楡の木陰の欲望 ★★☆
(Desire Under the Elms)

1958 US
監督:デルバート・マン
出演:アンソニー・パーキンス、ソフィア・ローレン、バール・アイブス、フランク・オバートン

左から:ソフィア・ローレン、アンソニー・パーキンス、バール・アイブス

言うまでもなく、ユージン・オニールの戯曲の映画化ですね。言うまでもなくなどと偉そうなことをついつい口走ってしまいましたが、そもそもフィクションをあまり好んで読んではこなかった私めは(プー太郎になった現在は時間があるので、この状態を是正すべく日夜鋭意努力中でありまする)、実は戯曲となるとそれ以上に縁が薄く、オスカー・ワイルドやイプセン或いはチェーホフを少々読んだくらいでそれ以外はほとんど全く読んだことがありません。情けないことにシェークスピアですら現在でも読んだことがないのですね。しかも、オスカー・ワイルドなどは、「The Importance of Being Earnest」(1952)というワイルド原作の映画作品があまりにも素晴らしいので、Penguin版の戯曲集とWordworthのお徳用作品集を買って読んだという体たらくです。のっけから脱線しますが、Wordworthのお徳用作品集というのはプー太郎になっておゼゼを無駄には出来ない私めには実に有難い存在です。たとえば、現在私めはこのWordsworth版の「The Complete Novels of Jane Austen」を読んでいますが、この本にはジェーン・オースティンが書いた多分全ての長編小説6作品が含まれ、ななななんとお値段は確かソフトカバー版については10ドルちょっとであったと思います。日本でジェーン・オースティンの長編6作を揃えようとすれば、恐らく1万円近く或いはそれ以上かかるのではないでしょうか。今ではamazon.co.jpなど国内のオンラインサイトから簡単に日本の店頭にはない洋書も入手でき、しかもamazon.co.jpの場合1500円以上買えば送料無料なので彼我の値段の差は歴然となります。但し、amazon.co.jpから送料無しで買うよりも、直接amazon.comから送料有りで買う方が安くつく場合も多く、私めは洋書を買う場合は常に国内サイトでの販売価格と海外サイトでの販売価格を比較し、基本的には安そうな方のサイトから買うようにしています。尚、Wordsworth版の欠点は、あまりにもゴツすぎて持って歩くことはおろか、寝そべって読むなどという怠慢な態度ではとても読めないことです。それから、解説類は一切ありません。しかし現在では、解説を読みたければインターネットで個人の研究サイト、大学の機関リポジトリ、国立情報学研究所サイトなどから希望の作者や作品について書かれた関連記事、関連論文を無料でダウンロードできるので無くても大したマイナスではないのですね(但しGoogle Scholarのようなキーワードで検索可能な機関跨りの統一的な検索エンジンが本格的に整備されない限り検索が大変であることは云うまでもありません)。脱線ついでに付け加えると、DVDプロダクトについては、検索しても出てこないので国内サイトからアメリカの製品を購入することはできないようです。これは何故かというと、法的な規制か業界自粛規制なのか分かりませんが、どうやらアメリカではDVDを国外で販売することが禁じられているからのようです。ディスクに張られたラベル上に北米以外での販売を禁じた警告が書かれているのを時折見かけることもあり、発想的にはリージョン・コード同様アメリカ国内の業者の保護が目的なのでしょうね。以前ラベル上に書かれたそのような警告を見て、もし本当に買えなくなったならば涙がチョチョ切れるどころか悶絶して部屋中転がりまくらなければならなくなるにも関わらず、「それなら何で日本人の私めがこれを今手にしておるんじゃ?もしかしてアマゾンたるお方が違法販売をしているのかな?」と一瞬疑問に思いましたが、よくよく考えてみれば日本からインターネット経由で接続してアメリカのサイトからお買い物をしているので問題はないのでしょう。