ドクトル・ジバゴ ★★★
(Doctor Zhivago)

1965 US
監督:デビッド・リーン
出演:オマー・シャリフ、ジュリー・クリスティジェラルディン・チャップリン、ロッド・スタイガー



<一口プロット解説>
ロシアソビエト革命期を舞台として、詩人のドクトル・ジバゴとラーラのラブストーリーを壮大に物語る。
<入間洋のコメント>
 小生はこの映画の大ファンである。どれ程のファンであるかというと、普通の人であれば紅白歌合戦或いは格闘技を見ているか、はたまた少し高尚な御仁であればベートーヴェンの第九を聞いているはずの大晦日の夜に必ずこの映画を見ている程である。何故大晦日にわざわざこの映画を見るかというと、詳細は徐々に明らかにしていくが、この映画のエピック的な時間経過のハンドリングが実に見事であるが故に時節の変わり目に必ず見たくなるからである。エピックムービー(エピックとは叙事詩という意味であり本来は文学で用いられる用語であるが、転じて叙事詩的に雄渾な内容を持つ映画に関しても同様にエピックという用語が適用され、日本語では大河ロマンと言ったところであろう)の最大傑作はこの作品であると考えている程だが、それでは「ドクトル・ジバゴ」のどのような点がエピックムービーとして優れているのだろうか。

 それに答えるには、まず優れたエピックムービーに必要な要素とは何かという問いに答える必要がある。通常の映画の倍近く或いはそれ以上の長さを持つことが普通であるエピックムービーとは、通常の長さの映画にはない要素があるからこそそれだけ長くなる必要があるはずである。無闇矢鱈に上映時間を長引かせることは全く無駄なことであり、製作する側としても製作コストが嵩むだけである。従って問われるべきことは、通常の長さの映画とは異なりエピックムービーがエピックムービーとして持たねばならない要素とは一体何であるかということである。その回答の1つは、ずばりいかに悠久の時の流れをオーディエンスに感じさせることが出来るかという点にあると個人的には考えている。しかしながら、悠久の時の流れをオーディエンスに感じさせる為には、映画の上映時間を単に通常の2倍3倍に延ばせば良いかというとそうではないことは明白である。何故ならば、悠久の時間とはスクリーン上で発生する出来事に対してそれが感ぜられねばならないからであり、長い時間映画館の椅子に座らされ退屈且つ死にそうでえらく長かったと感ずることとは全く別だからである。言い換えれば、ここで言う悠久の時の流れに対する感覚とは、ただ単にオーディエンスの物理的な視点から捉えられた時間の長さを意味するのではなく、劇中の登場人物の視点に立ち、その人物の視点を通じて時の流れの悠久さが感じられるような表現方法が確立されていることが第一条件となる。「ドクトル・ジバゴ」という作品は、そのようなハンドリングが実に巧みであるが、具体例を挙げて説明する前に1つの前提を述べておこう。

