地獄の黙示録 ★★☆
(Apocalypse Now)

1979 US
監督:フランシス・フォード・コッポラ
出演:マーティン・シーン、マーロン・ブランド、ロバート・デュバル、デニス・ホッパー


<一口プロット解説>
ベトナムのジャングルの奥で自らの王国を築き支配者となったカーツ大佐(マーロン・ブランド)を暗殺する指令が、秘密工作員のウイラード大尉(マーティン・シーン)に下る。
<入間洋のコメント>
 「地獄の黙示録」は、ご存知のように70年代を代表する作品の中の一本であり、まさしく70年代を締めくくる鳴り物入りの超大作と呼べる作品でした。多分、映画ファンでなくとも少なくともタイトルくらいは知っているはずであり、また、上に掲げた画像は、それなりに有名なシーンをキャプチャーしたものなので記憶が蘇ってくる読者も多いのではないでしょうか。まず第一に指摘しておくべき点は、タイトル中に黙示録(Apocalypse)という単語が含まれていることであり、公開された当時はまだ世紀末には間がある頃であったとはいえ、終末論的なコノテーションを持たせたこのタイトルは、キリスト教徒は勿論のこと、そうではない小生のような輩であってもただならぬフィーリングがふつふつと喚起されるところがありました。その世紀末もとっくの昔に過ぎ去った今になって、久しぶりにこの作品を見直してみました。もともとタイプとしては個人的に好みの作品であるとは言えないところがあり、長らく見ていませんでしたが、監督のフランシス・フォード・コッポラの音声解説が収録された最新DVDバージョンが昨年発売されたのでさっそく買ったという次第です。作品自体への興味からというよりも、むしろコッポラのコメントが聞きたかったからです。それと同時に、「地獄の黙示録」のベースであるジョセフ・コンラッドの「闇の奥(Heart of Darkness)」を取り寄せて読んでみました。DVDに収録されているコッポラ自身の音声解説によれば、彼は、片手にシナリオを持ち、もう一方の手にコンラッドの「闇の奥」を握り締めながら、監督したということのようですが、実際に作品を見ていると、もう一方の手に「闇の奥」を握り締めていたのは後半に関してのみではないかという気がします。というのも、確かにマーティン・シーン演ずる秘密工作員がカーツ大佐の暗殺という秘密指令を担ってベトナムの奥地へと川伝いに遡行するという一貫したプロットラインが存在するとしても、前半と後半で明らかに作品の描かれ方が異なっており、前半はコンラッドの「闇の奥」とは全く関係のないストーリーが展開されるのに対して、後半のある時点から急に「闇の奥」のストーリー展開に似てくるからです。用語としてやや正確さを欠くかもしれませんが、一言でいえば前半はよりリアリスティックにストーリーが展開されるのに対し、後半は物語的で、しかも極めて幻想奇たん的な雰囲気が濃厚になります。コッポラ自身は、前半から後半にかけての展開を時間的遡行という用語を用いて説明していますが、時間的遡行という言い方には依然として一種のアナログ的な連続性が前提とされるはずです。それに対して個人的な印象としては、前半と後半の間には大きなギャップが存在するように思われます。それも、ロジカルなギャップがです。いずれにしても、アナログ/ロジカル(デジタル)などという二項対立に関する用語を殊更持ち出さずとも、このようなギャップは表面上でも明確に見て取れ、前半においては、いかにもハリウッド的と呼べるエンターテインメントが提示されているような印象を受けるのに対し、後半においては、一種の哲学的な思惟が展開されているような印象を受けます。従って、殊に作品の後半部に戸惑うオーディエンスが、かなりいるのではないかと想像されます。誤解のないように付け加えておくと、だからと言ってコンラッドの「闇の奥」が殊更哲学的であるというわけではありません。「地獄の黙示録」の後半にそのような印象があるのは、専らマーロン・ブランド演ずるカーツ大佐の存在のゆえであり、コンラッドの「闇の奥」のクルツは、有名なラストのセリフは別としても(これについては後述します)、哲学的な思惟にふけるような輩として描かれているわけではなく、カリスマ的で謎めいてはいても、よりプラグマティックな冒険家、商人として扱われています。従って、「地獄の黙示録」のカーツ大佐は、監督のコッポラが、或いは音声解説によれば、マーロン・ブランドが、造形したキャラクターだと見なせます。

