デイ・アフター・トウモロー ★☆☆
(The Day After Tomorrow)

2004 US
監督:ローランド・エメリッヒ
出演:デニス・クエイド、ジェイク・ギレンホール、イアン・ホルム、エミー・ロッサム



<一口プロット解説>
地球温暖化により南極の氷が融け始めそれによって海流の循環がシャットダウンされ氷河期がやってくる。
<入間洋のコメント>
 この映画の宣伝文句の1つとして、主演俳優や関連スタッフ達が、自分達の乗っている車や自分達の使っている各種機材装置が二酸化炭素や有害物質を排出しているという事実にふと気が付いて環境保護運動に対して何がしかの献金を行ったとか何とかいったものがありました。まあ或る意味で一種の宣伝行為或いは売名行為ということでしょうが、まあそうは言っても環境保護に対する何らかの資金が醵出されたという意味では、動機には疑問があってもそれなりの意味はないわけではないということになるでしょうか。そのような宣伝がまことしやかになされたこの映画のポイントは、二酸化炭素の排出が齎す地球温暖化効果によって氷河期がやってくるという地球環境に関するものでした。そう聞くと「へ?地球温暖化が氷河期をもたらす?」と思われるかもしれませんが、この作品を見た人で注意深い人はデニス・クエイド演ずる主人公の気候学者ジャック・ホールがその理由を説明するシーンがありそれに気が付いたはずです。この作品を見ていない、或いは見たけれどもその説明は忘れてしまったという人の為に、ここでジャックの理論を簡単に説明しましょう。ポイントは、北半球(この映画で言えばアメリカの東海岸)の気候が比較的温暖である理由は、赤道上から北上してくる暖流によって赤道付近の熱が北半球に伝播されるからであるということにあります。実を言えば世界の海洋には、大海洋コンベヤーと呼ばれる大きな海流パターンがあることが知られていて、冒頭のシーンでポールが聴衆に自身の理論を説明する際に背後の電光掲示板に世界の海流の流れのパターンを示したチャートが映し出されるのを見ることができますが、まさにこれが世界の気候変動の鍵を握っている海流大循環なのですね。この大海洋コンベヤーというのは、実はジャック・ホールという映画の主人公が編み出した架空の理論ではなく、現実世界でも科学的に認知されているものです。一方の流れは、北大西洋で冷たい水が深層に沈み込んで南方に移動し(水は冷たい方が重く深層に沈みます)インド洋等を通って太平洋方向へ流入します。これに対して、赤道付近の表層にある暖かい水は逆に北上し、北半球に流入し北大西洋北方海域で熱を放出します。このような流れが生ずる理由は塩分濃度が異なるからということのようですが、この2つの潮流が大きな循環をなし、それが北半球に温暖な気候を齎していることになるわけです。ところがジャック説によると(つまりここからはフィクションです)、地球温暖化による気温の上昇が南極の氷を溶かすと、南極付近で塩分濃度が劇的に変化する結果(確か南極の氷には塩分が含まれていなかったのではなかったでしょうか?)この大海洋コンベヤーがシャットダウンしてしまい、従って北半球に赤道付近の暖かい海水が北半球に流入しなくなるので氷河期がやってくる次第になるわけです。

