ミニミニ大作戦 ★★★
(The Italian Job)

1969 UK
監督:ピーター・コリンソン
出演:マイケル・ケイン、ノエル・カワード、ラフ・バローネ、ロッサノ・ブラッツィ

上:軽やかに逃走する3台のミニクーパー

今年(2003)前半、当作品のリメイクが公開されていました。昨今のハリウッド産誇大妄想アクション映画と本質的に何の違いもないリメイクバージョンを見ていると、余計にオリジナルのユニークさが分かりました。オリジナルの本質は、イギリス的なユーモアとミニクーパーの逃走シーンに象徴される軽やかさにあるのです。そもそも、イタリアの大都市で交通渋滞を引き起こし、ドサクサに紛れて金の延べ棒をかっさらうというアイデアそのものがいかにも現実離れしていて滑稽ですらあります。リメイク版の名誉の為に付け加えておくと、さすがに今日ではいくらイタリアであるとはいえども、そのようなシーンのロケに許可は下りないでしょう。では、どこが現実離れしているかというと、交通渋滞を引き起こすことは無秩序を引き起こすことであり、それは無秩序を利用して泥棒を働こうとする側にとっても無秩序であることを意味し、そのような中で緻密な計画的犯罪を目論むことは現実的には不可能だからです。一言で云えば、明らかな論理的不整合があるということです。従って、泥棒映画によくある緻密な泥棒シーケンスに焦点が置かれた作品、言い換えると最大限許容可能な論理的整合性の範囲内でいかに奇想天外な泥棒シーンを見せるかに焦点が置かれた「トプカピ」(1964)や「盗みのプロ部隊」(1967)のような作品とは異なり、「ミニミニ大作戦」は、たとえばノエル・カワード演ずる芝居がかったキャラクターなどのアメリカ人には到底思い付かないであろうイギリス流の滑稽なキャラクターと、ミニクーパーが象徴する軽やかな逃走に焦点が置かれた作品なのです。というわけで、作品のハイライトは、見たことがある人であれば誰でも知っているように、クインシー・ジョーンズの軽快な音楽に乗って3台のミニクーパーが華麗且つ軽やかに逃走する爽快なシーケンスにあります。しかも、このシーケンスはイギリス流の一捻り二捻りされたユーモア感覚で味付けされており、従って、たとえば「なぜあんな体育館のような建物の屋根にわざわざ登るのか(上掲画像参照)?」、「なぜわざわざ走行中のトラックに、ミニクーパーを収納しようとするのか?一旦トラックを止めて収納すればよいのでは?」などと言わないようにしましょう。リメイク版には、このようなユーモアと軽やかさが全く欠けていて、いわば一番肝心なオリジナルのスピリットが全くリメイクされていません。リメイクにマイケル・ケインがカメオ出演していないのもよく分かる気がします。ところで、オリジナルは60年代末に公開された作品であり、面白いことに泥棒が実際に成功したか否かがはっきりとは分からない極めて曖昧なエンディングで終わります。60年代以前の泥棒映画で泥棒が成功する例は個人的に知る限りでは皆無であるのに対し、70年代以後になると成功率が次第に高くなり、90年代以後の泥棒映画では逆に失敗することが皆無になる傾向があります。そこには、明らかにモラル観の変遷が見て取れます。そのようなモラル観の変遷の中にあって、60年代も末に公開された「ミニミニ大作戦」の中では、泥棒を映画の中で成功させることを当時のモラル観が抑制してしまうか否かが、どちらともつかない曖昧な形で現れているのです。そのような視点で、「ミニミニ大作戦」の前後に公開された泥棒映画のエンディングに注目してみると、メインストーリーよりも興味深いところがあります。たとえば、1967年に製作された「盗みのプロ部隊」では、プロの泥棒達は折角盗み出したダイヤを通りすがりのひったくりにあっけなくひったくられてジエンドになります。要するに、なくても一向に構わないシーンが付け足されていることになりますが、なくても構わないシーンがわざわざ付け足されているということは、裏を返せばそこに製作者のモラル観が反映されていると見なすことができるのです。70年代の初期に公開された泥棒映画「ホット・ロック」(1972)では、ダイヤ泥棒(ロバート・レッドフォード)が、盗んだダイヤモンドを手にして軽やかにステップを踏んでいるシーンでジエンドになります。従って、最終的に泥棒は成功したことになります。しかしながら、「ホット・ロック」では、一端盗み出したはずのダイヤモンドを回収するのに四苦八苦する様子が全体上映時間の2/3近くを費やして描かれ、泥棒シーケンスそのものよりも重視されています。ラストシーンでロバート・レッドフォード演ずるダイヤ泥棒が軽やかにステップを踏んでいるのは、ダイヤを盗み出すことに成功したこと自体を喜んでいるよりも、ダイヤを盗んだおかげで次から次へと発生し始めたトラブルの連鎖をようやく断ち切れたことを喜んでいるのです。つまり、泥棒実行はストーリーのトリガーに過ぎないということです。ということは、「ホット・ロック」においても、現在の泥棒映画のように映画の中で泥棒が成功することが当たり前であるとは考えられていなかったが故に、ダイヤ泥棒を最終的に成功させる為にプロットに大きな捻りが加えられ、当時のモラル観に譲歩する為に婉曲化が行われているということです。かくして、年代順に「盗みのプロ部隊」(1967)、「ミニミニ大作戦」(1969)、「ホット・ロック」(1972)のエンディングを見比べてみると、60年代末から70年代の序盤にかけてモラル観の変化が徐々に起っていることが分かります。


2003/11/01 by 雷小僧
(2008/11/11 revised by Hiroshi Iruma)
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