 次に、監督のコッポラが大きな影響を受け、「地獄の黙示録」という作品のベースともなるジョセフ・コンラッドの「闇の奥」についてもう少し考えてみることにしましょう。「オリエンタリズム」という有名な著書で知られるエドワード・サイードは、オリエンタリズム作家の典型例の一人としてこのジョセフ・コンラッドを挙げています。同様にマーロン・ブランドが出演している「サヨナラ」(1957)のレビューでも説明したので、ここで「オリエンタリズム」とは何かについて再度詳述するつもりはありませんが、一言でいえば、それは、自らよりも劣った存在であると見なす東洋世界を題材として自分達が何ではないかという否定的なパースペクティブを構築し、それを通じて自己のアイデンティティを強化しようとする西洋人の欺瞞的なストラテジーを指します。つまり東洋という否定的な鏡を通じて自分達の存在根拠を確立しようとする西洋人の思考パターンを総称して「オリエンタリズム」と呼ぶのであり、その根底には一種の心理的な他者依存性が存在するのです。このようなオリエンタリズム的要素がコンラッドの作品に存在することは、同じくジュセフ・コンラッドの映画化で、ピーター・オトゥールが主演した「ロード・ジム」(1965)などでも明らかであり、それについてはそちらのレビューで述べました。しかしながら、「地獄の黙示録」のベースとなる「闇の奥」の場合にはやや事情が異なるように思われます。というのも、端的にいえば、「ロード・ジム」がアジアを舞台にしているのに対して、「闇の奥」はアフリカの奥地を舞台にしているからです。これは、アフリカはオリエントではないという単なる地理的関係からのみ言っているのではありません。そうではなく、より根底的な面でアジアとアフリカの間には差があり、西洋人にとってはアフリカの奥地とは全くの未開の地であったのに対し、中世以前であればいざしらず近代においては、アジアは必ずしもそうではなかったはずだということです。すなわち、それがたとえ否定媒介項として機能する自分達の鏡象であるにすぎなかったとしても、アジアは西洋人の表象の対象として存在し得たのに対し、アフリカは表象の対象にすらならなかったのではないかということです。西洋人にとってアラブ人、インド人、中国人、日本人などの東洋人は異教徒ではあっても、決して文明を持たない原始人として表象されていたわけではないはずであり、優劣は別としても文化文明という共通の尺度が存在しなければ、自分達のアイデンティティを確保する為の優越感をもたらす材料として東洋を利用することはできなかったはずなのです。この点を理解しないと、「闇の奥」のラスト近くで瀕死のクルツがうめく「The horror!The horror!」というセリフの意味が分からないことになります。西洋人たるクルツにとってのhorror(恐怖)とは、西洋人たる自分の表象能力の埒外に存在するもののことです。いくらカリスマ的な勇者であったとしても、自らの表象の対象と化することができないものを征服することはできないのです。つまり、オリエンタリズムが成立する為には、否定媒介的な鏡として機能する対象にも、ある程度自分達と似通った要素が含まれることが前提とされるはずだということであり、鏡として自らの姿を反射させるためには、それは光を全て吸収する闇であってはならないということです。タイトルが示すように、アフリカの奥地とは、まさしく光を全て吸収する「闇の奥」なのです。従って、アフリカの奥地が舞台となる「闇の奥」は、オリエンタリズム的思考様式が反映された作品とはなり得ないというのが個人的な見解です。

 この点をもう少し掘り下げてみましょう。「ロード・ジム」のレビューでも述べたように、オリエンタリズムの権化のような「ロード・ジム」という作品は決して読み易い作品ではありません。そのことは、必ずしも英語を母国語としない個人の能力の問題に還元され尽くすわけではなく、ペンギン文庫版の「ロード・ジム」の解説者が、最初に読んだ時の印象は「infuriating(激怒を覚える)」であったと記していることからも証明されるのです。またテクストの受容理論で有名な文芸評論家ヴォルフガング・イーザーが、「The Act of Reading」(The Johns Hopkins University Press)という著書の中で、「ロード・ジム」について以下のように述べていることからも、「ロード・ジム」という作品が一筋縄では捉えきれないことが窺えます。

◎コンラッドの「ロード・ジム」には、統合作用に抗い、それゆえそれ自らの個別的細部の真実性を稀釈してしまうような結果をもたらす様々に異なるパースペクティブが持ち込まれている。
(Conrad's Lord Jim (1900) introduced divergent textual perspectives which resist integration and so devalue their own individual authenticity.

※誤解のないように付け加えておくと、かくのごとくこの一文だけを独立して取り出すと、イーザーが「ロード・ジム」の持つ多義性を批判しているかのようにも見えますが、決してそうではありません。彼は、テキストを読むという行為は何であるかについて説明する例証の1つとして「ロード・ジム」を取り上げているのであり、もし多義性を理由として文学作品を批判するならば現代の作品の多くが批判の対象になってしまいます。因みに、イーザー自身は、受け手にとって固定的なイメージが伝達される映画のようなメディアと、イメージ自体を能動的に想像上で(再)構成しなければならない文学というメディアとでは、受容という観点から見れば大きな相違があると述べていますが(たとえば、彼によれば、原作を読んだ後で映画化作品を見るとがっかりすることが多い理由は、原作を読んだ時に想像したイメージと映画としてスクリーンに映し出される映像が異なることが真の原因なのではなく、原作を読んだ時に機能していた想像力の能動的な働きが、イメージが外的に与えられることにより映画では抑制されてしまうからだそうです)、いずれにしても受け手が特定のメッセージをどのように受け取るかという受容に関するテーマを分かりやすく述べる彼の書物は映画ファンにもお薦めかもしれません。法政大学出版局などからいくつか訳書も出ており、また彼は名前から想像されるようにドイツ人であるにも関わらず、著書の多くは英語で書かれておりAmazon.comなどから容易に入手できます。