 これがデニス・クエイド演ずる気候学者ジャック・ホールの説ですが、しかしまあさすがに南極の氷が溶けた数日後に大海洋コンベヤーがいきなりシャットダウンして、あっという間にロサンジェルスには竜巻がボコボコ発生して、ニューヨークは氷の殿堂と化してしまうというのは映画的な誇張に過ぎないことは敢えて言うまでもないでしょう。しかし実はこのような環境破壊による気候の急変というテーマは、映画中ではほとんど無茶苦茶な仕方で描写されていたとしても、現在の気候学者達を悩ませている大きな問題の1つなのですね。それを知ったのは、ジョン・D・コックスという人の書いた「異常気候の正体」(河出書房新社)という本を読んだからであり(先程の大海洋コンベヤーという用語はこの本の133頁の図から拝借しました)、因みにこの本の冒頭部分にチラとこの映画に関する言及もあります。この本によれば、気鋭の気候学者達がグリーンランドの氷層から苦心惨憺して採取したサンプルから過去何万年にも渡る気候変動の記録を復元しそこに発見したものは、気候が急激に変動するという事実だったのです。勿論、急激な変動とはこの映画にあるように数日間の内にド派出に発生することを意味するわけではさすがになく、数十年程度の単位での変化を指すわけですが、しかし地球の地質学的年齢から言えば、数十年という単位は恐ろしく短期間であることに変わりはありません。実はこのような研究が為されるまでは、気候の変化とは徐々に時間を掛けて連続的に発生するものであるものと考えられていました。よく言われているように人間の思考様式は飛躍を嫌う傾向があって、物事が急激に変化するという概念をなるべく排除しようとする傾向があります。それが故に、進化論などでも一所懸命ミッシングリンクを埋めようとするわけです。つまり、何事に関しても変化が起こるとすれば、それは一次方程式で表現されるようなリニアで漸進漸増的に生起すると考えたがる傾向があるということであり、従って急激な気候の変動というアイデアは気候学者を大いに悩ます結果になったわけです。

 さてここで少し寄り道してこの映画のテーマでもある地球温暖化について少しく考えてみましょう。地球温暖化と言うと、二酸化炭素による温室効果が話題になってもう随分と久しくなりました。昔は氷河期がやって来るぞと脅されていたわけですが、最近はサウナになるぞというわけですね。この二酸化炭素による温室効果については諸説あるようで、いやいやそんな問題など実は政治的な言説を越えては存在しないのだという人もいます。たとえば、ベストセラー作家で映画監督でもあるマイケル・クライトンは、近作SFの「恐怖の存在」で二酸化炭素温室効果による地球温暖化の証拠をデッチ上げる政治グループの悪行をネタとしていました。作家の場合は後ですったもんだに巻き込まれてもあれはフィクションであって自分個人の政治的信条の発露などではないと言ってしまえばそれで良いわけで、検討違いなことが書かれていても後で言い逃れができるということもあるのかもしれません(まあそれでも政治的な側面が問題になる題材であれだけラディカルな内容のストーリーを書けば、たとえフィクションの中と言えどもそれが見当違いであったことが後で分かると名声が無傷ではいられないことは間違いなく、環境保護団体による弾劾は避けられないところでありかなり勇気は必要でしょうね)。しかし作家などではなく、れっきとした学者の中にも人為的な二酸化炭素放出による温室効果が原因となる地球温暖化という考え方に極めて懐疑的な人はそこそこいるようで、日本で言えばネット上にもこのテーマに関する有名な論文を掲載されている名城大学の槌田氏などがその代表格でしょう(チラと読んだところ、順序があべこべで二酸化炭素濃度が上昇するから気温が上がるのではなく、気温が上がるから二酸化炭素濃度が上昇するのだということになるようです)。また、アメリカが京都プロトコルからいちぬけしたのも、証拠がないということがその根拠なのでしょう。まあ私めは科学者ではないので、懐疑派の論文を読めば「なるほど、そういうことか」という気がしてきますし、反懐疑派の人が書いた文章を読めばこれまた「なるほど、そういうことか」という気がしてきて、あっちへフラフラこっちへフラフラとして何が本当なのかよく分からなくなり、一体全体事実はどうなっとるのかと言いたくなってきます。

 というような、二酸化炭素濃度ならぬフラストレーション濃度100パーセントの状態で前述した「異常気候の正体」という書物を読んだわけですが、この本を読むとどちらが科学的に正しいかということよりも実は二酸化炭素濃度と地球温暖化に限定された議論自体がむしろ枝葉末節なのではないかということがおぼろげながら理解できて「うむむ!そういう見方もあるか」と思わずガツンと膝を打ってしまいました。要するに、気候の変動とは何らかの要素の漸減漸増的な変化に比例して漸減漸増的に発生するリニア(線形的)な事象ではなく、ある要素がある閾値(threshold)を越えた時点で一挙に急激に発生するノンリニア(非線形的)な事象であるとするならば、人為的な二酸化炭素放出による温室効果が原因となって地球温暖化が発生するかどうかに関して科学的な確とした証拠が得られるまで議論を繰り返している間にも取り返しがつかない状況になってしまっているのではないかということです。何故ならば閾値を越えるまではほとんど変化を見分けることができないからです。アメリカは証拠がないことを理由に京都プロトコルから脱退したのだとすれば、証拠が出始める頃にはもはやそれはイコール手遅れということを意味するかもしれないということです。そして、この本が示すように現代の気候学者は、過去の気候ログから気候の変動は急激に発生することを見出したのですね。

