避暑地の出来事 ★☆☆
(A Summer Place)

1959 US
監督:デルマー・デイビス
出演:リチャード・イーガン、ドロシー・マクガイアサンドラ・ディー、トロイ・ドナヒュー
左:トロイ・ドナヒュー、右:サンドラ・ディー

海外でDVDバージョンが発売されたこともあり、久々にこの作品を見ました。久々に見たというのは、やはりこの作品には1950年代当時のモラルスタンダードが色濃く反映されているが故かどうにも古臭い印象が避けられないという印象を持っていた為、特別な理由がない限りわざわざ見る気にならなかったからです。今回見直しても、その印象は大きくは変わりませんでした。ただふと思ったことは、確かにモラルスタンダードは当時と現在とでは大きく違うであろうことは間違いないとしても、それ以上に大きな違いはそもそもモラルスタンダードが、映画というエンターテインメントに反映されるべきか否かという点に関する捉え方自体が当時と現在とでは全く違うということです。たとえば、よく聞く話として1950年代当時は、強力且つ明文化されたコードが厳然と存在していて、アンモラル或いはアモラルな表現はほとんど許されていなかったということが挙げられ、一応レーティングは存在するとはいえほぼ何でもありの現在とは全く時代が違っていたということです。たとえて言えば、厳密な放送禁止用語の体系が規定されていて、それから逸脱するような表現は情け容赦なくチェックされていたようなものです。そのような強力なモラルスタンダードの存在故か、50年代の映画の多くは、それがたとえ若者の反抗というようなライトモティーフを有していたとしても、結局そのような反抗的な自我が、その成立基盤に厳然たるモラルスタンダードを有する一般社会といかに折り合いをつけられるかというような点に収斂してしまうような傾向がありました。たとえば有名なジェームズ・ディーン主演の「理由なき反抗」(1955)なども少なくとも私めには見事にこの図式に嵌っているように見えてしまいます。つまり、現実社会と折り合いをつけることが出来ないとサル・ミネオ演ずるキャラクターのように自分の命すら失なってしまうのであり、それに対して、様々な葛藤を経る必要があったとしても何とか折り合いをつけることができたジェームズ・ディーンキャラクターは最後にその褒美としてナタリー・ウッド演ずるお姫様はおろかジム・バッカス演ずる父親との和解すら勝ち取ることができるわけです。どんどん本題から離れていきますが、離れついでに言及しておくと、ジェームズ・ディーンは現在では若者の反抗の象徴として神話化されているようにも見えますが、個人的にはジェームズ・ディーン神話とは、まさに権威筋が何か都合の悪いことを隠す為に別のことを語るという意味でのルネ・ジラール的な神話に近いのではないかと思っていて、実体的にはジェームズ・ディーンは当時のモラルコードの枠を突き抜けるような存在であったどころかそれを強化するような役割すら果たしたのではないかと考えています。などと言うと、そんなことを言うようでは映画ファンとは言えないと怒られそうであり、また彼のもう1つの代表作である「エデンの東」(1955)を長らく見ていないのでそちらについても同様なことが言えるかどうか分からないので、これについてはいずれということにしておきます。さて「理由なき反抗」とはタイプが大きく異なりますが、「避暑地の出来事」も当時のモラルスタンダードから言えばアンモラルであると言わざるを得ない行為を行うカップルがいかに現実社会から承認を得るかが大きなポイントとなっています。しかしながら、この作品の最も興味深い点は、「当時のモラルスタンダードから言えばアンモラルであると言わざるを得ない行為を行うカップル」とはリチャード・イーガン+ドロシー・マクガイアというペアレントコンビと、トロイ・ドナヒュー+サンドラ・ディーというお子ちゃまコンビの2組あって、後者は前者からの承認を必要としているという点であり、また或るシーンでリチャード・イーガン演ずる父親がサンドラ・ディー演ずる娘に「We need each other」と言うことからも分かるように、実は前者も後者からの承認を絶対的に必要としている点です。それが何故興味深いかというと、モラルスタンダードという概念のあいまいさに関する疑問自体が意図せずにそこから噴出せざるを得ないからですが、それについて次に説明しましょう。この作品は、それまで提示されたモラル的な葛藤が実際には何も解決されないままに唐突にハッピーエンドで終わるようにどうしても思えます。というのも、結局この2組のアンモラルカップルは、互いが互いを相互承認することによって全てのモラル的な葛藤が解決されてしまったかのような印象を与えるからであり、一種の言語ゲーム的な欺瞞があるように見えてしまうからです。すなわちモラルスタンダードに関する問題が提起されながら、それが本源的なところでは全く解決されずに、この2組のカップルの相互承認という閉じられた世界の内部だけでの極めて表面的な解決に終始しているが故に、一種の神話的欺瞞を感ぜざるを得ないということです。そう考えてみると、はたと気がつくことがあります。つまり、それならば、たとえそれが2組のカップルよりもより広範であったとしても、世間一般という範囲におけるモラルスタンダード自体も、単なる言語ゲームに過ぎないわけではないとどうして言い切れるのかという疑問が湧かざるを得ないということです。