つまり、コンラッドが生きていた時代に書かれた小説は、一般的には読み手が何らかの統一的なナラティブを構成することが前提とされて書かれているのが普通であるのに対し、そのような統一的なナラティブを読者が想像の世界の中で構成するのを困難にする多義性が「ロード・ジム」という作品には含まれているということです。これに対し「闇の奥」は、「ロード・ジム」ほど読みにくい作品ではなく、もともと100ページ程度の中篇作品であることもありますが、サラっと読める作品です。同じ作者の作品であるにも関わらず、なぜそのような違いがあるのでしょうか?勿論書かれた時期が異なることもあるとしても、その間にどのような変化があったかが問われねばなりません。個人的な見解としては、この違いは、オリエンタリズム的な欺瞞がそこに含まれているか(「ロード・ジム」)、そうでないか(「闇の奥」)の違いから派生しているのではないかと考えています。つまり、オリエンタリズムとは、ルネ・ジラール的な言い方をすれば、本来そこに存在するものを巧妙に隠す為の一種の神話装置であり、そのような神話装置が「ロード・ジム」という作品全体に影響を及ぼしているために、文体そのものが極めて多義的な様相を呈しているのではないかということです。これに対して、「闇の奥」においては、主題そのものがそもそも西洋人にとっては表象不可能な存在に関するものであり、従ってそのような文脈にあっては欺瞞そのものが意味をなさないのです。つまり、「The horror!The Horror!」というクルツの最後のうめきは、自分にとって不可知なものに対するストレートな反応なのであって、「オリエンタリズム」のような神話装置とは無縁なのです。文芸評論家のテリー・イーグルトンは「Sweet Violence」(Blackwell Publishing)という著書の中で以下のように述べています。

◎「闇の奥」の中で、ジョセフ・コンラッドは、ボートの上からアフリカの大地に向かって無闇に銃を発砲する様子を描いてる。あたかも、当時の帝国主義は、それが実際にそうであったような世俗的でシステマチック且つ物欲というタームで十分に説明可能なビジネスであったというよりは、単に何らかのグロテスクな逸脱であるか不条理劇ででもあったかのようにである。
(In Heart of Darkness, Joseph Conrad famously portleys a ship firing its guns pointlessly into an African river bank,
as though imperialism were merely some grotesque aberration or absurdist theatre rather than the hard-headed, systematic, sordidly explicable buisiness that it is.)


本来そうであったことをあたかも別のものであるかのようにコンラッドが意図的且つ欺瞞的に描いているという批判、すなわち帝国主義という現実を単に虚構の世界の出来事にすぎないかのように見せかける欺瞞をコンラッドが展開しているのではないかという批判がここでは述べられていますが、このような批判は、ルネ・ジラールの言うところの欺瞞的神話装置に充ちた「ロード・ジム」のような作品に対してであれば納得できたとしても、「闇の奥」にそれを適用するのはやや的はずれではないかと個人的には考えています。西洋人達がボートの上からめくら撃ちするシーンが「闇の奥」に挿入されている理由は、アフリカのような奥深い大地を、アジアのように平面的で明快なターゲットとして表象することはできない点を、隠喩的に示唆するためではないかと思われます。コンラッドは、意識的にしろ無意識的にしろイーグルトンの言うような何らかの欺瞞を達成することを目的として、このようなシーンを挿入したのではなく、それよりはアフリカという大地の表象不可能性がストレートに吐露されていると見なすべきであるように思われます。