 小生は元ITエンジニアであり映画の製作過程そのものに興味があるわけではないので、映画の細かい技法的な側面に対してはほとんど関心がない方であるが、「ドクトル・ジバゴ」の時間経過の取り扱いに関して説明する為に、技法に関連する事柄を1つだけ簡単に紹介する。それは、映画の中で時間の経過を表現するのに通常どのような手法が用いられているかについてである。たとえばある1つの部屋が舞台であるものとして、2時間は少なくとも映画の題材として取り上げるべきイベントがその部屋では全く発生しないが故に、2時間先まで時間を進めたいとする。勿論、2時間の間何も発生しない部屋の様子を撮影しているわけにはいかないので、その部屋で発生する次のシーンは2時間後のシーンでなければならない。しかしながら、2時間先のシーンをいきなり2時間前のシーンに繋げるわけにはいかないことは明白である。何故ならばそれではオーディエンスが体験する物理的時間がそのまま映画中の時間の経過として体験されてしまうからであり、誰もそれが2時間後のシーンだとは思わないからである。それでは一体どうすればよいのであろうか。画面に「2時間後」と表示させるのも1つの手であり実際そのような時間経過を表わすテロップを時々映画中で見掛けることがあるが、時間経過が必要な度にそのような表示をするわけにはいかないことは明らかである。そこで一般に行われていることは、2時間前と2時間後のシーンの間に一端別の場所で発生するシーンを挿入することにより時間の経過を表現することである。この時、挿入される別の場所が元の場所より距離的に離れていればいる程、元の場所で経過した見かけ上の時間は長く感じられる。たとえば、ある部屋で発生する2つのシーンの間に同じ家の中にある別の部屋のシーンが挿入された場合、元の部屋の2つのシーン間での見かけ上の経過時間は、恐らく見る者が体験した物理的な時間とそれ程変わらないはずである。しかし挿入されるシーンが、同じ町内の別の家、同じ国の別の町にある家、全く別の国にある家というように遠く離れたところで発生するシーンになればなる程見かけ上の経過時間は長く感ぜられるはずである。ここで言いたいことは、勿論このような技法が巧妙に用いられている為に「ドクトル・ジバゴ」では悠久の時の流れがうまく表現されているということもあるが、それと同時に、映画の中で発生する時間の経過に対する感覚とは、オーディエンスが体験する物理的な時間の長さとは比例しない場合の方が多く、映画というメディアの中における時間の経過とは現実の経過時間とはほとんど関係がないということである。余談ながら付け加えておくと、この慣例を逆手に取ったのが「ロープ」(1948)、「真昼の決闘」(1952)、「アウトランド」(1981)等のリアルタイムでストーリーが進行する映画である。

 次に、以上述べたことをベースとして、「ドクトル・ジバゴ」のエピックムービーとしての優れた点を、実例を挙げて説明しよう。まず、この映画は普通考えられているようにラブストーリーでもある。本来エピックムービーというとラブストーリーではない場合の方が多いが、これはもともと叙事詩的な取り扱いにおいては、個人よりももっと大きな共同体的な単位に焦点が置かれるからであり、たとえば「ドクトル・ジバゴ」同様デビッド・リーンが監督した「アラビアのロレンス」(1962)は確かにT・E・ロレンスという個人に焦点が当たってはいるが実際はアラブ世界全体に関連する物語であり、「西部開拓史」(1962)は親子何代かに渡る物語である。「西部開拓史」では、最初主演格で登場したかに見えたジェームズ・スチュワートが、後半いつのまにかあっさりと戦死しているのもこの映画がエピックムービーだからこそである。同様に「ドクトル・ジバゴ」も単なるラブストーリーでないことは次の点を考慮しても明白である。すなわち、主人公を演ずるオマー・シャリフとジュリー・クリスティが同一画面上に現れるのは、3時間を遥かに越える時間の中で正味15分から20分くらいのものであり、そもそも最初にこの二人が会話するのが、前線で医師及び看護婦として出会う開始から約80分後のシーンにおいてである。最初に見知らぬ者同士バスの中ですれ違うシーンから、最後の別れのシーンまで出会ったり別れたりを何度も繰返し、出会っている時間よりも出会っていないインターバルの方が遥かに長い。これがこの手のエピックムービーとしていかに効果的であるかは、オマー・シャリフ演ずる主人公ドクトル・ジバゴ及びジュリー・クリスティ演ずるラーラの視点に立った時明瞭になる。ロシアソビエト革命の黎明期をバックグラウンドとした急激に変化する時の流れの中で、いわば運命的に出会ったり分かれたりするこの二人の登場人物の視点からすると、出会っていない時の時間の長さは、映画の中の擬似的な時間の流れが通常観客に与える時間の長さに比べ遥かに長い時間感覚を喚起させる。

