宇宙からの脱出 ★☆☆
(Marooned)

1969 US
監督:ジョン・スタージェス
出演:グレゴリー・ペック、リチャード・クレンナ、デビッド・ジャンセン、ジーン・ハックマン



<一口プロット解説>
3人の搭乗員を乗せ地球の周回軌道上に打ち上げられた宇宙船の噴射装置が故障し地球に戻れなくなってしまう。
<入間洋のコメント>
 噴射装置が作動しなくなって地球へ戻れなくなった宇宙船の乗組員達をいかに救出するかというストーリーが展開されるまさに息が詰まるような作品ですが、宇宙が舞台である映画でありながら宇宙開発=パワーポリティクスという図式が前面に出ることが多かった1960年代や1970年代の宇宙開発関連映画と比べるとこの作品にはやや異なった趣があるようにも見えます。冷戦下では或る意味で当然のことのように前提とされていた宇宙開発=パワーポリティクスという図式に関しては「カプリコン・1」(1978)のレビューや「タイトル別に見る戦後30年間の米英映画の変遷」の「宇宙開発という壮大なる擬似イベント《カプリコン・1》」を参照して頂くとして、純粋に宇宙船事故を扱っているかのような印象を与える「宇宙からの脱出」は一見するとそのような当時一般化されていた図式とは無縁であるようにも見えるからです。何しろ何の前触れもなく冒頭いきなりロケットの打ち上げシーンから開始されるのであり、そもそもそこには政治的メッセージが組み込まれ得る余地など全くないように見えます。とはいえどもやはり、この作品にも宇宙開発=パワーポリティクスであるというメッセージが、それ程明確ではない形ではあるにしろ存在しているのですね。これは何もラストシーン近くでロシアの宇宙船が救助にやって来るいまいち意味不明の展開のことを指しているわけではなく、最初は強硬に救助船を打ち上げることに反対していたグレゴリー・ペック演ずる宇宙管制基地の長官が大統領からの電話一本で何故ほとんど無謀とも言える決断をするのかをよくよく考えてみると、その裏には大きなポリティクスが存在することに気が付くことができるからです。勿論人命尊重の考え方が優先されたからであるという言い方は出来ますが、しかしながらただそれだけでもないのですね。そのことは、既存のデータから検討して救助船を打ち上げることの不可能性を主張するペック演ずる宇宙官制基地長官と大統領との以下のような会話からも少なからず窺えます。

大統領:救助隊を送ることは考えたのかね?
(Have you fellas considered rescue?)

長官:はい、勿論それについて議論しました。
(Yes, we've discussed it, of cource.

大統領:君はどう思うのかね。
(What dou you think?

長官:そうですね大統領。ほとんど成功の可能性はありません。
(Well, sir, it's a very, very remote possibility.

大統領:チャールズ、友達として話をしてもよいかね?
(Charles, can I talk to you as a friend?

長官:はい勿論です。
(Well, yes sir, of course.)
大統領:You're right, and for the right reasons. But if we do it your way, 200 million people are going to start raising hell.
君の言うことは正しく、それにはそれなりの正当な理由がある。だがもし君のやり方に固執するならば2億の国民が大騒ぎするだろう。

長官:それはそうですが、大統領。それは私のやり方というわけではなく、考慮しなければならないデータと厳然とした事実が存在するのです。
(Well, Mr. President, it's not my way. There is data and there are certain facts that we have to deal with.

大統領:チャールズ、君のその計算尺思考を捨てて聞きたまえ。この件に関しては、単なるロジック以上のものが存在するのだ。世界の多くの人々が我々と我々の救助活動に注目しているのだ。ルールブックを見て我々が出来ることは何もないと言うだけでは、私にとっても君にとっても或いはまた君の宇宙開発プログラムにとっても悲惨な結果が待っているぞ。従って、我々の持つベストを尽くしてでもことの解決に当たらなければならないのだ。
(Charles, just put away your slide rule for a minute and listen. There's more going on here than logic. The large part of the world is watching us and what we do about rescuing these men. Just to say that we looked in the book and there's nothing we can do is going to be disaster for me, for you, and for your program. So we are going to have to take a crack at it with the very best we've got.