誰かが誰かの行為の承認を行なうということは、いくらその範囲が拡大したとしても結局は互いが互いを承認する相互承認に過ぎず、そこに絶対的な根拠があるわけではないのではないかという疑いが生まれたとしても何の不思議もないはずであり、その意味で言えばたとえば法の根拠の問題なども結局言語ゲームに関する問題なのではないかという気がしてくるわけですね。この疑問が一度でも生まれてくると、果てはモラルスタンダードの相対化に繋がるのであり、まさに60年代以後特にカウンターカルチャー以後は、この相対化が徹底化され、現在ではそもそも映画の中でモラルスタンダードが問題になることすらなくなっているわけです。このような時代の流れは、たとえば泥棒映画で泥棒が成功するか否かにもよく現れていますが、これについては「ミニミニ大作戦」(1969)や「ホット・ロック」(1972)のレビュー或いは「タイトル別に見る戦後30年間の米英映画の変遷」の「泥棒映画の転回点 《ホット・ロック》」に書いたので、ここでは繰り返しません。というわけで、このポピュラーな作品を見直して思ったことは(ポピュラーである理由は映画の内容そのものよりもマックス・スタイナーの手になる不朽の映画音楽スタンダード「夏の日の恋」に由来するわけではありますが)、モラルスタンダードそのものよりもそれがあることにより醸し出されるあいまい性を強く感ずるということであり、或る意味ではそこには時に意図せぬ滑稽ささえあるということです。殊にコンスタンス・フォード演ずるサンドラ・ディーの母親などは、意図せずしてコメディ的であるとすら言えるでしょう。さて、この作品を取り上げる上でもう1つ言及しておきたいことがあります。それは、作品そのものに関してというよりは、メインキャストの一人であるサンドラ・ディーに関してです。彼女は残念ながら一昨年亡くなりましたが、その時まだ60をまわったばかりであったのは特筆すべきことではないでしょうか。何が特筆すべきことかというと、彼女が活躍したのは1950年代後半から1960年代前半にかけてであり、かなりの期間はいまでは神話の領域に属するマリリン・モンローの活躍期間とも重なるのであり、その彼女がまだ60そこそこであったという点です。現在でも映画に顔を出し彼女よりも年上のフェイ・ダナウエイは、彼女が引退する頃にデビューしたという事実からも、いかに彼女が若くしてデビューしたかが分かります。しかし、彼女はいわゆる子役ではなかったのであり、ここが彼女の極めてユニーク且つ現代的な点であったと言えるように思います。シャーリー・テンプルの例を挙げるまでもなく子役の存在は映画史上かなり早い時期から存在していたのに対し、いわゆる思春期(adolescense)を体現する俳優さんの出現はかなり遅かったのではないかと思われ、確信はありませんが女優さんで言えばサンドラ・ディーあたりがその嚆矢なのではないでしょうか。たとえて言えば、日本の歌謡曲の世界で森昌子、桜田淳子、山口百恵という三羽烏(ではなく三人娘ではなく三バカトリオでもなく何と言っていたか忘れてしまいました)が1970年代前半に登場し果たした役割と同じであり、中学生、高校生がいわゆるスターの座につくのが一般的になるのは、芸能界なら芸能界がある程度成熟してから許容できることなのですね。大人が見る映画で子役が主役であってもさ程不思議はなかったとしても、思春期のスターの存在は思春期のオーディエンスがまず第一前提になるはずであり、それが一般的になるにはある程度時間がかかるということであり、そのようなうまいタイミングで出現したのがサンドラ・ディーという女優さんではなかったのかなということがここでは言いたいわけです。その意味では、これも比較的近年亡くなったトロイ・ドナヒューにも青春スター的なイメージがあったのかもしれませんが、但し彼はこの作品に出演した頃はとっくに20才を過ぎていました。ということで総括すると「避暑地の出来事」は、やはり現在の目から見ればいかにも1950年代の作品という雰囲気にありありと満たされた作品ですが、但しそれは必ずしもそれがマイナスであるというばかりではなく、当時のものの見方が反映されているという点では興味深い点も多いのですね。ただ良く考えてみると、1950年代の半ばに製作された「理由なき反抗」では、最終的に誰が排除されるべきか(サル・ミネオキャラクターやチキンレースで海の藻屑となる不良)又そうでないか(ジェームズ・ディーンキャラクター)が明確であり且つ排除された者に対する制裁が死という形で明瞭に示されていてモラルスタンダードに関しては極めて明瞭な輪郭が維持されていたのに比べると、1950年代も終盤に製作されたこの「避暑地の出来事」ではモラルスタンダードがテーマとして明瞭に提示されているようでありながらも前述したように結局本質的な面では極めて曖昧な側面を含まざるを得ない結果に終わっているのは、既に60年代以降のモラルスタンダードの相対化がそこには萌芽的に含まれているからとも言えるかもしれません。まあ最後に一言付け加えると、いずれにしてもマックス・スタイナーの音楽は不滅であり、これのみでも少なくともタイトルのみは永遠に記憶されるであろう映画であることに間違いはないでしょう。


2007/03/17 by Hiroshi Iruma
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