 ということで、少し「闇の奥」に関する考察が長くなってしまいましたが、しかしながらコッポラ自身が「闇の奥」を片手に「地獄の黙示録」を監督したと述べている以上、原作に対する考察は多かれ少なかれ必要でしょう。そのように考えてみると、次に疑問に思われるのはベトナム戦争が舞台になっている点についてです。前半と後半に大きなギャップがあるように思われる一因もまさに舞台設定に関するものであり、前半によって描かれる帝国主義的な表象の世界と、後半によって描かれる表象不可能な世界とでは、コンラッドの作品で言えば「ロード・ジム」と「闇の奥」との違いに匹敵する相違があります。具体例を挙げれば、マーロン・ブランド演ずるカーツ大佐が、原作同様「The horror!The Horror!」とつぶやきながら死んでいくラストシーンは、ワーグナーの「ワルキューレの騎行」のテーマに乗ってアメリカのヘリコプター機動部隊がベトナムの村落を破壊しつくす前半の有名なシーンと、様々な意味で相容れないところがあります。ミシェル・セールの著書であったか、あらゆる土地が一部の隙もなく利用され尽くされているアジアの土地利用について言及する一文がありましたが、「地獄の黙示録」の前半で表象されるアジアとはまさに人工性が全てを埋め尽くすアジアなのです。それに対し後半のアジアは、西洋人にとってはどうにも表象しようのないアジアであり、いにしえのTOマップでアジアが位置する地域にゴグ、マゴグなどの怪物達が描かれていたのと同じような意味でのアジアだと言えるかもしれません。或いはそれですら1つの表象であり、コンラッドの「闇の奥」の舞台となるアフリカの奥地は、そのような怪物的な表象ですら存在し得ないという方が正しいかもしれません。従って、「闇の奥」が持つメッセージを真に忠実に再現しようとするならば、そもそもアジアを舞台とすることはできないことになります。

 しかしながら、コッポラによる音声解説を聞いていてなる程と思ったことが1つあります。それは、彼がマーティン・シーンを主演に起用した理由に関してです。実は、最初はハーヴェイ・カイテルを主演に起用して撮影を開始したそうですが、カイテルはアクティブなイメージが強すぎるので、途中からよりパッシブな印象を与えるマーティン・シーンに交代したそうです。それを考慮しながらこの作品を見ていると面白いことに気がつきます。すなわち、マーティン・シーン演ずる主人公は、作品全般を通じてほとんどアクティブに行動していないことにです。彼が自分で何らかの決断を下して行動するのは、150分の間を通じてたった2回だけ、すなわち自分の部下の無差別銃撃により瀕死の重傷を負った少女を銃殺するシーンにおいてと、最後のカーツ大佐を殺すシーンにおいてのみです。しかも、どちらの行動も自由人としてのアクティブな意思に基いてそうしたというよりは、前者の場合には部下の犯した暴挙の後始末として、後者の場合にはそれが本来彼に与えられたミッションであり義務として行なうのです。ベトナムの村落を攻撃するシーンでは、彼は全くどこかに消えています。つまり彼は主人公であるにも関わらず一種のパッシブな傍観者的に立場に立つ人物として扱われており、彼のパースペクティブから見た一種のパノラマ的な俯瞰としてストーリー全体が展開されているようにも見えます。とするならば、作品自体がいわば天国から地獄を巡る一種の巡礼紀行のような側面を持っているのではないかとも考えられます。たとえ、それが、天国から地獄へ、或いはダンテの「神曲」のように地獄から煉獄を通って天国へというキリスト教的なコノテーションを帯びているわけではなかったとしても、自らが君臨する表象の世界から全く不可知の世界への巡礼紀行を繰り広げる傍観者のオデッセイというテーマが作品の根本に存在すると捉えることも不可能ではないように思われます。というよりも、そのように捉えない限り、「地獄の黙示録」は、前半と後半で全く別の2本の作品にした方が良かったような印象すら受けます。いずれにしても、なぜベトナム戦争なのかという疑問は残り、たとえば同時期に製作された「ディア・ハンター」(1978)と同様な意味において「地獄の黙示録」を反戦映画であると言えるかというと個人的にはそれはかなり疑わしいと思っています。確かにソンミの虐殺を喚起するようなシーンや物欲に溺れるアメリカを想起させるシーンもありますが、「地獄の黙示録」の場合、ある人がある特定のシーンに反戦メッセージを読み取ったとしても、別の人はそこに好戦的なメッセージを読み取っても何の不思議もないところすらあります。陶酔的なワーグナーの「ワルキューレの騎行」の音楽に乗ってベトナムの村落を破壊するシーンなど、ナチスドイツの機甲師団の突撃のようにも見え、このような演出は右派的な傾向が強かったと言われるジョン・ミリアスが脚本を担当していることも関係しているのかもしれません。ということで、考えさせられるところの多い作品であることには間違いがなく、70年代の最後を飾る作品としてはその名に恥ない作品だと評せるでしょう。但し、この作品を大傑作であるように言う人もいますが、先ほど巡礼紀行などという我ながら少々苦しい解釈を持ち出さざるを得なかったように、やはり前半と後半のギャップがどうしても気になる点だけを取り上げても、個人的には満点に採点できる作品ではないというのが正直なところです。

2007/02/03 by Hiroshi Iruma
ホーム:http://www.asahi-net.or.jp/~hj7h-tkhs/jap_actress.htm
メール::hj7h-tkhs@asahi-net.or.jp