テレマークの要塞 ★☆☆
(The Heroes of Telemark)

1965 UK
監督:アンソニー・マン
出演:カーク・ダグラス、リチャード・ハリス、ウーラ・ヤコブソン、マイケル・レッドグレーブ

左:ウーラ・ヤコブソン、右:カーク・ダグラス

さてさて前回は、アンソニー・マン監督の「ローマ帝国の滅亡」(1964)を取り上げましたので、彼の1960年代の作品をもう一本簡単に紹介しておきましょう。それは「テレマークの要塞」です。この作品は1940年代前半から活躍するアンソニー・マンが完成させた最後の作品になります。実は、「殺しのダンディー」(1968)が彼の実際の最後の作品ですが、彼はこの作品を完成させる前に心臓麻痺で亡くなってしまい最終的には主演のローレンス・ハーベイが監督となって完成させています。第二次世界大戦中ノルウエーに建てられたナチスの重水工場をレジスタンス達が破壊するという「テレマークの要塞」のストーリーは、同時期の作品で言えば破壊対象は重水工場ではなくVロケット工場でしたが「クロスボー作戦」(1965)にかなり近いところがありますが、また雪山を背景とした戦争映画という点では「荒鷲の要塞」(1969)を思わせるところがあります。「ローマ帝国の滅亡」のレビューにおいて、アンソニー・マンという監督さんは、山岳地帯のビューティフルで壮大な風景を巧みに利用することがうまかったと述べましたが、そのことはこの作品にも見事に当て嵌まります。そもそも戦争映画においては瓦礫や廃墟というような陰鬱なバックグラウンドが提示されがちですが、ノルウエーで実際にロケが行われたこの作品は、雪山やフィヨルドというような峻厳なる大自然が見事に捉えられていて戦争映画には見えないほどです。しかしながら、「テレマークの要塞」は前述した「クロスボー作戦」や「荒鷲の要塞」などに比べるとやや地味に見えるところがあります。何故かというと、それら2作品が戦争映画というよりはアクション映画に近い作品であったのに対して、「テレマークの要塞」ではアクション性がそれ程重視されているわけではなく、オーソドックスなストーリー展開に主眼が置かれているからです。たとえば「荒鷲の要塞」で、主人公のリチャード・バートン、クリント・イーストウッド、メアリー・ユーア達が銃弾が雨あられと降り注ぐ中を自分達は全く無傷のままで敵をバッタバッタとなぎ倒していく様子は、これはもうほとんど現代のアクション映画と何ら変わらないことは「タイトル別に見る戦後30年間の米英映画の変遷」の「アクション映画のルーツはイギリス映画? 《007は殺しの番号》」でも述べました。それに対して「テレマークの要塞」では、無用なアクションシーンはほとんど存在せず、銃で撃ち合うシーンすら戦争映画としては極めて少なく、またスキーによるチェースシーンなどは、007シリーズ的なアクションに走る誘惑に駆られたとしてもそれ程不思議はないにも関わらずそのようなド派手な展開には決してなりません。このあたりにはアンソニー・マンはやはり1940年代前半から活躍しているオーソドックスな監督さんだなというイメージが強くあり、「エル・シド」(1961)や「ローマ帝国の滅亡」のようなスペクタクル史劇と同様この作品においても、現代的なアクションよりは確固としたストーリーを堅実に語るスタイルが貫徹されているように見受けられます。殊に戦争映画というジャンルにおいては、1960年代は「ナバロンの要塞」(1961)の影響を受けたアクション化傾向、「史上最大の作戦」(1962)の影響を受けたオールスターキャストによるスペクタクル化傾向が際立ち始めた頃であり、そのような流れの中に置いて考えてみれば「テレマークの要塞」はクライマックスのフェリー爆破シーンのようにアクション性が全く存在しないわけではないとはいえ、いかにも堅実且つ悪い言い方をすればスピード感に欠ける地味な作品だと位置付けることができます。まあこの作品も昔はTVで何度も放映されていましたが、現在ではほとんど話題になることもなく(話題になっても映画そのものよりは、スエーデン出身で「春の悶え」(1951)で知られるウーラ・ヤコブソン(上記画像参照)に関してであったりします)、確かにアクション映画として見てしまうといかにも物足りない作品に見えるに違いありません。しかしいずれにせよ、ビューティフルなノルウエーの風景をバックとして繰り広げられる戦争ドラマは、アンソニー・マンという職人的な監督さんの手堅い演出によりなかなか見応えのある作品として仕上がっていることにも間違いはなく、ド派手なアクションを期待しさえしなければ十分に楽しめる作品です。と言っても、この作品には、やや堅実とは言えないリスクを犯している点が1つだけあります。それは配役に関してであり、主演している二人すなわちカーク・ダグラスとリチャード・ハリスには、必ずしもバラエティに富んでいるとは言えない表現様式を通じて内面的なエネルギーを爆発させるという点で多少似た傾向を持っており、互いを打ち消す可能性が少なからず存在するということです。殊にリチャード・ハリスという俳優さんは、晩年こそ「ハリー・ポッター」シリーズで魔法学校の校長のような役を演じていましたが、元来は張り詰めた雰囲気は持っていても一本調子で演技幅の狭い俳優さんであり、この作品や「ジャガーノート」(1974)のように適材適所で配役されればうまく活きるけれども、そうでない場合は映画全体をブチ壊しにする可能性すら持っている人です。カーク・ダグラスは勿論一本調子でもなければ演技幅も決して狭くは無い俳優さんですが、しかしながら可塑性に溢れているというタイプではなくリチャード・ハリスのような俳優さんと二人ほぼ同列で並べてしまうとどちらかがどちらかを消してしまう、というより格から言えばカーク・ダグラスがリチャード・ハリスを消してしまう可能性が大であるように思われます。殊にカーク・ダグラスが1950年代に見せていたようなエネルギーを爆発させていたならば間違いなくそうなっていたでしょう。しかしこの作品ではその辺の役回りが整理されていて、リチャード・ハリスはいかにも彼らしく理想主義的な理念に燃えるレジスタンスの闘士の役を演じているのに対し(何せ、スエーデン出身のおねーさまウーラ・ヤコブソンには見向きもせず、彼がカーク・ダグラスと争うのは作戦に関してのみです)、カーク・ダグラスは時にプレイボーイのように振舞う世俗的な科学者を演じており、パーソナリティの重複が巧妙に避けられています。その意味ではうまく配役がなされているとも言えますが、但しリチャード・ハリスがもう少し有名になっていた頃であったならば、この二人の同時起用は避けたかもしれませんね。尚、音楽担当は「戦場にかける橋」(1957)で有名なクラシック系のマルコム・アーノルドであることを付け加えておきましょう。あ!そうそうそれとスキー用語にテレマークという言い方がありますが(詳しい意味はよく知りません)、この映画の舞台であるノルウエーの地域が発祥であるということを聞いたことがあります。


2007/09/15 by Hiroshi Iruma
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