ここでの大統領の論理はまさに「カプリコン・1」のそれでもあり、さすがにメディア批判や権力批判を描くことがその目的ではない1960年代の「宇宙からの脱出」においては「カプリコン・1」でのようにメディアの擬似イベントを利用してまでも失敗或いは問題が糊塗される様が描かれているわけではないとしても、ここでの大統領の論理を延長していけばやがて「カプリコン・1」の論理に行き着くことは容易に想像できるのではないでしょうか。データと客観的な事実を信頼しそれに拘るペックに対して、明らかに大統領にとっては宇宙開発に関する問題は単に客観的な科学の問題足りえないということです。またかと言ってそれは人道上の問題でもないのですね。殊に最後の大統領の「私にとっても君にとっても、或いはまた君の宇宙開発プログラムにとっても悲惨な結果が待っているぞ。」というセリフは象徴的だと言えるでしょう。何故ならば、彼は一言も生死の境目をさ迷っている当事者たる3人の宇宙飛行士やその家族達には触れていないからです。すなわち大統領にとっては、宇宙飛行士達が悲惨な最後を遂げるか否かは主要な問題ではなく、自分の政治生命と宇宙開発の命運の方がより重要であるということが彼の言葉によって示唆されていることになります。彼にとっては、眼前の問題を真に解決することよりも、事件が外からどのように見えるかが大きな問題なのです。つまり、3人の宇宙飛行士の命よりは、2億人の目なのです。何故そのような発想に至るかと言うと、マスメディアが発達し始めた1960年代においては、政治という領域においてもイメージの果たす役割が肥大化しつつあり、そこに国家の威信すらかけられている宇宙開発に対して持つであろう人々のイメージは、政治の世界でも大きな意味を持ち始めていたからです。政治におけるイメージの重要性に関しては、「最後の勝利者」(1964)という大統領(予備)選挙を題材とした作品に明瞭に見ることが出来ますが、それに関する詳細はそちらのレビューを参照して下さい。また、政治とイメージの関連性が近代になっていかに重要な要素になったかについては、「最後の勝利者」で取り上げたマスメディア論の御大マーシャル・マクルーハンは別としても、ケネス・E・ボールディングという政治経済学者の書いたその名もずばり「The Image(邦訳「ザ・イメージ」(誠信書房))」という著書や、或いは国民という概念やナショナリズムの発生を植民地主義的な文脈におけるイメージと関連付けて捉えたベネディクト・アンダーソンの有名な「Imagened Communities(邦訳「想像の共同体」(リブロポート))」を読めば一目瞭然でしょう。特に後者は、世界中の大学でナショナリズムや植民地主義を扱った講座の参考書のような存在になっているようなので是非御一読を薦めます。とまた少し脱線し始めたので話を元に戻すと、一見するとメディア批判や権力批判とは無縁であるように見えるこの映画においても、いやまさにそうであるが故に、余計に上記の大統領とペックの会話は興味深いように思われます。その意味で言えば、勇敢にも嵐の中を救助船に乗って飛び立つデビッド・ジャンセン演ずる宇宙飛行士も、単にヒューマニズムに満ち溢れた英雄であるというだけではなく、より政治的に神話化された英雄ででもあるかのごとくに見えてしまうのは私めだけでしょうか。すなわち、彼が発散させるイメージはアメリカという国がアメリカという国に対して付与したいと考えているような自己言及的なイメージと大きく重ね合わされているのではないかということです。そう考えてみると、この「宇宙からの脱出」という作品も極めてポリティカルな作品であることが分かるのではないでしょうか。

 話は全く変わりますが、この作品は1950年代後半から1960年代にかけて「OK牧場の決斗」(1957)、「荒野の七人」(1960)、「大脱走」(1963)といった娯楽映画の大ヒットを立て続けに飛ばしていたジョン・スタージェスが監督しています。実はこの「宇宙からの脱出」を見ていてそのスタージェスの作品に関してハタと気が付いたことがあります。それは、コメディ的な色調の濃い「ビッグトレイル」(1965)を除くと、彼の60年代の主要な作品の多くは、狭い空間に閉じ込められ、最後にそこから解放される展開になることが多々あるということです。「荒野の七人」は確かに文字通り物理的に狭い空間に閉じ込められるというわけではありませんが、それでもイーライ・ウォラック率いる盗賊達に略奪される村人達は心理的に小さな村に閉じ込められているのであり、7人の雇われガンマン達がその彼らを最後に盗賊達から解放するわけです。「大脱走」ではドイツ軍の捕虜収容所に閉じ込められていた連合軍の戦争捕虜達がトンネルという狭い空間を通って脱走する展開になります。「北極の基地 潜航大作戦」(1968)では狭苦しい潜水艦が舞台となり、60年代を締めくくる「宇宙からの脱出」では、まさに宇宙に閉じ込められた宇宙飛行士達をいかに解放するかというストーリーが展開されます。このように考えてみると、ジョン・スタージェスという監督さんは一見するとスケールの大きいエンターテイニングな娯楽作品を監督していたようなイメージがありますが、その実は相当せせこましい舞台が選択されることも多かったことに気が付くことができます。その点でこの「宇宙からの脱出」は徹底しており、狭い宇宙船内の酸素が欠乏して3人の宇宙飛行士達が金魚鉢から抛り出された金魚ちゃんのようにアップアップし始めると、見ているこちらまで金魚鉢から抛り出された金魚ちゃんのようにアップアップしてくるような気にさせられます。考えてみれば、娯楽性の高いジョン・スタージェスの作品においてはアクションも重要な要素になるはずですが、このような狭い空間が舞台として選択されているとアクション性は削減されざるを得なくなります。勿論、「荒野の七人」や「大脱走」の特に後半部分ではアクション的な要素も実際それなりにうまく取り込まれておりそれがスタージェス=アクション性の強い娯楽エンターテインメント映画の監督さんというイメージを醸出するのに一役買っているわけでもありますが、60年代後半の「北極の基地 潜航大作戦」や「宇宙からの脱出」では文字通り舞台となるスペースが物理的に極端に制限されている為、派手なアクションシーンによってオーディエンスの気を引こうとする今日的な集客戦略を適用する可能性は最初から除外されています。実際「宇宙からの脱出」は極めて動きが少ない映画であり、ほとんどのシーンは狭苦しい宇宙船と宇宙船ほどではないにしても閉じ込められた空間であることには変わりがない地上の宇宙官制基地が舞台になっています。この作品はそのような設定が1つのウリであると言っても良いような側面があり、そのような舞台を背景として息詰まるドラマが展開され、前述の通りラストは文字通りオーディエンスまで息が詰まる展開となります。この点が実はこの作品の評価の分かれ目になるところで、個人的にはこの閉所恐怖症に陥りそうな作品は傑作であるとはとても言えないにせよそれ程悪い作品であるとは思っていませんが、あちらでのプロの批評家達の評価は際めて低いようです。たとえばミック・マーティンとマーシャ・ポーターの「Video & DVD Guide」では見事に七面鳥印がつけられていますし(すなわち最低ということです)、またレオナード・マルティン氏は以下のように述べています。

