カラマーゾフの兄弟 ★★☆
(The Brothers Karamazov)

1958 US
監督:リチャード・ブルックス
出演:ユル・ブリナー、マリア・シェル、リー・J・コッブ、リチャード・ベースハート


<一口プロット解説>
カラマーゾフ家の放蕩パパがある日殺害されその嫌疑が長男のドミトリにかけられる。
<入間洋のコメント>
 実を言えば私めは、本が大大大好き人間であるとはいえ人文科学系の本を読むことが多く、いわゆる文学オタクではないので小説などというジャンルに属する作品を読む機会はそれ程ありませんでした(というよりも意図的に避けていたかもしれません)。殊に海外の作品に関しては、人文科学系の著作の中で取り上げられることも極めて多いドストエフスキーですら一度も読んだことがないというていたらくでした。しかしながら、3年程前からやはりそれではまずいかなと思うようになり、いわゆる「小説」と呼ばれるジャンルに属する作品も読み始めました。そのような不退転の決意?の下での昨年の大目標の1つが、ドストエフスキーのメジャータイトルを制覇することで、今年の始めまでかかりましたが、とりあえず「白痴」、「悪霊」、「罪と罰」、「カラマーゾフの兄弟」という4つの長編小説を読み終えました。小説の場合、詩ほどではないとしてもまあ本来原文で読むことが望ましいのかもしれませんが、さすがに今からロシア語を勉強する気にもならないので、勿論日本語訳或いは英語訳で読んでいます。どうせ翻訳ならば日本語訳で読めばよいではないかと思われるかもしれませんが、海外の長編小説の日本語訳文庫版は分冊で販売されていることが普通であり一箇所の書店で揃わないことが多く、また全部買うと結局ペンギンの英訳版などより遥かに高くなるケースが多いのですね。これは「ドン・キホーテ」を読んだ時に気が付いたことで、その点においては分冊になっておらず2000円以内で購入できるペンギン版の方が遥かにチープに済ますことができるわけです。それに天下の岩波書店には失礼ながら、いかにも旧カナ使いのままではないかと疑いたくなるような風体の古色蒼然とした岩波文庫などは、本の装丁は大して気にしない私めでも(因みに最近の講談社新書の貧相で芸のない装丁を批判する見解をよく見かけますが、それで安く済むならあれでも十分と私めは思っています)とても読む気にならないのですね。さてまあそれはどうでもよいとして、ドストエフスキーの小説を読んでいて思ったことは、小学生並みの表現ですが、「うむむ!面白い」ということです。何が面白いかというと、登場人物が揃いも揃ってまともではないのですね。ほとんど狂気すれすれの人物も含め、様々な奇怪なパーソナリティを有する登場人物達の織り成す会話的インタラクションのすさまじさは、これはもしかすると映画の題材としても極めて興味深いものがあるのではないかと思われるほどです。ドストエフスキーの登場人物は、たとえばそれが「白痴」のレーベージェフのようなどこにでもいそうなおべっかつかいの卑屈な役人であっても、その卑屈さが徹底化されている為、後光すら射してくるというようなそのようなただならぬ凄みがあります。そもそも、ドストエフスキーという人物自身が、癲癇持ちであったという事実は別としても、かなり病的な傾向を有していたようであり、「永遠のドストエフスキー」(中公新書)の中で中村健之介氏が指摘しているように彼の作品には病的或いは妄想的というようなタームで解析できるのではないかと思われるような側面が多々あります。ややうろ覚えですが、たとえば「白痴」であったか毒虫に追いかけられる夢の話がありましたが、このH・P・ラブクラフトも裸足で逃げそうなエピソードなどはまともな神経をした小説家が書いたとはとても思えず、一種の分裂病患者の妄想のような趣すらあります。まあ、小説家に限らず、芸術家にはそのような病的或いはメランコリックな気質を持った人が多かったのはよく知られているところで、たとえば最近読んだウイトカウアー夫妻の「Born Under Saturn」(邦訳「土星のもとに生まれて」)などは、そのようなケーススタディに満ち溢れています。