 では次に、気候の変動がリニアではなくノンリニアな事象であるとはどういうことかについて考えてみましょう。たとえばここに地球環境の変動要因として仮に「デイ・アフター・トウモロー」に関連しそうなものとして、A=地球の平均気温、B=大気中の二酸化炭素濃度、C=北大西洋海流の方角/速度、D=北大西洋の塩分濃度、E=南極付近の塩分濃度・・・などがあったと仮定してみましょう。この時、要素A(地球の平均気温)と要素B(大気中の二酸化炭素濃度)だけが独立した関係を持っているとするならば、確かにこの2つの要因にはリニアな関係が成立するのが普通なのかもしれません(その場合ですらリニアにはならないのかもしれませんが)。従って二酸化炭素濃度が倍になれば気温も比例してXX度上昇するなどという単純な関係になり、そうであれば気象変動の予測も比較的簡単になるはずです。ところが、地球環境にはさまざまな変動要因が無数にあり、それらが総体的に複雑な関係を構築することにより微妙な平衡状態(equilibrium)が維持されているならば、話は恐ろしくやっかいになるはずです。何故ならばこのようなケースでは多くの変動要因の中から2つの変動要因のみを取り上げてグラフ化しても、それが相互にリニアな関係になるとは限らず、恐らくは最も単純な場合であっても二次曲線的に一方のパラメータ値がある範囲をとる間は他方のパラメータ値は大きく変化せず、一方のパラメータ値がある閾値を越えた時点で他方のパラメータ値が爆発的に増加するというようなノンリニアな関係になることが十分に予想されるからです。すなわち、全体的に見れば、ある1つの要因がある閾値を越えた時点で、一挙に他の変動要因のパラメータ値が急激に変化して新たな平衡状態を保とうとするような関係にあるのではないかということです。少しうろ覚えですが、システムの平衡状態とは特定のパラメータ値がある程度の範囲で変化しても全体的な1つのシステムとして過不足なく機能できるけれども、一度特定のパラメータ値が閾値を越えてしまうと一挙に全パラメータが変化して新たな平衡状態がもたらされるという特質があったのではないかと覚えています。たとえば要因A=5,要因B=6,要因C=3,要因D=6、要因E=10であるシステムの平衡状態が維持されているとします。この時、要因Bが、3-10くらいの間で変化してもそれは閾値内なので他の要因は影響を受けなかったとします。ところが、要因B=11 になった途端にそれまでのシステム的な平衡状態が崩壊して、新たな平衡状態要因A=10,要因B=11,要因C=8,要因D=12,要因E=18に急激に移行するかもしれないということです。或いは場合によってはこのような比例的な遷移により新たな平衡状態が齎されるという補償はどこにもないので、要因B=11になった途端A=100,B=11,C=100,D=100,E=100という新たな平衡状態に絶対に変化しないという証拠もどこにもないわけです。

 つまりこのようなノンリニアなシステムの中では、要素B(大気中の二酸化炭素濃度)がこれまである程度上昇したにも関わらず環境全体に大きな影響を及ぼすことがなかったとしても、そのことは必ずしも次の1%の濃度上昇で急激な気候変化を起こさないということを保証するわけではないことを意味します。或いは、「デイ・アフター・トウモロー」の例で言えば、要因B(大気中の二酸化炭素濃度)の上昇により要因A(地球の平均気温)もわずかに上昇すると(この時点での要因Aと要因Bの関係はある程度リニアだとします)、それによって南極の氷が融解して要因E(南極付近の塩分濃度)が下がりこれにより要因C(北大西洋海流の方角/速度)が0になり、その結果として要因A(地球の平均気温)が急激に下がる(ここに至ると要因Aと要因Bの関係は全くリニアどころではなくなるわけです)という新たな平衡状態に急激に遷移する様が描かれているわけです。「異常気候の正体」という本が警告しているのはまさにこのような関係により気候は急激に変動し得るということです。ジェームズ・ラブロックが提唱した有名なガイア仮説がありますが、まさにガイア=地球とは無数のパラメータで構成される巨大なシステム的な平衡状態なのであり、ある要素のある程度の誤差はシステム自体が吸収する能力を持っていたとしても、もし他のパラメータとの依存関係を全く無視して、ある特定のパラメータを執拗に変化させていった場合、一体何が発生するかを予測できる人などどこにもいないわけです。

