ビッグトレイル ★★☆
(The Hallelujar Trail)

1965 US
監督:ジョン・スタージェス
出演:バート・ランカスター、りー・レミック、ブライアン・キース、ジム・ハットン


<一口プロット解説>
アルコールが枯渇したダラスの町にウイスキーを届ける為に、ウイスキーワゴンが騎兵隊に護衛されて出発するが・・・。

<入間洋のコメント>
 西部劇の凋落などと述べると西部劇ファンに張り倒されそうだが、1960年代を通じて確実に西部劇の人気は下降する。この傾向は、ミュージカルにも同様に当て嵌まり、1970年代に入ると、これら2つのジャンルに属する作品はごく稀にしか製作されなくなる。個人的な記憶を振り返ってみても、子供の頃はテレビで西部劇が放映されるのを心待ちにしていたことを覚えているが、最近ではほとんど西部劇を見る機会はなく、見たという記憶もほとんどない。では、何故このような状況になってしまったのだろうか。その大きな理由は、本書のテーマとも関係するが、1950年代から1970年代にかけての社会文化情勢の変化、及びそれに伴うオーディエンスの嗜好の変化が、製作される映画のジャンルにも大きな影響を与えた為であることには間違いがなかろう。しかし、それ以外にもいくつかの面白い説が考えられ、たとえば思い付く範囲では次のような3つの説が挙げられる。

 まず、第1の説は、題して「生き証人消滅説」であり、少し変わったこの説によれば、西部開拓史時代は遠い過去の出来事になりつつあるという点が強調される。たとえば、「駅馬車」(1939)が製作された1930年代は、西部開拓史時代の末期から数えて半世紀程しか隔たってはいない。ということは、そのような時代に実際に生きていた人々がまだ大勢生存していたことになる。ところが、1970年代を過ぎるとこのような生きた記憶は完全に失われることになり、西部開拓史時代も単に過去の歴史の1ページにすぎなくなる。従って、右を見ても左を見ても西部劇ばかりという状況があり得ないのは、右を見ても左を見てもローマ史劇ばかりという状況があり得ないのと同等だということになる。第2の説は「アメリカ自信喪失説」であり、それが良いか悪いかという倫理的判断は別として開拓史的なダイナミズムには不可欠な燃料であった未開の地を征服するという情熱の1つの表現形態でもあった騎兵隊(白人)=善=勝者、インディアン=悪=敗者という典型的な西部劇の図式を維持する自信を、ベトナム戦争の敗北等を経てアメリカ自身が喪失してしまったという点が強調される。第3の説は「供給過剰による需要減退説」であり、要するにあまりにもたくさんの西部劇が製作された為飽和状態となって飽きられてしまったということが論拠となる。西部劇は設定がどうしても似通ってしまうので扱うテーマが限られる上、視覚的イメージも「西部」という1つしかなく、可能なバリエーションが少ないにも関わらずそれが市場に溢れれば、需要が減退するはずだという論理にはかなり科学的な根拠があるように思われる。但し、この説の弱点は、供給がストップして30年経った今でも、西部劇の復活が望まれる声はそれ程聞かれないことであり、実際に最近ではもの珍しさ以外の理由でマジに西部劇が製作されることはほとんどない。

