The Prisoner of Second Avenue ★★★

1974 US
監督:メルビン・フランク
出演:ジャック・レモン、アン・バンクロフト、ジーン・サックス、エリザベス・ウイルソン

手前:ジャック・レモン、奥:アン・バンクロフト

ちょっと調べてみたのですが、ジャック・レモンとアン・バンクロフトとという(かつての)ビッグスターが出演しているにも係わらず日本で公開された形跡がないように思います(間違っていたらゴメンンサイ)。ニール・サイモンの舞台劇に基く映画の1つであり非常にコメディ色が強いのですが、ただ内容的には都会の殺伐さをバイオレンス映画としてでなくコメディとして表現しているという側面があるので、思い切り腹を抱えて笑うわけにはいかない部分があるのも確かですね。ニューヨークの2番街に住んでいるレモンとバンクロフトが、失業、強盗、騒音等の都会の病相に右往左往させられるという単純なストーリーで、同じくレモンが主演しニール・サイモンの舞台劇に基く映画「おかしな夫婦」(1970)に非常によく似ているように思います。「おかしな夫婦」の場合には、オハイオからニューヨークにのこのこやってきたジャック・レモンとサンディ・デニスが次々にトラブルに出会うというストーリーで何となく要領の悪い田舎っぺがおたおたしているような印象があったのですが、こちらはもともとニューヨークに住んでいるはずのレモンとバンクロフトが都会のトラブルひしめく生活に否応なく押し流される様が描かれていて、どうも他人事のようには思えないのですね。そういうところが妙に笑えないわけです。

さてところで、都会の抱える問題というのは、何も先程述べたような失業、強盗、騒音等の外部にはっきり分かるような面においてだけではなく、この映画のタイトルが示しているように監獄に閉じ込められたような逼塞感があるというようなメンタル的側面に与える影響が無視されてはならないように思いますが、この映画では、ジャック・レモンという神経質なコメディアンを通してそういう様相がよく分かるように思います。ところで、このような都会の逼塞感を齎す要因として、均質性が都会のあらゆる側面を支配しているという側面が挙げられるのではないでしょうか。時間と空間が均質性で覆われている都会の生活においては、いつどこに行こうが他のあらゆる場所と何ら変わるところがないわけです。一種のサンクチュアリー(聖域)の消失或は奥行きの消失と言い換えてもよいように思います。この映画でも、たとえばジャック・レモンのかかりつけの精神分析医は腕時計でセッション時間を計るし、職業安定所に行けば、官僚的な手続きに煩わされねばならないわけであり、何もかもがある一定のメジャーを通してしかなされ得ないのです。メジャーというものはまさに多様なものをある一定の基準で推し量ることの謂いであり、多次元的な物事の様相を二次元的なフラットな空間に移し替えることなのですね。最悪なのは、こういう奥行きのない均質性を自らの内部にも同化させてしまうが為に、この狂気的にフラットな生活様式から抜け出すことが出来なくなってしまうということです。これぞまさにタイトルにあるように都会の囚人(prisoner)と言ってもいいのではないでしょうか。たとえば、レモンは自分の兄貴のジーン・サックスが住む田舎に遊びに行っても、全くそこの生活様式にフィットしないのですね。言わば彼の体内時計が都会モードに固定されたまま、他のモードへと移行出来ないかのようです。可塑性のなさ、これがまた都会の生活の特徴の1つであると言っても過言ではないでしょう。

ところで、爾来こういう都会的な均質性をブレークする機能として、時間的な側面では祭礼やカーニバルが、また空間的にも神社であるとかある種の聖域が設けられていて空間が均質に拡がらないような一種のトポロジーが組み込まれていたわけです。これらの機能によって都会の生活にも多次元性がある程度保証されていたわけですが、現代の都市計画においてはこういう点が全く無視されているような側面があるのではないでしょうか。私目が最近興味あって読んだ本の1つにクリストファー・アレグザンダーという建築家の書いた本があるのですが、彼の提言していることを乱暴に一言でまとめると、まさにこういう多層性の復活を都市計画や家の設計に復活させなければならないということであったように思います。彼は、現代建築の祖と言われる有名な建築家のル・コルビジェ氏をしきりに批判しているのですが、要するに機能偏重的な立場に立つ均質的な建築や都市計画がそこに住む人々のメンタル様式に如何にネガティブな影響を与えるかをアレグザンダーはよく理解しているのではないかと思います。またそういうことが本来ハードウエアの設計者たる建築家の間でも問題にされなければならない程、現代の都会が大きな問題を抱えているということも垣間見ることが出来るように思います。この均質性がよく表れている一例として、大都市近郊にある分譲住宅を取り上げることが出来ます。同じようなというか全く同一のモデルの家がずらりと見渡す限り整然と並んでいる様相は、私目には狂気としか見えません。まさに変化が拒否されたようなその空間配置は、ある意味で死が支配するような閉塞感があります。人間のメンタルな様式としてあるレベルから別のレベルへの移行が齎す一種の非日常性の体験がどこかで必要になるはずなのですが、こういう単レベルのみで構成される均質な分譲住宅的文化にはそのような考慮が全く窺われないばかりか、完璧にそれに逆行しているわけです。

少し映画からそれてしまいましたが、70年代の中頃に製作されたこの映画に既にこういう逼塞感がうまく表現されているように思われます。また、前にも述べたように「The Prisoner of Second Avenue」というタイトルそのものが何よりもそういう状況を雄弁に物語っていると言っても過言ではないと思います。50年代以前の都会が希望の象徴だったような時代はとうに過去り、何やら面目丸潰れで信用を全くなくしてしまった都会の様相がシニカルに描かれている点においては屈指の名作(ちょっと言い過ぎたかな?)だと思うのですが、国内では見かけたことがないのが少しく残念です。それに、ニール・サイモンの可笑しく且つシニカルなセリフ運びはこの映画でも健在で、馬鹿馬鹿しいのは分かっていても笑えるのですね。特に失業したジャック・レモンが朝のラジオ放送で聞いたアメリカの労働者階級を経済的に搾取する陰謀(plot)説について、奥さんのアン・バンクロフトにとくと言い聞かせるシーンはサイモンとレモンの相性が実にいいのではないかと思わせる程面白可笑しいシーンです。それから付け加えておきますと、「アマデウス」(1984)のF・マリー・エイブラハムとシルベスタ・スタローンが1シーンだけ登場します。特に後者は、中年というか初老のジャック・レモンにマグられて財布を取られてしまうという何とも情けない役で、後年のロッキー且つランボーの彼にしてみれば、この映画に出演したことをきっと後悔しているに違いありません。


2001/02/25 by 雷小僧
ホーム:http://www.asahi-net.or.jp/~hj7h-tkhs/jap_actress.htm
メール::hj7h-tkhs@asahi-net.or.jp