ジャガーノート ★★★
(juggernaut)

1974 UK
監督:リチャード・レスター
出演:リチャード・ハリス、オマー・シャリフ、アンソニー・ホプキンス、デビッド・ヘミングス


<一口プロット解説>
大西洋を横断する豪華客船ブリタニック号に何ものかの手によって爆弾が仕掛けられ、リチャード・ハリス演ずる隊長指揮する爆弾処理班がブリタニック号に乗込む。
<入間洋のコメント>
 実を言えば、この映画は小生が生まれて始めて劇場で見た映画であり、その意味でも並々ならぬ愛着がある。1970年代と言えばパニック映画全盛の時代であったことは誰もが知るところだが、大西洋のど真ん中を航行する豪華客船に爆弾が仕掛けられたという設定の「ジャガーノート」もパニック映画の1つであると言えないこともない。しかしこの作品はイギリス映画であり、パニック映画としてのハンドリングは「ポセイドン・アドベンチャー」(1972)等のハリウッド産映画とは大きく異なる。すなわち、「ジャガーノート」では爆弾が仕掛けられているという状況設定だけで緊張感を持続させるのに対し、ハリウッド産のパニック映画ではド派手な特殊効果を使用してまず災害シーンを先に見せてから、それに対する反応として登場人物達のドラマを描くという手順を踏むのが一般的である。一言で言えば、ハリウッド産映画では扇情的且つ派手な視覚効果が最大限に利用されているのに対し、「ジャガーノート」ではむしろサスペンス要素がシンプルに強調される。何しろこの映画で人が死ぬのは、結局爆弾解体作業班の二人と船員が一人だけ、すなわち乗客の死者はゼロであり、ハリウッド産パニック映画が死者のオンパレードになるのとは大きな違いがある。

 それにしても、この映画のサスペンス映画としての緊張感は素晴らしい。爆弾処理班隊長ファロンを演ずるリチャード・ハリスは、いつでもオーバーアクティング気味の演技が目立つ俳優だが、この映画では幸いにもそれがプラスになっている。何故ならば、彼のオーバーアクティングは爆弾を解体する時の不安を誤魔化す微妙な心理を表現しているようにも見えるからである。劇的効果を高めるための音楽が無闇矢鱈に挿入されていないのも効果的であり、ドキュメンタリー的色彩が強調されることにより緊迫感がより一層際立っている。また、広大な大西洋と爆弾解体が行われる船内の閉所恐怖症に陥りそうな程狭い密閉された区画との対比が見事で、しきりにジョークを連発するファロンの外面とは裏腹の不安感が、密閉された空間の中で次第に増幅していく様子が手にとるように伝ってくる。かくして、外面的なビジュアル効果がますます重視されるようになりつつあった1970年代にあって、極めてオーソドックスな手法によってサスペンスを盛り上げることに成功しているこの作品を、単に生まれて始めて劇場で見た作品であるという理由だけでなく個人的に高く評価している。余談になるが、若き日のアンソニー・ホプキンスがスコットランドヤードの刑事役で出演している。当時は彼が今日のようなトップスターになるとは思ってもいなかった。何しろ、「サイコ」(1960)に出演しているジャネット・リーを、製作年も考慮せずにアイススケーターのジャネット・リンと混同していた小生は、アンソニー・ホプキンスも同じく「サイコ」に出演しているアンソニー・パーキンスと混同していた程である。アンソニー・ホプキンスは、「ジャガーノート」出演時ですら35歳を過ぎていたはずであり、それにしても遅咲きの俳優である。

 このように「ジャガーノート」はサスペンス映画としては超一級品であるが、1点だけどうにも理解出来ないことがある。それはファロンが赤いワイヤを切るべきか青いワイヤを切るべきかという古典的な二者択一の岐路に立たされるラストシーンに関してである。爆弾を仕掛けた犯人は既にスコットランドヤードに捕まっていて、この犯人は青を切れと言うにも関わらず、ファロンは無言で赤を切る。これがストーリー上何故問題であるかというと、爆弾は1個だけではなく7つ程あり、他の爆弾に関してはファロンの部下が処理することになっているからである。つまり、無言で赤を切って、もし赤が間違っていれば、赤を切ることが間違いであることが誰にも分からないことになり、彼の部下は犯人がのたまった青の方を切ってファロンは殉死したと思うはずである。しかも、ファロンは切るしばらく前に、自分がもし間違っていれば部下がその間違いを正して他の爆弾を処理するだろうと述べているにも関わらず黙って赤を切る。これが現実世界で発生すれば、大ポカでは済まされない重大なミスであり、爆弾解体に成功して「Fallon is the champion.」などと悦に入っている場合ではないのである。単に製作スタッフがその事実に気が付かなかっただけであるのか、そのような状況の中でファロン自身一旦口に出したことを忘れてしまったというのがシナリオの意図なのか、それともラストシーンで「犯人を信用していない俺は赤を切るぞ」などと声に出して宣言することは、クライマックスの緊張感を損なうと考えられたが故に敢えて論理的矛盾は無視されたかのいずれかであろうが、実際はどれが本当の理由であるかに関して30年が経過した今でも回答は得られていない。誰か教えて欲しいものである。

※当レビューは、「ITエンジニアの目で見た映画文化史」として一旦書籍化された内容により再更新した為、他の多くのレビューとは異なり「だ、である」調で書かれています。

1999/04/10 by 雷小僧
(2008/10/18 revised by Hiroshi Iruma)
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