 そのような斜陽化傾向の中にあって過渡的な1960年代や1970年代の前半には、西部が舞台であってもやや捻りを効かせ、一昔前の分類法からすると西部劇とはやや異なるような作品が現れるようになった。この「ビッグトレイル」もその中の一本であると言えよう。「ビッグトレイル」は、コメディ西部劇とも言うべき西部劇のパロディであり、軍人や官僚を演ずる機会が多くなった1960年以後のバート・ランカスターにしては珍しいコメディパフォーマンスを拝むことが出来る作品でもある。西部劇というジャンルの素晴らしさの1つとして雄大な西部の荒野が舞台であるということが挙げられるが、この「ビッグトレイル」も見事にその要件を充たす作品であり、開放的な空間描写が素晴らしい作品である。雄大であるという感覚は、抽象的な画面からは得られない感覚であり、たとえば宇宙を舞台にした映画が単に宇宙空間は広大だからという理由によって雄大な感覚を持つ映画になるわけではない。そもそも人間と環境のインタラクションが具体的に成立して初めて雄大か否かという判断が意味を持つのであり、人間の生活とは全くかけ離れた抽象化された概念である宇宙が舞台である映画は、単に主人公達が宇宙船や宇宙ステーションの中に閉じ込められているという理由によってのみではなく、すべからく狭い空間に閉じ込められたような感覚で充たされているという方がむしろ正しい。従って個人的には宇宙もの映画はほとんど見ないと言ってもよく、スタンリー・キューブリックの有名な「2001年宇宙の旅」(1968)ですら一度しか見たことがない。この映画に関しては、1960年代の映画であるにも関わらず書物やインターネットサイトで侃侃諤諤と議論されることの多いタイトルであるが、一度見た限りの印象では極めて抽象度の高い映画であり、視覚優先的な印象が極めて強い。嗅覚などと異なり能動的に入力情報を取捨選択する視覚が、いかに抽象的な機能と高度に関連した感覚器官であるかは敢えて指摘するまでもないだろう。因みに、キューブリックの持つ視覚優先性は彼の最後の作品である「アイズ・ワイド・シャット」(1998)に至るまで連綿と続くことを指摘しておこう。西部劇の良さの1つは、抽象性が前面に突出するこれらの映画とは全く異なり具体的であることであり、そこから醸し出されるバックグラウンドの風景の雄大さは、具体性を帯びた現実感覚に裏打ちされていた。また、「西部開拓史」(1962)のように開拓がテーマになった西部劇に関して言えば、開拓という未来に向けた遠心的なフロンティア活動がテーマであることもあり、力動的でポジティブな雰囲気に映画全体が充たされていたことも1つの特徴である。これに対して宇宙は人知未踏のフロンティアであるにも関わらず宇宙を舞台とした映画がポジティブな力動感に溢れているということがほとんどないのは、宇宙空間という舞台が現実感覚で裏打ちされたものではないからだということは敢えて指摘するまでもない。「ビッグトレイル」の爽快さもそのような現実感覚に裏打ちされたポジティブな力動感に溢れた西部劇の舞台設定に負うところが大きい。

 現実感覚という点から言えば、ジョン・スタージェスが監督であることも大きなプラスである。スタージェスと言えばこれまでにも「荒野の七人」(1960)や「大脱走」(1963)のような具体的且つエンターテインメント性の極めて高い映画を監督しているが、「ビッグトレイル」もエンターテインメント性が抜群であり、単純に見ていて楽しい作品に仕上がっている。酒が枯渇したデンバーの町に、バート・ランカスター演ずる隊長率いる騎兵隊に護衛されたワゴン部隊が、酒樽を送り届けるだけというストーリーに3時間近く費やされるわけなので、良く言えばスケールが大きいということになるが、実を言えばこの映画の後半は、あってないが如くのストーリーが更にルーズで大雑把になるような印象がある。しかしながら、この映画はそのような欠点がほとんど気にならないような豪放磊落さがあり、むしろわざとストーリーがルーズに展開されているのではないかという印象すら受ける。また、「荒野の七人」や「大脱走」で映画音楽クラシックとも言える音楽を作曲したエルマー・バーンスタインの楽しい音楽がこの作品のエンターテインメント性を倍加させているのが嬉しい。一家揃って見ることが出来る楽しい映画であるが、「思い出よ、今晩は!」(1969)という小生の大好きなコメディ映画の中で、シェリー・ウインタースとフィル・シルバース演ずる夫婦とその子供達が、イタリアのホテルでイタリア語に吹き替えられた「ビッグトレイル」を見ているシーンがあるが、それがこの映画の全てを物語っている。

※当レビューは、「ITエンジニアの目で見た映画文化史」として一旦書籍化された内容により再更新した為、他の多くのレビューとは異なり「だ、である」調で書かれています。

1999/04/10 by 雷小僧
(2008/10/17 revised by Hiroshi Iruma)
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