 ところでこの二酸化炭素濃度による地球温暖化の問題に関しては、工場排気や自動車の排気ガスなどが大きなポイントとなるので、政治的問題が絡んでくるが故に余計にややこしくなります。というより、そもそも環境問題はすべからく同時に政治問題であると言えるのかもしれません。そのことは二酸化炭素排出規制条項を持つ京都プロトコルをアメリカがやんぴした事実に如実に現れていると言えるかもしれません。前述した槌田氏などは、生態系の問題と経済問題は1つのシステムとして捉えなければならないという立場を取っているようであり(従って儲けを度外視したリサイクル運動は古紙回収業者を廃業に追い込み却って大きな問題を起こすというような警告をしているわけです)、殊にインターディシプリナリーな統合化が不可欠となりつつある今日では確かにある範囲でその見解は納得でき、殊に欧米の三角貿易がいかに発展途上国の生態環境を荒廃させているかというような論述には「うむむ!なるほど」と思わせる側面がありますが、しかし下手をすると地球の生死が関わる問題に生態的要素とイコールの資格で経済的要素を持ち込むと、地球や人類の存在基盤がすべて崩れ落ちる危険を犯していることになるのではないかという素人考えを払拭することはそう簡単ではないのではないかという気もします。この映画では、政治家たちがなかなか主人公ジャックの言うことに耳を傾けないなどという辺りに政治的なコノテーションが含まれていないとも言えませんが、ただあまりそういう側面が強調されることはありません。1つだけ挙げるとすると、ラストシーンで生き残った副大統領が人類史上初めて「北」の人々が「南」の人々に頼らざるを得ない状況が到来したというようなことを述べますが、それを聞いていると環境問題とはやはり南北間に横たわる経済問題とも必然的に関連していることに気が付くことができます。前述の通り、「北」の人々はこれまで三角貿易やら植民地主義やらで「南」の人々を搾取してきたのであり、それがまたたとえば「南」の人々の換金作物(cash crop)への大幅な依存等を通して生態系の破壊にもつながっているわけです。このような文脈の中では、確かに生態系の問題は経済の問題と不可分ではないことが理解できますね。

 ということで作品自体の内容にはあまり触れませんでしたが、その面では典型的にハリウッドな誇大妄想的作品というイメージは避けられないところです。監督のローランド・エメリッヒはドイツ出身だと思いましたが、バーホーヴェン等とともにどうやらハリウッドへの順応は極めて速かったようです。但し気候の急激な変動というテーマを、まあ恐ろしい誇張を通じてとはいえ取り上げたことにはそれなりの価値があるように思われ、一度は見て少し脅かされた方がいいかもしれませんね。

※いわゆる複雑系システムの予測不能性に起因する問題に対する最も当を得たバランスのとれた見解が、池内了氏の「擬似科学入門」(岩波新書)にありましたので以下に抜粋しておきます。この意見には、個人的にも全く同意できます。(2008/12/11 追記)
「地球が複雑系であるために原因や結果が明確に予測できないとき不可知論に持ち込むのではなく、人間や環境にとっていずれの論拠がプラスになるかマイナスになるかを予想し、危険が予想される場合にはそれが顕在化しないよう予防的な手を打つべきなのである。それが複雑系の未来予測不定性に対する新しい原則で、「予防措置原則」と呼んでいる。たとえその予想が間違っていたとしても、人類にとってマイナス効果を及ぼさない」

2006/10/14 by Hiroshi Iruma
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