 また、この映画が巧みなのは、基本的にはドクトル・ジバゴの生涯が描かれているにも関わらず視点が主人公のドクトル・ジバゴのみに固定されてはいない点である。第1に、この映画はアレック・ギネス演ずるジバゴの兄の回想物語として語られている。従って、時々アレック・ギネスによるナレーションが入るが、このアレック・ギネス演ずるジバゴの兄から見た視点が存在する。また、冒頭では主人公のドクトル・ジバゴに一旦焦点が置かれるが、直ぐにラーラ、ストレルニコフ(トム・コートネイ)及びコマロフスキー(ロッド・スタイガー)の三者の関係に焦点が移動する。この間、ジバゴは第三者的位置に退き、たとえばラーラの母親が自殺未遂で死にかけた時に医師(ラルフ・リチャードソン)の助手として登場したり、ラーラがコマロフスキーに向かって発砲した時にたまたまそこに居合わせた人物として登場したりする。実際、ジバゴがストーリーの焦点として本当に固定されるのは、ジバゴとラーラが最初に会話する前述のシーンであり、開始後80分程経ってからである。また、もう1つ挙げるべきことは、この映画の場所としての中心はモスクワに置かれているが、実際の地理的な距離感以上に心理的にもモスクワからは遠くかけ離れた地であるウラル山脈を越えたベリキノやドイツとの前線等に巧みな舞台設定がされていることである。実はこの2点、すなわち視点が必ずしもジバゴのみに固定されているわけではないことと、モスクワを中心としてそれとは離れた遠隔の地に舞台が設定されている点が、この映画の持つ悠久の時間の流れの醸成に巧みに寄与している。たとえば遠く離れた前線からジバゴがモスクワに帰還した時、モスクワの自宅に住む彼の妻(ジェラルディン・チャップリン)が家の窓を一杯に開けて彼の帰還を喜ぶシーンがあるが、このシーンを見た時オーディエンスは、実際最後にジバゴがモスクワで暮らしていたシーンはたかだか10分から15分くらい前のシーンであるにも関わらず、何年も時が経ったような印象を受けるはずである。その理由は大都会モスクワという場所としての中心における生活が最初に描写された後、そこからは遥かに隔たった荒涼とした最前線での描写があり、しかる後にその中心地で彼を待つ妻が手を振って迎えるというシーケンスが実に巧みだからである。前線にいたジバゴの視点に同化すれば、モスクワから遠く離れた前線での生活とはモスクワでの慣れ親しんだ生活の間に挿入されたエピソードであることになり、彼の妻が手を振る様子によってその間のギャップがより際立つからであり、また同時に彼の妻の視点からすれば、最前線出征以前のモスクワでの生活が、ジバゴの最前線出征という大きなギャップに隔てられた遠い過去の出来事であるような色合いを帯びるからである。

 また冒頭かなり長い時間に渡ってラーラに焦点が置かれることにより、ラーラから見た視点がオーディエンスの心の中に固定同化される点も巧みである。何故ならば、前述したように後半はほぼジバゴに視点が固定されるが、ジバゴがラーラとユリアテンで再会する時、オーディエンスにその間の時間の経過を感ぜさせるのは、それ迄メインの焦点が置かれていたジバゴの視点からというよりはむしろラーラの視点からであり、実際この再会のシーンではジバゴが図書館に入ってくるところをラーラが見ているというように視点が一時的にラーラに切替わる。すなわちラーラの視点から見た場合、今度はジバゴに焦点が当たっていたそれまでのシーンが挿入的な位置を占めることになるのである。このようにして視点を自在に変更することにより、各登場人物の視点から見た時間の流れを巧みにオーディエンスに喚起させる手法がこの映画では卓越しており、それがこの作品をエピックムービーとしてかくも優れたものにしている1つの要因である。この点からのみ見ればデビッド・リーンのもう1つの長大なエピックムービー「アラビアのロレンス」よりも「ドクトル・ジバゴ」の方が遥かにエピック的な色彩が濃い。何故ならば前者は外的なイベントの発生に依拠しているような印象が全体的に強いからであり、描かれている対象がアラブ世界であるとはいえども、視点の中心は常にロレンスに置かれているからである。かくして、モーリス・ジャールの有名なテーマ音楽も含め、究極のエピックムービーと言われるにふさわしいクオリティを「ドクトル・ジバゴ」は有しており、それは自分が生きている間にこの作品を凌駕するエピックムービーが製作されるとはほとんど考え難い程でもある。

※当レビューは、「ITエンジニアの目で見た映画文化史」として一旦書籍化された内容により再更新した為、他の多くのレビューとは異なり「だ、である」調で書かれています。

2003/01/03 by 雷小僧
(2008/10/17 revised by Hiroshi Iruma)
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