 さて、前節で「もしかすると映画の題材としても極めて興味深いものがあるのではないか」と書きましたが、実を言えば一見するとドストエフスキーの長大な小説を娯楽エンターテイメントとして映画化することには、無理があるのではないかと考える方が自然であるように思われ、事実エンターテインメント性が重視される英語圏の作品に限って言えば(但し1950年代以前の作品に関しては自信がありません)、「カラマーゾフの兄弟」くらいしか映画化は存在しないのではないでしょうか(さすがに商業主義的な側面が必ずしも過度に強調されることのないロシア映画やフランス映画にはドストエフスキーの映画化が少なからず存在しますが)。しかし個人的に読んだ感想から言えば、ドストエフスキーの4つのメジャー作品の中でも最も長大な「カラマーゾフの兄弟」は(しかも2部構成になる予定がドストエフスキーの死によって1部のみに終わった未完の作品なのですね)、むしろ映画化しやすいのではないかと思わせる要素が少なからずあります。というのも、先ほど述べた半端でない程まともではない登場人物達の興味深いインタラクションという側面は除いたとしても、そもそも「カラマーゾフの兄弟」はその長大さに比べて、扱われている時間のスパンは極めて短いという点を指摘することが出来ます。恐らく、トータルしても実時間にして数日分の出来事が扱われているに過ぎないはずです。言ってみれば、ジョイスの長大な「ユリシーズ」がたった一日の出来事を描いた作品であったのと同じように、「カラマーゾフの兄弟」も確かに各章間にいくばくかの時間の隔たりがあったとしてもストーリー上の実質的な経過時間は極めて短いはずです。従って、限られた時間の枠組みが厳然と存在する映画というメディアでそれを実現しようとすると多くの困難にぶつからざるを得ないエピック的なハンドリングを考慮する必要性は、「カラマーゾフの兄弟」の場合にはほとんどないことになります(映画の中でのエピック的な時間ハンドリングの難しさについては、「ドクトル・ジバゴ」(1965)のレビュー又は「タイトル別に見る戦後30年間の米英映画の変遷」の「時節の変わり目に観たくなる究極のエピックムービー 《ドクトル・ジバゴ》」を参照して下さい)。また、たまさか言及されることがあるように、「カラマーゾフの兄弟」にはカラマーゾフ・パパを殺したのはいったい誰かというようなやや推理小説的とも言えなくはない側面があること、及び終盤に法廷劇的な展開があることゆえに映画的趣向にもマッチした要素が含まれていることも指摘されねばならないでしょう。このような点を考慮してみると、ドストエフスキーの作品の中では最も量的には膨大である「カラマーゾフの兄弟」が、題材的にはエンターテインメント性が重視される商業映画に最も適しているように思われるような印象があります。むしろ「白痴」のような特異性の強い小説の方が、映画化は困難であるように思われます。

 このようなわけで、商業主義的エンターテインメント性が重視される傾向の強いアメリカ映画の中では、ドストエフスキーの長大な作品群の中でも「カラマーゾフの兄弟」のみが映画化の対象になっているということは、むしろ当然なのかもしれません。しかしこの「カラマーゾフの兄弟」ですら1950年代の作品であり、もし現在ドストエフスキーのいずれかの長編小説が映画化されたとしても、映画館がガキンチョのレジャーランドと化している今日の日本の脳みそチョコレート文化の中にあっては見に行く人などほとんど存在しないのではないでしょうか。いやいや現在でもたとえばジェーン・オースティンやE・M・フォスターの映画化は日本でも上映されているぞという意見もあるかもしれません。しかし注意しなければならないのは、イギリスの文学作品とドストエフスキーの間には大きな相違があります。