「近親相姦」などといったもろもろのキワモノ的な要素の1つとしてロボトミー手術が話題に挙げられていると見なすべきであり、それが決定的な意味を持っているわけではありません。いずれにしても、これら両作品は、ロボトミーとは直接関係のない極めてシリアスなテーマを持ち、その中にあってロボトミーは、主要テーマを際立たせるちょっとした素材として利用されているに過ぎません。ここに取り上げる「素晴らしき男」でも、ロボトミー手術が1つの素材として取り入れられています。しかしながら、シリアスな前記2作品と比べると、むしろこちらの方が、コメディ作品であるだけに、ロボトミー手術の奇怪さが結果的には際立っているようにも見えます。といっても、ロボトミー手術のエグいシーンが挿入されているわけではなく、扱われている問題のシリアスさと、コメディとしての表現の軽々しさの間にあるギャップが大きいところが、余計に奇怪に見えるのです。何しろショーン・コネリーが演じている詩人のサムソンは、ことあるごとに腕力にまかせて暴れまくり、自分の嫁さん(ジョアン・ウッドワード)にストレートパンチをお見舞いするやら、借金取り(ジョン・フィードラー)をゴミ箱に放り込むやら、鏡に鉄亜鈴を投げつけて粉々にするやらと、やりたい放題です。いわば、詩人の創造力の根底には、暴力的な狂気が必ずや存在するとでも言いたげなほどなのです。そのような彼の前に登場するのが、精神分析医(パトリック・オニール)ですが、自分の嫁さん(ジーン・セバーグ)をサムソンに寝取られた恨みで、精神分析などではとても治療できそうにない彼に、ロボトミー手術を施す許可を出します。要するに、ここには精神に関連するソフトウエア的な問題を、脳器官に対するハードウエア的な手術で解決しようとするアイデアが見て取れるのであり、「トータル・リコール」のレビューで述べたモラヴェック/スタートレック仮説の、すなわち意識というソフトウエアの内容を身体というハードウエアから情報として分離するアイデアの、まさしく正反対の極にある見方が示されているのです。つまり、心と身体(この場合は脳)は関連しているはずなので、身体をいじれば心のあり方も変わるはずだという考え方が、ロボトミー手術の背後に存在するということです。確かに「心と身体は関連している」とする部分については、「トータル・リコール」のレビューでも述べた通り、また近年の心身相関セラピーの隆盛について考慮すれば分かる通り、まさにその通りであるとはいえ、ソフトウエアたる心の問題を治すためにハードウエアたる身体(この場合は脳)を勝手にいじり倒しても差し支えないかという問題は、それとは全く別の次元に属しているのです。かくして、そのような考え方の誤りを見事に示したのがロボトミー手術の結果生じた様々な問題であったと考えられ、ご存知のように現在ではロボトミー手術は行われていないはずです。言い換えれば、ロボトミー手術より派生する様々な問題は、「心と身体は関連している」という厳然たる事実を、逆方向から、すなわちネガティブな例によって照射するものであったと捉えることができるでしょう。「素晴らしき男」でも、結局サムソンは、ロボトミー手術(因みにクライブ・レビル演ずるメンケン博士は、自分の名前をとって鼻高々にメンケンオペレーションなどと呼んでいます)を施されてしまいますが、「カッコーの巣の上で」のマクマーフィとは違い、何と!手術をしたにも関わらず全く手術の効果が現れず、目を覚ましたサムソンは手当たり次第に医師どもをなぎ倒し、一方のメンケン博士はというと、「I don't understand」などと呟いて途方にくれています。ここでは、明らかにロボトミー手術が徹底的に茶化されているのであり、前述の通り、茶化されている対象が対象だけに奇怪さが余計に際立つのです。そもそも、「ロボトミー」などという、語感からして恐ろしくエグそうな素材が、エンターテインメントたる映画の中で取り上げられていること自体が極めて奇怪であるとすらいえ、実際に、「素晴らしき男」を見ていると、シュールであるとすら言えそうな珍妙さを最初から最後まで感じ続けざるを得ないのです。正直にいえば、現代のオーディエンスがこの作品を見ても、少なくとも内容的には、全く面白くないどころか、「こんなケッタイな映画などアリか?」とすら思われることは必至でしょう。しかしながら、個人的な印象としては、カルト的な作品として捉えるならば、これ程興味深い作品はあまりないとも考えています。いずれにしても、キャストは超一流です。そこいら中で噴火する人間活火山を演じている主演のショーン・コネリーは、ボンドイメージを払拭し、ここでは極めて新鮮です。ジョアン・ウッドワードは、旦那に勝るとも劣らぬ激烈な性格を持つブロンドのワイフを演じており、2年後の「レーチェル・レーチェル」(1968)でオールドミスを演じていたのと比べると大きな違いがあります。ジーン・セバーグは、どうにも50年代のイメージが抜けないので、髪の毛が長いと意外であるように見え、髪の毛を切ったところをどうしても想像してしまいます。パトリック・オニールについては、声が似ていることもあって、昔はよくピーター・ローフォードと間違えていました。クライブ・レビルは相変わらずで、ケッタイなキャラクターをケッタイに演じて、それがまた素晴らしい。彼には、どうにも年齢不詳の雰囲気がありますが、その点では精神科医を演じているコリン・デューハーストも同様です。


2009/03/17 by Hiroshi Iruma
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