つまり購買者の国籍やどこに住んでいるかが問われているわけではないということであり、このような件からもインターネットの世界がいかに従来の規範を逸脱しつつあるかが窺いしれるというものです。まあ、海外にサーバを置いて日本語でポルノサイトを立てれば(そもそもポルノに言語はあまり関係ないでしょうね)、インターネットが生活の一部になってしまった以上国内のポルノ規制などほとんど無意味化してしまうということですね。難しいと同時にワクワクする時代になったものです。というわけでいつものように脱線が脱線を呼びましたが、話を元に戻すとオニールの作品に関しても映画化で見たことがあるに過ぎません。演劇に関してはそのようなわずかな知識しか持っていない私めであるとはいえ、アメリカの演劇と云えば、ほとんど20世紀に入ってから隆盛を見るようになったということもあってか有名な作品の多くが映画化されているような印象を持っています。作家で云えば、ユージン・オニールの他にはテネシー・ウィリアムズやアーサー・ミラーが代表格でしょう。しかも面白いことに、アメリカの演劇は家族関係が常にテーマ或いは少なくともダシになっているようにも思われます。勿論、イプセンやチェーホフの戯曲も家や家族がテーマになっている作品が多いようなので少なくとも近代以後の演劇自体にそのような傾向があるのかもしれませんが、しかしアメリカの演劇(というか正確にはアメリカの演劇の映画化ですが)を見ていると、家族がテーマであるとはいえども実は家であるとかファミリーであるとかいうような集合体をベースとして個人が語られるというよりは、全く逆に個人のエゴを描くのに家やファミリーのような集合体が利用されているような印象があります。たとえば、テネシー・ウィリアムズの「欲望という名の電車」(1951)や「熱いトタン屋根の猫」(1958)及びモンロちゃんの旦那であった時期もあるアーサー・ミラーの「セールスマンの死」(1951、1985)などがまさにその典型でしょう。ここが、演劇ではありませんが、E・M・フォスターの映画化などのイギリスの文芸もの映画化作品と大きく異なるところです。つまり、イギリス作品の場合には、家、階級、社会、文化などの集団的な価値が先に来るのに対して、アメリカ作品の場合には、たとえ集団的な価値が取り上げられているように見えても個人の存在が常に或いは少なくとも最終的には前面に踊り出てくるということです。そのような傾向は、ユージン・オニール原作のこの「楡の木陰の欲望」にも明瞭に現れています。というよりも、かたやバール・アイブス演ずるビッグダディ(という呼称は「熱いトタン屋根の猫」でのバール・アイブス演ずるキャラクターの愛称ですが、ここでもそのように呼ぶことにします)が所有する農場を誰が相続するかという点を巡ってストーリーが展開するにも関わらず、実はそれを巡っての三人の主要登場人物達の複雑な愛憎劇を描くことが最終的には焦点になるという点において、ミラーやウィリアムズ(の映画化)以上にアメリカ演劇的な特質が顕現しているものと見なすことができるように思われるからです。そもそも農場の現在のオーナーであるビッグダディは、彼にとってはヘナチョコに見えるアンソニー・パーキンス扮する末弟のイーブン(兄貴達はオヤジに叛旗を翻してゴールドラッシュに湧くカリフォルニアへと立ち去ってしまいます)に農場を相続するくらいならば、元の原野に戻した方がマシであるとさえ思っているくらいです。そこで気が付くことは、開拓時代のアメリカでは常に良い土地広い土地をもとめて西部へ西部へと向かうモーメンタムが働いていたので、親が子に農場を継ぐことは必ずしも旧大陸でのように本質的な事柄であるとは見なされなかったのではないかということです。つまり、家や土地を中心とした家系よりも、まず個人が第一の事業主であると見なされるような傾向があったのではないかということです。そのような開拓精神の伝統(と言うとやや逆説的な言い方になりますが)があるが故に、集団が扱われながらも個人が前面化するというアメリカ演劇の特質も生まれてくるのではないかという類推が必ずしも大きく的をはずしているわけではないように思われます。