勿論、イギリスの文学作品はマーチャント−アイボリーのようなイギリスのプロダクションによって映画化されやすいということもありますが、福田和也氏であったかが指摘しているようにイギリスの文学作品はたとえば遺産相続であるとか荘園であるとかいうような外在的な制度を中心としてストーリーが展開されていることが多く、純粋に内面的な側面に大きな比重がかかるドストエフスキーの作品群よりは遥かに分かりやすい上、同じ島国である日本の伝統にもマッチしていると言えるような印象すらあります。でもまあ、子供以上に大人が「ハリー・ポッター」シリーズに狂喜乱舞する今日このごろではそれもあまり大した根拠にはならないでしょうね。少し話しが脇道にそれたので元に戻すと、1950年代に製作された「カラマーゾフの兄弟」は、やはり今日的な視点から見れば全体的に古びた印象があることは間違いのないところで、これはある意味で仕方がないところと言えるでしょう。とはいえ、それはこの作品の問題であるというよりも見る側の見方の問題であり、ここで問われねばならないことは、むしろこのリチャード・ブルックスの「カラマーゾフの兄弟」は、有名文学作品の映画化として成功例と言えるかどうかということです。暫く前、「地獄の黙示録」(1979)のレビューの中で、文学における受容理論で有名なウォルフガング・イーザーという学者が、原作を読んだ後でその映画化を見るとがっかりすることが多い理由は、原作を読んだ時に想像していたイメージと映画としてスクリーンに映し出される映像が違うということが真の原因なのではなく、原作を読んだ時に機能していた想像力の能動的な働きが映画ではイメージが外的に与えられることにより抑制されてしまうからだということを述べていることを書きました。「カラマーゾフの兄弟」の場合には、少なくとも個人的にはそのような印象は受けませんでした。勿論、その理由の1つとして先に映画化の方を見ていたということもあるかもしれませんが、その点を考慮に入れても全体的には「カラマーゾフの兄弟」は有名文学作品の映画化としては悪い出来ではないなという印象があります。イメージ的にもそれほど原作を読んでいる時とかけ離れているような印象は受けなかったし、ストーリー展開もラストシーン以外はほぼ原作通りと言って良いでしょう。但しストーリーが原作通りであれば原作と映画化のイメージ的な乖離が避けられるかというとそんなことはなく、原作に近似したプロットを持てば持つほど原作のダイジェストではないかという印象を受け、むしろ逆にイメージの貧困化ばかりが目についてがっかりすることが多いのが普通なのですね。けれども、この作品の場合には単なる原作のダイジェストであるような印象は受けず、ドストエフスキーの作品同様内面的な葛藤を抱く複数の主人公達の強烈なインタラクションを描いたテネシー・ウイリアムズ作品「熱いトタン屋根の猫」(1958)を同年に監督したリチャード・ブルックスの手腕もそれに少なからず関与しているのかもしれません。しかしいかにもハリウッド的な安易なラストシーンは頂けません。映画版では、父親(リー・J・コッブ)殺しの罪状でシベリア行きを宣告されたカラマーゾフ家の長男ドミトリ(ユル・ブリナー)は、密かに彼の愛人グルシェンカ(マリア・シェル)と逃亡を計る一種のハッピーエンドで終わります。しかし原作はまったくそうではなく、確かに逃亡計画の言及はありますが、ラストはカラマーゾフ家とはほとんど縁がないキャプテン(このキャプテンを息子の目の前でドミトリがかつてこけにしたのですね)の息子の葬式でジ・エンドになります。勿論ドミトリは父親殺しに関しては冤罪を着せられたわけですが、しかし彼自身の存在は様々な側面においてむしろ罪深き存在なのであり、キリスト教的な罪とその贖いというテーマがしばしば表面上に現れるドストエフスキー作品という観点から言えば(「罪と罰」はその最も典型的な例でしょう)、この映画化のラストシーンは全くドストエフスキー的ではなく、というよりもほとんど昼メロソープオペラの世界ですね。言い方を換えれば、このような点に商業主義的娯楽映画としての限界が如実に現れているということにもなるでしょう。その意味では、カラマーゾフ家の下働きのスメルジャコフ(アルバート・サルミ)が次男のイバン(リチャード・ベースハート)にカラマーゾフ・パパ殺しを打ち明けるシーンも、原作の持つあいまいさ(この印象は一度読んだ限りでの私めの印象なので間違っているかもしれません)に比べると、犯人自身による告白であるとはいえいかにも推理小説的な暴露に近いドラマティックな脚色により構成されていて、そのような点でも映画版ではその根底においてエンターテインメント性が強調されていることが分かります。