◎退屈と責め苦が交互する作品である。宇宙空間でのクライマックスシーンは、エキサイティングであるどころか苦悶である。
(Alternately boring and excruciating; climactic scenes in space produce agony, not excitement.)


退屈であるというのは別にしても、或る意味で彼の述べていることは、この作品に対する批判にも成り得れば評価にも成り得ると言えるのではないでしょうか。そもそも苦境に陥った宇宙飛行士達が主人公なのであり、そのような主人公達によって繰り広げられるストーリーがアクション映画的にエキサイティングであるべきだと考えるとするならば、それは全くの見当違いというものであり、いかに彼らの苦悶を表現できるかが大きなポイントになるはずです。その点において、この作品は過度に成功している側面があります。何しろラストシーンは、レオナード・マルティン氏が述べているように見ているこちらまで責め苦を受けているような気になってくるからです。「Variety Movie Guide」では、

◎この作品は見事に仕上げられた緊迫感溢れる科学技術サスペンス作品である。
(The film is superbly crafted, taut and a technological cliffhanger.)

と最初は誉めながらも、

◎この作品の最大の欠陥は、安っぽく古めかしいいかにもハリウッド的なクライマックスのレスキューシーンであり、ドラマ的にも論理的にも技術的にも全くオーディエンスを納得させるものではない。
(The production's major flaw is a hokey old fashioned Hollywood Renfrew-to-the-rescue climax that is dramatically, logically and technologically unconvincing.)

と批判しています。確かにこの批判は極めて正当なものであり、個人的にも全くその通りだと思います。しかし重要なことが忘れられてはなりません。それは何故そのような安っぽいレスキューシーンが存在するのかに関してです。すなわち、このレビューの前半部で述べた「イメージ」の重要性についてであり、その「イメージ」の背景にはポリティカルなステートメントが潜んでいるということについて忘れられてはならないということです。再度強調しておくと、宇宙開発という壮大なイベントは、これまで常にポリティカルなメッセージと無縁では有り得なかったのであり、宇宙開発がテーマとなる映画においても、批判という形式をとるにしろ神話という形式をとるにしろ、ポリティカルなメッセージが多かれ少なかれ出現することが稀ではなかったのであり、この作品でも前述したような会話や英雄的行為を実行するデビッド・ジャンセン演ずるキャラクターを通してそのような傾向が透けて見えるということです。最後に付け加えておくと、この作品はこの年の特殊効果アカデミー賞を受賞していますが、さすがに現在の目から見ると視覚効果に関してはいかにもプリミティブに見えてしまうのはある程度仕方がないことかもしれません。それから3人の宇宙飛行士すなわちリチャード・クレンナ、ジェームズ・フランシスカス、ジーン・ハックマンの奥さん役としてそれぞれリー・グラント、ナンシー・コバック、マリエット・ハートレイが出演しており、女優はおろか女性すらほとんど全く出演していない前作の「北極の基地 潜航大作戦」は極端であるとしても、前述した「ビッグトレイル」のリー・レミック(このたがが外れたような西部劇は1920年代の禁酒法にも繋がる19世紀のテンペランス(禁酒)運動が取り上げられている点でもユニークですが、広島大学の岡本勝氏によればこのテンペランス運動においては女性も重要な役割を果たしていて有力なリーダーの中には女性もいたそうであり、従ってリー・レミック演ずるテンペランス運動の女指導者及び彼女が率いる婦人運動家達の存在は歴史的にも全くの虚構ではなかったということです)を除けば女優さんが活躍することが少なかった1960年代のスタージェスの作品にあってはかなり珍しいと言えるでしょう。ただそれでも、ほとんどお飾り的であるのはいかにも野郎映画好みのスタージェスらしいと言えるかもしれませんね。

2007/05/26 by Hiroshi Iruma
ホーム:http://www.asahi-net.or.jp/~hj7h-tkhs/jap_actress.htm
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