それはそれとして、更にストーリーを追ってみましょう。70歳をとうに過ぎたビッグダディがうら若き娘アンナ(ソフィア・ローレン)を嫁にし子供さえ生まれますが、実はこの子供はイーブンの子なのです。ところがイーブンは後になって、アンナは自分から農場を奪う為に自分に子供を生ませたのではないか、すなわち自分は利用されたのではないかと疑い始めます。アンナは、この或る意味でもっともな彼の疑いを晴らすために、生まれたばかりの赤ん坊を窒息死させ、大きな悲劇を生んでしまいます。驚愕したイーブンは一旦はシェリフに知らせに行きますが、結局彼女と運命をともにすることを決意します。このような展開には極めて興味深いものがあります。というのも、農場の相続というテーマは結局は、云ってみれば連立方程式中の媒介変数のようなもので、最後にきれいさぱっぱりと打ち消されてしまったという印象を残すからです。勿論イーブンにもアンナにも自分こそが農場を相続する資格を持っているはずだという欲望を最初は抱いていたのは間違いがないはずであり、アンナがイーブンを利用しようと考えていたのは一体どこからどこまでなのかを決定するのは困難であるとはいえ、それにも関わらず最後にはその欲望が打ち消され全く別の解が突如オーディエンスの眼前に現われるのがこの作品のミソだと考えられます。イーブンとアンナがシェリフに曳き立てられて行った後で、最後に一人残ったビッグダディが、相続する人の誰もいなくなった農場にある大きな楡の木の下で孤独に立ち尽くしているラストシーンは象徴的且つ印象的であり、相続すべき農場とはもともと空であったのではないかという気にすらなりますね。楡の大木とは家や家系という旧大陸的な伝統的な価値観の象徴であるとも見なせ、その木陰で繰り広げられる個人間の欲望のせめぎ合いは、最後には楡の大木と老い先短いビッグダディだけを後に残します。しかし、伝統は相続するものあっての伝統であり、楡の大木も大木のようなビッグダディも孤立化しては何の意味もなくなるわけです。アメリカ演劇(の映画化)においては、このような根無し草的な欲望が主題として扱われていることが多く、作品全体が一種独特な雰囲気に充たされているケースがしばしばあります。それは、オニール、ウィリアムズ、ミラーの映画化作品を見れば(或いはリリアン・ヘルマンなどの映画化作品の多い戯曲作家にも当て嵌まります)、恐らく原作者が誰かを知らなかったとしても20世紀アメリカ産の戯曲が原作であると簡単に推測できる程であると云っても過言ではないほどです。監督しているのは、「The Bachelor Party」(1957)、「旅路」(1958)、「Dear Heart」(1964)という個人的に大好きな三作を監督しているデルバート・マンで(因みに最もポピュラーな作品はオスカー受賞作「マーティ」(1955)でしょうが個人的にはあまり見ることがありません)、ここもお得意の領域であることもあってさすがに手堅くまとめています。「熱いトタン屋根の猫」でビッグダディを演じたバール・アイブスは、「熱いトタン屋根の猫」の時のような大家族の家父長的イメージはないとはいえここでも似たような威圧的で瞬間湯沸し器的な父権キャラクターを演じており、はまり役と見なして良いのではないでしょうか。プレノーマン・ベイツ時代のアンソニー・パーキンスは、ここでもオヤジよりもお袋の教えを信ずるお母ちゃん子を演じていて、それ自体問題はないとはいえ、うむむ!やはり将来が案じられます。ソフィア・ローレンは、前半こそイタリアンキャラクターが滲み出る見せ場がありますが、まあそもそも白黒映画向きではなく彼女にしては随分と地味に見えます。


2008/05/22 by Hiroshi Iruma
ホーム:http://www.asahi-net.or.jp/~hj7h-tkhs/jap_actress.htm
メール::hj7h-tkhs@asahi-net.or.jp