旅路 ★★★
(Separate Tables)

1958 US
監督:デルバート・マン
出演:リタ・ヘイワース、デビッド・ニブン、デボラ・カー、バート・ランカスター



<一口プロット解説>
イギリスの或る田舎町のホテルに集まる人々の、銘々の銘々に対する関わり合いを描いたドラマ。
<雷小僧のコメント>
人間ドラマというと、どうしてもテネシー・ウイリアムズの戯曲に基く映画、たとえば「欲望という名の電車」(1951)であるとか「熱いトタン屋根の上の猫」(1958)が真っ先に思い浮かんでくるのですが、確かにこれらの映画は名作なのでしょうが、時に余りにもヘビーというかくどい印象を与えるように思います。どうも1回見ると少なくとも数ヶ月の間隔を置かないとちょっと再び見る気がおきないというのが、私目の正直な感想です。人間の赤裸々な真実を暴くなどという三文週刊誌のタイトルにでもなりそうなフレーズがまさにピッタリくるような内容を、そう繰り返して始終見ることが出来る人は、きっと鋼鉄の神経をしているに違いありません。これに対して「旅路」は確かに扱っているのはまさに人間ドラマそのものですが、非常に扱いが繊細なのですね。要するに、扱っている主題はテネシー・ウイリアムズの戯曲のように虚偽だとか見栄だとかそういうネガティブなサイドが色濃く出ているのですが、油ぎったどぎつさが抜かれていて取扱い自体がナイーブであり何というか気品さえあるのですね。何となく、日本人的な感覚に非常に近いような気さえします。これは、たとえば同年に制作された「熱いトタン屋根の上の猫」が人間のネガティブな側面を生のままで直接にというか誇張して描いているのに対し、「旅路」では逆に自分のネガティブな側面を見せないようにする努力の内にネガティブな側面が透けて見えるように描写するというような少々ややこしいマイナスアプローチを取っているという相違から発生しているようにも思われます。そういうわけで、この映画の登場人物は自己のネガティブな側面について自分でよく知っているのですね。デビッド・ニブンが、多弁にしゃべり、自分の身分を偽り、映画館で猥褻行為に走るのは、デボラ・カーに自分で告白するように自信のなさの裏返しであるし、リタ・ヘイワースが虚栄に走るのも、最後の方のシーンにおいて自分でバート・ランカスターに打明けるように孤独に対する恐怖感からなのです。また、デボラ・カーも抑圧的な自分の母親の影響で自身を抑圧していることをヘイワースに打明けます。まあバート・ランカスターを除けば皆言わば内省的な人物として描かれていると言えるでしょう。
このような言ってみれば非常に繊細でガラス細工のような人物を演じるのが大変困難であろうことは容易に推察出来るのですが、出演しているのはベテラン俳優ばかりであり、皆見事にそれぞれの役を演じているように思われます。この映画によって、デビッド・ニブンとウエンディ・ヒラーはオスカーを受賞していますし、デボラ・カーもノミネートされていますが、それがその何よりの証拠になるでしょう。デボラ・カーなど前年にあの「めぐり逢い」(1957)で女性の憧れそうな役(かな?)を演じたかと思うと、この映画では世間を知らないオールドミスというような絶対に女性が憧れるはずがないであろうことが男の私目にも一目瞭然であるような役をいとも簡単に演じてしまうのですね。何せ、最初に見た時には、声を聞くまでデボラ・カーであることが分からなかった程です(写真中央参照)。いずれにしても、このタイプの映画が最近は本当に作られなくなったなという実感があります。淡々としたプロット展開の中で登場人物達がそれぞれ銘々の行動を行ないながら、少しずつ少しずつドラマが展開していく様子は、何か気品のあるワインでも飲んでいるような(そういえばそんなもの飲んだことなかったかな)、淡白且つ豊潤な味わい(撞着していますね)があり、私目は非常な魅力を感じますね。

1999/04/10 by 雷小僧
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