 それからこの映画化が原作のイメージとそれほどかけ離れたイメージを与えない理由の1つとして、配役が悪くはないことが挙げられます。ドミトリ演ずるユル・ブリナーはややブリナー自身に彼独自の明快さがあり過ぎる為、かなり原作のドミトリとは違うような印象もありますが、ただ致命的という程ではありません。カラマーゾフ・パパを演ずるリー・J・コッブは、恐らく彼以上の適任者はいないのではないかと思わせる程フィットしています。グルシェンカを演ずるマリア・シェルは彼女自身の独特な表情がこの役にピタリとはまっており、殊に彼女の微妙な顔の筋肉の動きは特筆に値します。ドイツ出身ながら、マレーネ・ディートリッヒのようないかにもゲルマンゲルマンした女優さんに比べると、リリ・パルマーとともにもっともドイツ的ではない女優さんであると言えるでしょう。それと対照的なのが、カーチャを演ずるクレア・ブルームで、彼女のコールドな印象はこの役にこれまたピタリとはまっています。カラマーゾフ家の次男と三男を演ずるのは、共に後に有名なテレビシリーズで知られるようになるリチャード・ベースハート(「原子力潜水艦シービュー号」シリーズ)とウイリアム・シャトナー(「スター・トレック」シリーズというか「宇宙大作戦」シリーズ)ですが、中年以後の彼らを比較してみると結構似ているような気が個人的にはしていて兄弟にはピタリかもしれません。と言いつつも正直に言えば、アリョーシャを演ずるシャトナーはこれが映画デビュー作であり、まだ後年のカーク船長のイメージからはほど遠く、この作品の時点ではベースハートとシャトナーはそれ程似ているようには見えません。ベースハートは、50年代はハンサムではあってもうしろ暗いところのある人物を演ずることがかなり多く、その点では半ば狂気の淵に追いやられるイバン役にはふさわしかったと言えるでしょう。この映画化が原作と最も異なる点は、ラストシーンを除けば三男のアリョーシャ(とその師匠である長老ゾシマ)の扱いであり、原作では彼らがかなり重要な位置を占めていたのに対し、映画化ではほとんど軽視されている点です。亀山郁夫氏の「ドストエフスキー父殺しの文学」(NHKブックス)によれば、殊にアリョーシャは、書かれることがなかった2部においては、皇帝暗殺を試みる革命家へと変貌するはずだったとのことで(亀山氏はすでにご存知だろうと思いますがなどとわざわざ書いていますが、ロシア文学者でもなく長く海外文学を読むことすらなかった私めは全然ご存知ではありませんでした)、そう考えると1部2部をひっくるめた構想内においては実は三男のアリョーシャが最も重要な存在であったのかもしれません。いずれにせよ、彼らが映画中で軽視されている理由は恐らく、敬虔なクリスチャンであり且つロシアの母なる大地という観点とも大きな関連を持つアリョーシャとゾシマの存在は、2時間半程度の映画作品の中では最も扱いにくい存在であったであろうが故であることが予想され、仕方がないところかなという気もします。ということで、「カラマーゾフの兄弟」はそもそもドストエフスキーのあれだけ有名な小説を映画化しようとした時点で相当勇気が必要であったはずであり、これぞ有名小説の映画化の見本とは言えないにしても、かなりの程度評価出来る作品であると見なすことができます。

2007/03/10 by Hiroshi Iruma
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